怪ノ二十七 没収品
「これは没収」
竹下はそう言うと、赤いリップをポケットに入れ、スタスタと教壇に向かって歩き去っていった。
あっけにとられた女子生徒が茫然とその背を見る。
「それでは、授業をはじめます」
そして、教壇に立つ竹下は、こともなげに授業を始める。それが、この学校では見慣れた光景だった。
竹下は女教師としては――特に女子生徒にとっては最悪の部類に入った。それは授業の内容がどうこうという以前に、学業に関係のないものを何ひとつとして認めなかったのである。それは化粧道具や小さな鏡といったものから、時にぬいぐるみのキーホルダーに至るまで、多少やりすぎと思われるくらいまで行き過ぎていた。
彼女を避けるだけでは何ともならず、時にこうして授業前に抜き打ちで検査をしては、まったく取りあげる必要のないものまで持っていってしまうのだ。
だが、一年二組のその教室でははじめてのことだった。だからこそそんなものは大げさな噂くらいに思っていた矢先の出来事だったのだ。
「もう、最悪!」
休み時間になってから、女子生徒は憤慨していた。
「やだもう、唇カサカサする。あれ、色付きのリップクリームだったのに」
最近では、口紅を兼ねてつけられるリップクリームがかなり開発されている。彼女が持っていたのもそういうものだった。
「あー、あんまり触んないほうがいいよ。あと、新しいの買ったほうがいいかも」
「なんで?」
放課後になってから返してもらいにいこうとした彼女は、首を傾ぐ。
没収されたものは放課後に職員室に取りに行くことになっている。スマホやゲームなんかの値の張るものは、たいてい返してもらえる。それらのほとんどが授業中に隠れてやっていて没収されたものなので、説教つきではあるが。
「……いや、あの先生さ、変な噂あるんだよね」
「なに? 変な噂って」
「没収したものって、放課後に取りに行く必要があるって聞いたんだけどさ、あの先生って、没収したモノとか絶対返してくれないって」
「ああ、そういうこと?」
「や、それだけじゃなくて。あの先生、没収した化粧品とかアクセとか、自分で使ってるって話」
「ウソ! やだあーっ!」
信じられない、という意味をこめて叫ぶ。
「じゃあもう新しいの買おうかなあ。職員室もどうしよ」
「一応行くことは行ったほうがいいんじゃないの? ただの噂かもしれないし」
彼女が渋い顔をしていると、隣で青い顔をして突っ立っている女子の存在に気が付いた。
「そ、それ、本当?」
今の話を聞いていたのだ。
「ああ、酒井さんも取られちゃってたよね。何取られたんだっけ?」
「あ、あの……私は、お守りなんだけど……」
酒井サヤは申し訳なさそうに言ったが、同級生の同情は引いたようだった。
「うっそ。お守りぐらいいいじゃないのよ。ねえ?」
「うーん、安いものとかだったら、返してもらえなかったら買い替えた方がいいかもよ」
「う、うん……」
サヤはそう言って自分の机に戻る。後ろでは相変わらず話が続いていた。サヤは青白い顔で、今の話が本当かどうかを考えあぐねていた。
サヤが没収されてしまったのは、首からかけていた小さなペンダントだ。制服の下にしていたのを、偶々見つけられてしまったのだ。決して高いものではないのだが、高校の合格祝いに母親がプレゼントしてくれたものだった。その母親が不慮の事故で亡くなった今となっては、大切な形見にもなっていた。
そんなものをつけてくるほうが悪いといわれればそれまでだが、それでもネックレスをつけていれば、悲しみも癒える気がしたのだ。だからこそ、家族もサヤがそれをつけて学校へ行っても特に何も言わなかったのである。
サヤは授業が終わり、帰りのホームルームが終わった瞬間に、教室を飛びだした。
他の教室から騒がしく出てくるクラスメイトの間を駆け抜け、時にじろりと睨まれながらも職員室に飛びこむ。
きょろきょろと辺りを見回すと、竹下の姿はすぐに見つかった。
「あ、あのっ、没収されたペンダントを返してほしいんですが」
まさか自分がそんなことになるとは思ってもみなかった。肩で息をしながらも、できるだけ落ち着いて訴えた。竹下はしばらくサヤを見下ろしていた。口元に笑みが浮かぶ。優しげな、だが、その裏側にどこか意地の悪さを感じさせる笑みだった。
竹下は口を開くと、滔々とサヤに学業と無関係の物を持ってくる悪さを説いた。サヤは居心地の悪さを感じていた。
「だから、卒業式の時に返してあげるわ」
「そ、それは困ります! それ、母の形見なんです!」
「だからなに?」
あっけない無慈悲な言葉に、サヤは言葉を失う。
「だったら尚更持ってこないことよ。さあ、もう、帰って」
「先生、何もそんなに……」
他の教師が助け舟を出したものの、竹下は意に介さないようだった。
「あら、そんなことじゃ他の生徒に示しがつかないじゃありませんか。だいたい、没収した物だってその日に返してしまうから、後を絶たないんですよ」
結局、ペンダントは返してもらえなかった。サヤは失意の中で、ふらふらと学校を出て彷徨った。返してはもらえるらしいが、卒業式のときに? 家族にペンダントをとられたなどとは言えなかったし、卒業式なんて今から三年後だ。
サヤはいったいどうすればいいのか、じっと足元を見ながら歩いた。
「あぶない!」
だからだろうか。その警告は、サヤが気付くには遅すぎた。
横から来たトラックに反応した時には、既にサヤの体を衝撃が貫いていた。
――それから、数時間ばかり後のできごと。
竹下は鏡の前で、取りあげたばかりのリップを手にうっとりしていた。
教師というのはいい職業だ。こうしてタダで化粧品が手に入ることもある。竹下にとって学生たちが身分不相応に手にした化粧品を没収するのは、ただのストレス解消以上に、究極の節約でもあったのだ。大体、未成年の分際で化粧をしようなどと十年早いのだ。
どこのブランドかと英語で表記された文字を読んでいると、ふとそれが口紅ではないことに気付いた。
「あら、なんだ。これ、リップクリームなのね」
色付きのリップクリームは、最近では口紅とあまり変わらないものもある。眉を顰めたが、色くらいは見ておこうと、鏡に向かって唇をつきだした。やはり少し色が薄い。だが、下地くらいにはなるだろう。ガサガサと口紅の山の中を探り、合う色はないかと探した。没収してきたものだからか、ブランドも様々だ。だが、いい具合に色は別だ。比較的色の濃いものを探りあて、唇へとあてる。いつもより色の映える唇を見ると、これから下地をつけるのもいいだろうと竹下は思った。
ひととおり満足すると、今度はもう一つの物品へと手を伸ばした。
こちらはリップクリームとちがい、うっとりするような代物だった。
モサッとした女子生徒がつけていたネックレス。
このネックレスは極上の品物だった。
形見などと言ってはいたが、竹下は信じていなかった。小さいものだが、本物の宝石を使っていた。高校生にはすぎた代物だ。デザインもしっかりしていて、正直、気に入っていた。こんなものをあんなださい女の子がつけているには惜しい。
首元につけてみると、自分にぴったりだった。
そのうえ、どんな化粧を施してもネックレスは極上だった。どれほど鮮やかな色をおいても、ネックレスはそれを邪魔せず、かつ存在を主張しながら映えた。これならばどんな衣服にも似合う一品だろう。ますます返すのが惜しい。
どんな色が似合うだろうと、竹下は新たな口紅を探した。
鏡の前で色々と付け替えていると、不意に背中に何かが触れた。
「いやっ、何?」
振り払うと、口紅が唇から外れた。
口の端から零れ落ちた血のように、一筋の赤い線が入る。
「ああやだ、こんなところに」
なんとか色を落とそうと、反対側の手を伸ばす。
すると、その手に重ねられた何者かの手に気が付いた。手は透き通るように青白く、あまりにも冷たく、竹下は血の気が引いた。びくりと肩が跳ね、冷たく表情が固まる。
つう、と青白い手に血が這っていく。
「……かえして……ください……」
血に濡れた腕が、竹下の首元へと昇って行く。やがてペンダントをつけた喉元でぴたりと止まり、視線はつられるように鏡の中へと吸いこまれた。
背後から覗きこむ血だらけのサヤの顔が醜悪に歪み、竹下の喉から悲鳴があがった。
竹下が死体で発見されたのは、それから数日後のことだった。連絡もなく心配した同僚の教師たちが家に押しかけ、大家に頼んで鍵を開けてもらったところ、壁の柱のところでぐったりとしている竹下を発見したのだ。
発見当初には既に死亡していて、手の施しようはなかった。
死因は窒息。
当初は事件性も疑われたが、最終的には事故死ということで片がついた。ネックレスが壁のクギに引っ掛かり、外そうともがいて余計に首を絞めたのだろう――という見解が、おおかたの予想だった。
そのネックレスがその日に事故死した女子高生の持ち物だということで、いっとき騒がれたが、時間が経つにつれ、その騒ぎもやがて沈静化したのだった。
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