怪ノ二十二 美術室
美術室に夜六時以降残っていてはいけない、って、奇妙な校則だと思わない?
まあ、たいていの人は、昔、美術部の人間か誰かがいつまでも残ってたんだと思うでしょうね。うちの中学の美術部って、半分アニメ部みたいなものだったし。
もちろんちゃんとした絵を描く人たちもいたけど、ほとんどはイラストだったかな。何を描いてもいいみたいな緩いところがあったから。
でも、美術室を使ってる人間で、この校則を守らない人はいない。
この話を聞けば、わかると思う。
この話はさ、おもしろ校則の類だと思うじゃない。
でもまあ、みんなその校則を律義に守ってたわけよ。
守ってたっていうよりかは、六時以降まで残ってる用事ってそれほどなかったから、結果的に守ることになってたわけだけど。だいたい、中学校って、力を入れてる部活以外はわりとなあなあじゃない?
吹奏楽とかは大会とかがあったから、たまに力を入れてたのは知ってるけど。
だけど、一度だけ。
本当に一度だけ、美術室に六時以降まで残ってたことがあった。
文化祭が近づいたころ、絵を描かないといけなくなった。確か、九月くらいだったかな。そろそろ夕方になりかけたぐらい、だったと思う。
「あたし、そろそろ帰るね」
誰かが言った。
「あれ、もう帰るの」
「うん。七時から塾なんだよ。ご飯食べてから行くし」
「あー、そっか。じゃあまたね」
「あ、じゃあ私もそろそろ帰るよ。これはもう明日やる」
「そんじゃ一緒に帰ろ」
一人の発言をきっかけに、って、よくあるじゃない?
たぶん、みんな普通に帰りたかったと思うんだけど、きっかけがなかったんだと思う。塾通いの子の言葉で、ついでみたいに雪崩るように帰り支度をはじめた。
「どうする? 帰る?」
弱小部のメンバーなんてみんな友達同士みたいなものだよね。一年は一年、二年は二年で固まってるから、よけいそういう面が強調される。
当然のごとく私も誘われた。
けど、私の作品はもうすぐで完成しそうだった。せめてこの色だけどうしても塗っておきたいってところがあったから。
「私が鍵、かけとくよ。もうちょっとで完成しそうだし」
「そっか。でも、六時以降は残っちゃいけないって校則もあるから、早めにね?」
彼女はニヤリと笑いながら言った。
だいたい、この校則だって、「美術室だけなんか理不尽すぎない?」って、一度は誰でも話題にすることはあったからね。
私も冗談だってことくらいはわかって、同じように笑い返した。
「それくらいには終わるんじゃないかな? たぶんね」
バタバタと帰り支度をするみんなが、塊になって美術室から出て行く。
「じゃあねー」
「また明日!」
「うん。またねー」
手を振ってみんなを見送ると、がやがやと話し合う声はすぐに廊下の向こう側に消えていった。
絵に向きなおったときにはすごく寂しかったな。
みんながいたときは、なんだかんだ声がしたり音がしたり――なんだろう、存在感っていうのかな。そういうのがちゃんとあったから。
誰もいない教室って、妙に怖くない? そういう感じ。
急にしんとした中で、私が絵筆を動かす音だけがペタペタと聞こえてくるんだよ。
私も帰れば良かったかな、なんて思いながら、自分を奮い立たせるために集中した。
ただ、まあ――私も他に描きたい絵があったし、いわゆる「課題」で描いてるような絵は手っ取り早く終わらせてしまいたかったんだよね。そこに塗る色は絵の具を混ぜ合わせて作ったものだったし、もう一度作るよりは今ある分量でやっとかないと、もったいないかな、とかさ。
時計の針の音さえ聞こえないくらいに絵と向かい合って、はっと気が付いた時には外は真暗になっていた。
ぱっと時計を見上げると、六時十五分をさしている。
もうこんな時間? って思って驚いた。
だいぶ暗くなってたのは知ってたけど、それまで用務員さんや先生もひとりも来なかったおかげで、気付かなかったんだよね。
六時以降は駄目だ、なんていいつつ、そのへんは結構緩かったんだよね。だいたい、大会とかが近づけば吹奏楽とかなんて六時くらいまで音楽室を占拠してるわけだし。
だけどもね。
ふと、気付いた。
筆の音がやまないの。
やまないっていうか、もう一人、気が付かないうちにそこにいたの。
誰なのかは全然わからなかった。
自分のキャンバスをどかした瞬間、もうひとつキャンバスがあるのに気付いた。みんな、円になるように描いてたんだけど、ちょうど私の反対側のところに、いつの間にかキャンバスが置いてあって、その下からスカートを履いた足が見えていた。真っ白の靴下が、妙に目についたわ。
サッサッ……ペタペタ……って。ずっと音が響いてるの。
みんな帰ったはずなのに、いったいどうしたんだろうって思ったわ。
だけど私、凍りついたみたいに動けなかった。
驚きもあるし、確かに集中していたけど、さすがに人が入ってくるのに気が付かないわけはない。いったい誰だろうと顔を見ようとしたとき――。
「おい、まだ誰か残ってるのか!?」
用務員さんが妙に慌てて入ってきた。
その声で私は我に返った。
「あっ、ハイ。すいません、私はもう終わりますけども――」
もう一人いるんです、と言いかけて、用務員さんは険しい顔をした。
「鍵はかけておくから、早いところ帰り支度をしなさい。早く!」
有無を言わせぬ言い方に、私は面くらった。
私は当然、もう一人にも声をかけているものだと思ったけど、用務員さんに怒られるのも嫌だったし、とっととパレットを洗って荷物を持った。
用務員さんは私が出ると、すぐに電気を消した。
えっ? と思って振り返ると、私の耳に音が響いたわ。
サッサッ……ペタペタ……。
ペタペタ……。
暗闇の中から聞こえる筆の音。
それを遮断するみたいに、目の前で扉が閉まった。ガチャガチャと用務員さんが鍵をかける。
ぽかんとする私に対して、用務員さんは険しい顔をしたまま言った。
「あまり見ずに帰りなさい。外へ出ても、美術室のほうは見ないように」
用務員さんがそう言って、はじめて震えあがった。
その出来事はそれいらい私の中でどう処理していいかわからずにいた。
ただ――それ以来、六時以降も残ることは絶対にしなかった。
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