怪ノ二十六 猫の目

 仲本の近所には、猫が集う場所があった。

 いわゆる猫の集会場である。


 場所としては今時見ないような空地で、住宅地にそこだけぽっかり穴が開いているのだ。隣の家との境などは一応コンクリートブロックで仕切ってある、というぐらいで、ロープもひどく緩い。学校帰りの子供が偶に入りこんで雑草をつんだりしていたが、誰も持ち主を知らなかった。

 仲本は小学生たちに混じって、高校生になった今となっても、そこで猫を見る癖があった。

 そういうと、猫が好きなのかと思われがちだがとんでもない。

 仲本は猫が大嫌いだった。

 どれくらい嫌いなのかというと、存在そのものが不快だと答えるしかなかった。うるさいし、臭いし、追い払おうとしても居座る。盛りのついた晩などは、窓の外から聞こえてくる声に、耳をふさぎながらベッドにもぐりこむしかなかった。更に言うなら、猫を目当てに空地にやってくる小学生の声すら不快だった。

 彼らは仲本が家路につく四時半くらいからいすわっていたので、余計に苛々が募った。じろりとこれみよがしに睨みつけてやっても帰らない。

 つまりは仲本は家にいる間中、ずっと猫と子供の声に悩まされていたのである。


 とはいえ何もしなかったわけではない。

 夕飯時に、仲本は母親に訴えたことがある。


「なあ、母さん。あそこの猫がうるさいんだよ。どうにかしたいんだけど」

「どうにかって?」

「だから、毒餌を撒くとかさ」


 母親は目を瞬かせ、自分の息子の顔を見た。


「そんなこと勝手にできるわけないでしょ。だいたい、子供だっているのに間違えて食べちゃったらどうするのよ」

「だけど……」

「それに、あそこはちゃんと管理してる人がいるのよ。文句があるならその人たちに言ってくれない?」

「母さんは猫の声が気にならないの?」

「べつに。そんなことより、早く夕飯食べちゃってよ」


 母親はどうでもいいとばかりにテレビに目を剥ける。

 これ以上言ってもらちが明かないと、仲本はため息をついた。

 確かに、あそこの土地はちゃんと所有者がいるのだ。家や何らかの建物を建てない理由はわからないが、放置状態であるのは確かだ。人は一年に何度か来てはいるが、雑草を取り払ったらさっさと帰ってしまうのだ。後々何か建てる予定なのか、それとも遊ばせているのか定かではないが、いずれにしろ今どうにかしてくれない限りはたまったものではなかった。

 仲本の憂鬱が晴れることはなかった。


 その日も、仲本は猫の声に悩まされていた。

 季節は春。夜中の十一時をまわっても、盛りのついた猫たちの声がナァーゴ、ギャアー、と響き渡っている。

 仲本はベッドから起き上がると、財布とスマホをひっつかみ、猫の声から逃げるように部屋を出た。


 家族は早々に寝静まっていた。こそこそと泥棒のように家を抜けだし、近くのコンビニまで到達する。明るい店内で気だるげな店員の声に迎えられ、仲本はようやく安堵した。やる気のない店員や、隅の方で成人向け雑誌を立ち読みしている汚い風貌の男にすら親近感を覚える。このコンビニにいる者がみな、猫から逃げだしてきたような気さえする。

 だがそんなものは思いこみにすぎない。眠そうな店員は、早くどこかへ行っちまえと言いたげな視線を向けてくる。あいつは常にここにいるから、猫のことなど関係ないのだと仲本は思った。

 スマホと財布をジャージのポケットにねじこみ、適当に店内をぶらつく。買いたいものなど特に見当たらなかったが、適当な菓子を買いこむと、数百円の買い物をしてからコンビニを飛びだした。

 だが、帰りは憂鬱だった。

 帰り道には必ずあの空き地があったからだ。遠回りすることもできるだろうが、あまり抜けだしているのがバレてもそれはそれで面倒だ。とにかく数分でもいいからあの猫の声から逃れられたらよかったのだ。

 足が空き地に近づくにつれ、あの不快な鳴き声が響いてきた。

 ぴたり、と足をとめる。

 途端に猫の声がやんだ。

 人間がいることに気が付いたのだ。

 仲本は心の奥底からこみあがってくるものに耐えられなかった。

 こちらを睨むように見ている猫たちのテリトリーに、意を決したように踏みこむ。雑草だらけの空き地をざくざくと踏み進んでいくと、夜闇に光る眼が一斉にこちらを向くのが見えた。

 奇妙な緊張感があたりを包みこんでいく。風の音が、ザァッと草の間をすり抜けた。闖入者である仲本を警戒しているのか、一匹の猫が不審そうにじっと見ている。まだ子猫なのか、毛は逆立ち、牙を剥き出しにして威嚇している。その猫と目があった瞬間、仲本は何をするでもなくしゃがみこみ、手を差し出した。


「いてっ……!」


 指からぷくりと血が噴き出る。

 肉球の間から突きだした小さな爪がひっかいていったのだ。暗い空き地の中で必死に目をこらして、血の存在を確認したとたん、胸の奥底からふつふつと怒りが湧き上がってきた。


「こいつ!」


 仲本は気が付くと、猫をひっつかんでいた。

 猫は逃げだしてはいたが、うまく尻尾をつかんでいたのだ。驚きすらもあったが、仲本は尻尾を掴んだまま立ち上がると、辺りを見回した。コンクリートの壁が視界に入ったとき、少し逡巡したものの、仲本は震える腕で猫をコンクリートにぶつけていた。

 恐怖と不安が湧きあがる。やりすぎではないか――という罪悪感が少しくらいは残っていたのだ。

 猫はギャッと悲鳴をあげたが、その声をふさぐように、仲本は再び猫を振りあげて壁に叩きつけた。二、三度も叩きつけると、猫の声は次第に弱弱しいものになっていった。辺りにいる猫たちは一斉に逃げ出し、やがて空き地は静かになった。

 仲本はしばらく、ぽかんとしていた。

 なんだ、こんなことでよかったのか。

 こいつら、こんなにギャアギャア騒いでる癖に弱いんだ。

 仲本は猫の尻尾を掴むと、横のコンクリートに叩きつけた。悲鳴のような声があがったが、しばらくそうやっていると、段々と声も消えていった。うるさくない。

 爽快だった。

 バットでも振るみたいにして叩きつけてやると、悲鳴すらなくなった。これでいい。簡単なことじゃないか。

 だが、ぐったりした猫を改めて目にしたその時、急にハッと我に返った。


 こいつをいったいどうしたらいいのだろう?


 思わずやってしまったが、これを持って家に帰るわけにも、今どこかに埋めるわけにもいかない。指が土で汚れるのは避けたい。

 勢いで猫をビニール袋の中に隠すと、仲本はすぐさまその場を離れた。買った菓子については後でどうにかするとして、今のを誰かに見られるわけにはいかない。とにかくどこかに隠さなければという動揺で、仲本はこそこそと夜の街を泥棒のごとく駆け抜けた。

 頭の中が真っ白になりながら昔通っていた小学校のそばまで来たとき、フェンスに小さな穴が開いているのに気が付いた。思わず中を覗きこむ。

 暗いせいかよくは見えないが、向こうの方におあつらえむきに放置されたスコップが見える。

 仲本は高校生にしては身長が伸び悩んでいて、身をかがめればなんとか入れそうだった。そうでなくとも、無理やり体をねじこめば中に入れそうだ。


「……いい場所を見つけたぞ」


 仲本は苦労しながらも壊れたフェンスをかいくぐり、小学校の中に入りこんだ。辺りを見回して土の塊を見つけたとき、記憶がよみがえってきた。

 この土の山は昔からあるものだ。猫のフンや犬のフンが隠されているという噂話のせいで、子供のころから近づくものは少ない。今も同じ噂があるかどうかはわからないが、滅多に近づく者はいないだろう。スコップを手にとると、仲本は素早く土の山に近づき、穴を掘り始めた。

 足が出たり尻尾が出たりと苦労したものの、結局のところ、死体は土の山に埋まった。

 上出来だった。

 仲本はそっと家に戻った。

 誰か起きているのではないかと思ったが、幸いなことに誰もおらず、仲本は静かになった部屋の中でようやくぐっすりと眠れることができた。


 これでしばらく猫どももあの空き地に来ないだろう。

 それからの仲本の生活は快適そのものだった。猫の声は聞こえず、夕方くらいに残念そうな小学生の声が聞こえるだけだ。仲本はほくそ笑んだ。お前たちの見たいものは小学校にいると教えてやりたいくらいだった。

 だが、そんな平和も数日の間だった。

 下校中ににゃあ、という声を聴いたとき、心臓が飛び出そうなほどに驚いた。声となって口から出ることはなかったが、ぎくりとしながら空き地を見ると、そこには既に猫が戻ってきていたのである。

 仲本は不安とともに家に戻った。

 はたしてその夜、猫たちの声は戻ってきたのである。

 一度手に入れた平穏をこんなにもすぐに手放すことになるとは思わなかったし、異様な恐怖を感じていた。もうあの生活には戻りたくなかった。

 たった数日で終わってしまった日々がなんとも愛おしく、過ぎ去ってしまった日々への憧憬はあふれんばかりになっていた。

 こうなってしまっては、再び自分がやるしかない。仲本はすぐさま準備をはじめた。小学校のフェンスが直されていないのを確かめたり、専用のナイフを手に入れたり、毒餌を作ったりもした。血で汚れるのはどうかと思ったので、ナイフは最後の手段にすることにした。

 そうして頃合いを見計らい、仲本は空き地へとこっそりと赴いた。猫たちはそこにいて、再び現れた仲本を見つめていた。仲本は手ごろな猫を捕まえると、血を出さないように気を付けながら猫を一匹ずつ始末していった。

 そうしてビニール袋に入れた死体を手に、空き地を離れた。

 死体を隠す場所はいつも決まっていた。最初に猫を殺したときに隠した小学校の片隅だった。土の中は次第に死体でいっぱいになっていった。それでも小学校に死体を隠し続けたのは、意趣返しのようなものだった。

 子供に手をかけることができなかったというよりも、それ以前に、小学生たちが騒ぐのもすべては猫のせいだと思いこんでいたのである。猫さえいなくなれば、小学生たちが騒ぐこともないだろうと思いこんでいた。

 すべては猫のせいなのだ。


「最近、猫が減ったらしいわね」

「そうらしいね」


 母親の何気ない言葉に、仲本は僅かな誇りを胸に言った。喜びすらも内側に封じ込めて、気にしないようにつとめた。

 母親はあれほど猫を嫌っていた息子がそれほど喜んでもいないことを奇妙に思ったが、テレビのニュースでスーパーの万引き犯の特集をやりはじめると、そちらに没頭した。

 猫は確実に減っていた。

 目に見えてわかるほどに。


 仲本が猫を殺すのは、既に日課になっているといってもよかった。

 一か月で十匹。日課と言いきるにはほど遠いだろうが、それでも多いほうだろう。仲本は入念に準備を整え、そっと夜中に出かけていった。

 空き地の猫は減ってはいたが、いまだ猫会議とやらに出席する猫はいた。だが、その日も足取り軽く空き地を覗きこんだものの、猫は見当たらなかった。雑草をかきわけて空き地を入念に見渡す。さすがに懐中電灯を使うわけにはいかないので、光る目を見つけようと目をこらす。だが、その日に限っては一匹も出てこない。できるだけ動かずにそっと辺りを伺ったが、それらしいものは見えなかった。


 ――なんだよ、クソッ


 拍子抜けした。

 せっかくこれほど準備をしてきたというのに。それとも猫はもういなくなってしまったのだろうか。それならば、仲本の勝利といえなくもない。しかし、最後に有終の美が飾れない勝利は肩透かしのようなものだ。どんなスポーツだって、決勝戦を不戦勝で迎えてしまったらしらけるに違いない。

 肩を落として帰ろうとする仲本の耳に。


 ――にゃあ。


 猫の声が届いた。

 後ろを振りかえり、仲本は歓喜に震えた。まだ生き残りがいる。ということは、今からは狩りの時間だ。


「ふへ、へ、へへ、どこにいるんだあ、子猫ちゃん……」


 チッチッチ、と小さな舌打ちをして、向こうの警戒心を削ごうとする。

 この短い期間の間に、仲本は色々なことを学習していた。どうすれば猫に素早く近寄れるか、


 別のところから猫が見ていた。

 猫は一匹ではなかった。視線を動かすと、二匹、三匹、草むらに隠れて、それ以上の猫たちがみな仲本を見ていた。猫たちは仲本のまわりをぐるりと取り囲み、あちこちから目を光らせていた。


「なんだ、いつからこんなに……」


 仲本が気を取られた隙に、突然指先に痛みが走った。


「痛って!」


 思わず目の前の猫に目をやると、目を光らせたまま小さく唸っている。

 かみついたのだ。


「こいつっ!」


 ナイフを振りあげると、猫はたちまちのうちに暗闇に滑りこんだ。ナイフは虚しくも土にめりこむ。小さな舌打ちをしてナイフを抜きとり、どこに逃げたか視線を滑らす。

 すると、暗闇の中から小さな息遣いが聞こえてきた。

 フウーッ、フウーッ、という、猫の声。仲本はとうとう立ち上がり、後ろを振り返った。

 目の前には闇が広がっていた。そこに一つ、二つ、金色に光る目が仲本を見ていた。それはあっという間に増えていき、空き地どころか重なり合うようにして仲本の周りを囲っていた。


「えっ? ……えっ?」


 どこを見ても、二つの瞳は存在していた。前にも、後ろにも、左右にも。はっと気が付いて上を見上げると、そこからも多くの瞳が仲本を見下ろしていた。

 声なき猫の目が、あらゆる場所から仲本を見下ろしている。


「うっ……」


 仲本の悲鳴は夜の闇に吸いこまれ、ニャアニャアという叫びの中にあっという間に隠された。


 翌朝のこと――。


 それを見つけたのは、中年の新聞配達員だった。

 にゃあ――と鳴いた声に、なんとなしに空き地に目をやったときだ。猫よりも大きなものがガサガサと雑草を揺らしているのに気が付いた。


「なんだ、ありゃあ?」


 野良犬でも出たのかと目を凝らす。自転車から降りて、空き地に近寄る。いったいぜんたい何がいるんだと目を凝らして、新聞配達員は仰天して言葉を失った。

 そこには、虚ろな瞳で草むらから顔を出すジャージ姿の男がいたのである。


「……にゃあ。にゃあ。にゃあ」


 男は――仲本は虚ろな瞳で笑っていた。ナイフを持ったまま草むらに四つん這いになり、涎を垂らしながらにゃあにゃあと猫のように吼えたてていた。髪の毛は白い髪が混じり、ひきつった顔は一気に三十ほども老け込んだようだった。おかげで、しばらく仲本の身元がわからなかったぐらいである。

 仲本は保護された後も獣のように四つん這いのまま過ごし、立つことすらおぼつかなかった。やがて病院に入院したらしいが、どこの病院なのかは誰もが推して知るところになった。

 そのうちに仲本の家族はひっそりとその地から引っ越し、彼のことを思いだす者もいなくなった。


 ――にゃあ。


 ただ猫の声だけが、今日も空き地で以前のように鳴いていた。

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