102.愛しているか分からないけれど

「家族を愛するのは当然だ」


 お父様はそう言いながら、眉尻を下げた。少し悲しそうな顔は、守れなかった後悔かもしれない。


「僕はお礼を言われる価値がない」


 お兄様は目を伏せて、唇を引き締めた。厳しい表情で黙った後、ぽつりと言葉が溢れる。


「僕がもっと早くリチェの不遇を伝えていたら、父上は動いてくれた。分かっていたのに、あの馬鹿がやらかして婚約が解消される期待を抱いたんだ」


 誰も口を開かない。


「リチェを愛している。だからこそ、言わなければいけなかった。それに、君の悪い噂が流れた時、僕はひとつだけ信じた」


 首を傾げて待つ。言葉を呑んだお兄様の続きが知りたい。見つめる私から目を逸らし、ぐしゃりと乱暴に髪を乱した。そのまま握り込む。


「君が王太子妃の座に固執している、と。そんなことあるわけないのに、僕の気持ちを逆撫でする噂に惑わされた」


 王太子フリアンではなく、王太子妃……未来の王妃という地位に執着を抱いている。だからフリアンの浮気相手トラーゴ伯爵令嬢へ、冷たい態度を取るのだと。そう言われて、王位に就けない自分の生まれを呪った。


 側近の座を捨てた後も、その噂が呪いのように頭から離れなかった。動くのが遅れたのは、それも影響している。お兄様はそう締めくくり、両手を組んだ。指を絡めて、指先が白くなるほど強く……。お兄様の絶望を示すように、その力は緩まなかった。


「お兄様」


 立ち上がった私は、お兄様の前へ歩いた。伸ばした手で、血の気が失せるほど組まれた手を撫でる。物言いたげな視線を向けた祖父が、結局何も言わずに首を横に振った。


 どんな理由があれ、孫娘を傷つけた一端を担った。そう言いたいのでしょうね。それもまた事実よ。でもお兄様は私を愛している。過去の私がどう思っていたのか、それは不明だけれど。日記をもっと遡れば、真実が見えてくるのかしら。


 すっと白檀の香りがした。お兄様がこの香りを纏ったのは、王太子だったフリアンが浮気を公表した時期。心境の変化が影響したのだろう。


「顔を上げて、お兄様」


「僕はっ、許されない失敗を」


 ぽろりと涙が溢れた。ハンカチを取り出さず、指先で拭う。お兄様の頬を濡らす雫を二回ほど拭って、両手で頬を包んだ。正面から視線を合わせ、逃がさないように捉える。


「それでも、助けようとしてくれたでしょう?」


 記憶がふわりと掠めていく。夜会の広間から連れ出され、客間に押し込まれた。混乱と動揺で泣き崩れた私を助けようと、扉の外で騒ぎを起こしたのはお兄様だわ。あの後何が起きたのか知らない。でも、フリアンの側近達が入って来た時、風が動いた。


 同じ白檀の香りを纏う人物は、あの場に誰もいなかったのに。お兄様が私のために尽力してくれたことも、愛してくれる気持ちも疑わない。ただ、すべてが悪い方向へ転がっただけ。


 私がお兄様を愛していたか、それは思い出せないけれど。家族としての愛情は抱いている。今はそれだけしか返せなくて、ごめんなさい。


 額を押し当てるようにして話し、私はぎこちなく微笑んだ。目が覚めて記憶がないと自覚して、ただ怖かった。誰も味方のいない場所に放り込まれたようで、疑いばかりが先に立った。疑心暗鬼に駆られた私は、さぞ嫌な女だったでしょうね。


 全部を思い出せないけれど、この感情の意味も分からないけれど。それでも、やはり浮かんでくるのは「ありがとう」の一言だけ。


「リチェ、生きていてくれて……ありがとう」


 お兄様の声は震えていた。

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