怪ノ四十一 廊下は走るな
中学二年の春、用務員の伊藤さんがしばらく休養することになって、新しい用務員さんがやってきた。
伊藤さんは気さくなおじさんで、よく僕たちの前に姿を現しては、挨拶をしてくれたり、話をしたりしてくれた。だから伊藤さんが急な病気で倒れたと聞いたときは、心配したものだ。
数カ月の長い入院中、代わりに来てくれた用務員さんは、腰の曲がりかけた老人だった。それだけなら、特に気にせずに過ごしたことだろう。
だけども、彼のことを好きになれそうにないとすぐに気付いた。
ただ老人というだけではないくらい姿勢が悪く、僕たちのことを監視するようにじっと見つめていた。特に廊下の端からじっとこっち側を眺めている様は、異様というほかなかった。
女の子たちのなかには「気持ち悪い」と言う子までいた。
「廊下は走るもんじゃないよお。ウフ、ヘッヘッ……」
その笑い方が妙にじっとりとしていて、僕らは嫌悪感を抱いたのだ。
それでもたった数カ月の辛抱だからと我慢していた。
用務員さんは時折、誰か適当な子供を物色しているように見えた。見えるだけではなく、あいつはだめ、こいつはだめ、とぶつぶつ言っているのが時々聞こえたのだ。
なんだか値踏みされているようで、僕らは先生に愚痴った。
「まあ、伊藤さんが戻ってくる間のことだから」
先生はそう宥めたが、たぶん、先生たちの中にも気味が悪いとおもっている人もいたのだと思う。そうでなければ、そんなことは言ってくれないはずだった。
そんな用務員さんが、僕に一度だけ話しかけてきたことがある。
確かその時は、総合学習の時間のためのプリントを作るために、僕だけ居残っていたのだ。プリントを作るといっても、内容を作るわけじゃない。先生があらかじめ作ってくれたものを、人数分まとめて本にするのだ。
総合学習のまとめ役はもう一人いたが、偶々何かの都合で休んでいたのだと記憶している。
早く終わらせて帰ろうとは思っていた。
本を入れたダンボールは、小さいけれども意外に重い。こういう時にカバンがリュックサックではないのを恨む。
とっとと職員室に向かおうと廊下に出た、その時だった。
「居残りかい」
振り向くと、用務員さんが廊下のど真ん中に突っ立っていた。思わずどきりとする。
曲がった腰で、下卑た笑い顔を向けている。
「はい。……さようなら」
何か言わないのも変だと思って、軽く頭を下げ、挨拶だけして歩きだした。
足早にその場を去ろうと、階段のところまで歩く。
後ろからはひたひたと気配がついてくる。
まあ、教室の見回りをしているのなら気にすることもないだろう、と極力気にせずに歩きだした。けれども、用務員さんはひたすらひたひたと僕の後をつけてくる。
少しだけ端に寄って、段ボールを直すふりをする。
だけども、そうすると用務員さんの足音もぷっつりと途絶え、また僕が歩きだす頃になるとひたひたとついてくるのだ。
「走るなよ。走るなよ……ひひひ」
嫌な笑いだ。
この廊下はこんなに長かったか、というような気分になってくる。
廊下は走るな。
そんなの当たり前だ。
それに、急ぐ理由なんて早く帰りたいくらいだ。
用務員さんはぶつぶつと後ろで何か呟いていた。
気味悪くなって耳をすませて、何を言っているのか聞きとろうとした。
「走ったらどうなるか。走ったらどうなるか……」
僕のことを言いつけようとでもいうのか。
でもおあいにく様。そんな目に見えた脅しには僕は屈しない。僕は長い廊下をひたすら歩き続けた。
「ひひ、ひひひ……」
笑い声は次第に近づいてくるようだった。
それでも、一定の間隔をあけてついてきている。
シャキン。
声に混じって、妙な金属音が聞こえることに気が付いた。
シャキン。
シャキン。
シャキン。
音は次第に大きくなっていった。
段ボールを抱える手がじっとりと汗ばんでくる。髪の間から今にも落ちそうな汗が気持ち悪い。
だがそれ以上に、背後からぴったりくっついてくる用務員さんへの不安が大きかった。
一体何を持っているんだ。
「ふひ、ひ、ひ、はし、はしる、はしれ、走れえ……けへっ、けへっへ」
シャキン、シャキン、シャキン、シャキン。
興奮がこちらにも伝わってくる。
今にも気味の悪さで走りだしてしまいそうだった。
僕は慎重にようやくたどりついた階段を降りていく。それでも緊張はなくならなかった。
下まで続く階段をくだっていく中、あの音がずっと上から響いていたからだ。僕の後ろをついてきているのか、それとも反響で大きくなっているのか――僕にももうわからないままだった。
心臓の鼓動が高鳴り、今にも走って飛び降りたくなる。職員室の中に一目散に逃げ込みたかった。
三階、二階、そして……。
一階。
目の前に職員室が見えてくる。
普段ならば入りたくないような場所だが、今はここに入りたくて仕方なかった。
あと数メートルが異様に長く感じる。
ひたひたと後ろをつける音。
シャキン。
すぐ後ろで音が聞こえたとき、僕はそっと職員室の扉をノックした。
「失礼します」
震えながら扉を開けると、冷房の効いた部屋の風が僕を撫でていった。
汗びっしょりになった僕を見て、先生は目を丸くした。
「どうした? そんなに重かったか?」
「いえ……」
僕はようやく後ろを振り向いた。
「最近だとすぐ暑くなるからなあ」
そこには老人はおらず、代わりに先生たちがいまだ忙しく働いていた。
僕は息をひとつ吐くと、倒れこむように先生の机に手をかけた。
「おい、大丈夫か?」
それからの記憶は僕にはない。
歩いて帰ったのか、迎えに来てもらったのか……どうも判然としない。
だけど、ひとつだけ。
――のちに、妙な噂が流れたのは、覚えている。
あの老人は、本来頼んでいた人とは別人だということが発覚したのだ。
本来代打を頼まれていた人は、直前になって「別の人に決まったから」という電話を貰って、それ以来ぷっつりと連絡が途絶えてしまったと言っていた。
直接その声を聴かせてもらったわけではないが、そいつは奇妙な笑い声を発していたらしい。それはあの用務員をしていた謎の老人とほぼ一緒だったのではないか――そういう話だった。
なぜ交代しようとしたのか。
なぜ代打の用務員さんの連絡先を知っていたのか。
そしてなによりあの老人が誰だったのか。
今でも正体はわかっていない。
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