怪ノ二十三 七不思議その二・赤いピアノ
「次の話は俺だな?」
確認のように。
だが威圧するように低い声で、観月俊哉はちらりと会合の進行役に目をやった。
「はい――お願いします」
会合は今のところ、滞りなく進められていた。
観月のやや凄むような目線をものともせず、進行役である黒縁眼鏡の男子生徒は淡々と答えた。その様子を見ると、観月は舌打ちをしながらため息をひとつ吐いた。
それ以上無駄な時間を食うのは、観月自身、意図するところではなかった。
「……俺は観月俊哉。二年五組だ。俺の話も、さっきの奴と同じ――この学校の七不思議だ。音楽室の、グランドピアノの話だよ」
彼は茶色に染めた髪をがりがりと掻き、ちらりと黒板の上の時計を見る。
四時四十四分。
観月は気にするタイプではなかったが、やけに不吉な時間だと今は思った。
――……。
この中で、音楽系の部活に所属してる奴はいるか?
……そうか、いないなら説明が必要だな。
この学校には、第一音楽室と第二音楽室があるだろ。校舎の四階はほとんど音楽室のための空間だよな。授業で主に使うのは、階段をのぼってすぐ左にある第一音楽室だけ。第二音楽室に入った奴はほとんどいないんじゃねえか?
第二音楽室にはエレキギターやらドラムやら――まあ、言ってしまえばバンドで使うような奴が置いてある。現状、使ってるのは軽音部のメンバーだけだ。
俺もその一人だ。
この第二音楽室――というか、第二音楽室においてあるグランドピアノが曲者だった。
使ってないっていっても、曲がりなりにも音楽室なんだから、ピアノくらいはそりゃ置いてあるよな。だけど、あそこにはキーボードもあるから、グランドピアノなんてほとんど使わねェ。
プロのバンドだと、最近は和楽器だのピアノだの使ってるところもあるけど、うちの部活では使ってなかった。
だから、いつも片隅にぽつんと置かれているだけだった。
でも、教室自体も広いから、特に邪魔だとか感じたことはない。あそこは机がないからな。
そのピアノをはじめて意識したのは、その日の練習が終わって、いつも隅に置いてある椅子で色々と喋ってた時だった。
「なァ、俊哉。あそこにあるグランドピアノ、七不思議のひとつなんだってよ」
「はあ? 七不思議?」
七不思議くらいは知ってたさ。都市伝説とかそういうやつ。
「へー。そうだったんか。知らねえ」
「どんなの?」
意外に喰いつく奴が多かったのは、暑かったせいもあるのかな。
今は五月くらいからもう暑いし。ちょっと涼しくなりたかったっていうのもある。
噂の内容はこうだ。
昔、この学校にピアノのうまい男子生徒がいた。そいつはいつも第二音楽室のピアノを借りて、授業が終わったあとに練習してたらしいんだ。
まあ、特別に使わせてもらってたってこと。たぶん、その筋じゃ有名だったんだろうな。学校側が個人的な理由で毎日のように使わせてくれるとか、よっぽどだと思うぜ。
それだけピアノが上手いなら、スゲェってなるんだけどさ。
やっぱりそれを良く思わねェ奴もいるわけだ。
これがさぁ、テレビに出てくるモデルみたいな奴で、コミュ力抜群! ……みたいな奴だったらいざ知らず、容姿のほうはちょっと小太りで、顔もそれほどいいとは言えなくて、クラスの中でも目だった存在ではなかったみたいだな。
それなのに、先生たちには目をかけられて、あいつは音楽大学に受かるかもしれない、もしかしたら外国の学校に行くかもしれないなんて話が出て来たら、アイツちょっと調子乗ってんじゃねェか、って奴も出てくるわけだ。
そういうこともあって、ちょくちょくイジメみたいなことを受けていたらしい。
最初のうちはちょっと小突かれるだとか、声をかける時に頭を叩くだとか。そういう強烈なスキンシップみたいなところからはじまった。そいつもどうしていいかわからなかったんだろうな。愛想笑いのような顔をしていたのが気に障ったんだろう。
イジメは次第にエスカレートしていった。
特に、そいつはピアノをやってた奴だろう?
そいつの爪を剥ぐ真似をして、真っ青になったところで「本当にやるわけねえだろ」ってからかうくらいならまだいいほう。
学校に持ってくる楽譜を隠して、そいつがさんざん探し回ったところで、知らないうちにそっと戻しておいたり。
楽譜にマジックペンで落書きしたり。
放課後にピアノを弾いてるのを見計らって第二音楽室へとなだれ込んできて、楽譜を奪ったり、破ったり、散々騒いで邪魔していったりな。
そいつも抵抗することはなく、相変わらずどうしていいかわからないような顔をしていた。そんなそいつに対して、イジメているほうも、だんだんとイライラしてきたんだろう。
ある日、放課後に第二音楽室へなだれこんで邪魔している最中のことだ。
そいつがピアノと弾いてるのを隣でじいっと覗きこんでいたかと思うと――。
グランドピアノの蓋を急に閉めたんだ。
勢いよくな。
――悲鳴があがった。
その悲鳴があまりに無様だったのか、イジメっ子連中は思わず噴きだした。
「あー、ゴメンゴメン」
なんて笑っていたんだ。
ところがだ。そんな風に笑っている連中に、そいつは急に怒りだしたんだ。
ま、そりゃそうだろ。まだヒトが弾いてる時にそんなことをされたら、叫ぶしキレるわな。
……っつーか、普通にダメだろ。
楽器を使う奴にとって、指は命だからな。
いずれにしろ、そいつはごく普通の反応をした。したはずだった。
だが、それが気に入られなかった。イジメっ子連中は、突然抵抗を見せたそいつの胸倉をつかんで怒鳴りつけた。
「てめえ、いい気になってんじゃねえよ!」
体をピアノに叩きつけ、ダァン、とピアノ独特の音が鳴る。椅子を蹴とばして、太った腹を蹴りつける。
一人がキレると、連鎖反応のように全員が群がってきた。
暴行に加わる者、もっとやれと焚きつける者、茫然と見守る者。いずれにせよ前者二つのほうが多いのはわかるよな。
げほっ、と咳き込むのをせせら笑いながら、胸倉をつかんで起こす。
「そんなに弾きたきゃ自分の体で弾いてろ、デブ!」
体がもう一度ピアノに叩きつけられると、ピアノは奇妙な音階を流した。打ちどころが悪かったのか、口や鼻からの出血で、ピアノの鍵盤は真っ赤に染まっていたそうだ。
そいつはなんとかピアノの下に潜りこんで逃げようとした。
けれども、そんなささやかな抵抗ですら許さなかったのさ。僅かに見えている指先を重点的に踏みつぶした。
イジメっ子連中が見たのは、恨めしそうにピアノの下から見上げるそいつの姿だった。
それからだ。
そいつは学校に来なくなった。
イジメっ子連中は特に気にすることもなく、せせら笑ってたそうだ。あのピアノの音は正直うるさかったんだ、とな。
……正直な話、放課後にしか借りてないのに、だぜ?
連中はそいつの事などすっかり忘れていた。そんなときだった。
二週間ぐらい経った頃だろうか。彼のピアノの音がまだ第二音楽室から聞こえてきたんだ。
イジメっ子連中は訝しがった。
「あいつは教室に来ないのに、第二音楽室にはいるのか?」
さすがにムカムカしたんだろう。
保健室登校ならぬ音楽室登校とは。いったいどれだけ俺たちを馬鹿にすれば気が済むんだ、ってな。その日の放課後、ほとんどの生徒がいなくなってから四階まで連れだっていくと、確かに第二音楽室からピアノの音が聞こえてきた。
お互いの顔を見やると、ニヤリとした。
静かに第二音楽室へと忍び寄る。背を丸めて、相手に気付かれないようにな。ピアノの音がまだしていることを確認して、ガラッ、と唐突に扉を開ける。
「よう、デブ!」
彼らは第二音楽室になだれこんだ。
だが、その途端にピアノの音はやみ、急に静かになった。
「あれッ?」
そこには誰もいなかった。
おかしいな、と辺りを見回す。気付かれたか、と広い教室の中を見回すが、そもそもが楽器しか置いていないような部屋だ。すぐに隠れられるとも思えない。
首を傾げながら、ピアノへと近づいていく。
いつもならそこに置いてあったはずの楽譜も見当たらず、荷物のようなものもなかった。だが、ピアノの蓋は開けっぱなしになっていて、少なくともさっきまで誰かがいた気配はある。
「おかしいな。どこ行ったんだ?」
ピアノの下を覗きこんでみるが、当然のようにそこには誰もいない。
隣の音楽準備室に続いている扉も鍵がかかっている。
「チッ、おい、どこ行きやがった!」
舌打ちをして、開けっ放しになったピアノの鍵盤を乱暴に叩きつける。バンバンと異様な音が鳴った。鍵盤を蹴り飛ばしてやろうとした時、不意に自分の指がぬめっていることに気が付いた。
一体なんだと手を見ると、真っ赤に染まっている。
「なん……」
どろり。
鍵盤の隙間から赤いものがしみ出してきたかと思うと、それはあっという間に広がった。赤い夕暮れに照らされてなお赤い液体は、ピアノの鍵盤を染め上げる。
必死に手を払っても、赤い色は広がるだけだ。あっという間に手は真っ赤に染まる。
「な、なんだよこれ?」
「おい、それ……」
「まさか、血……?」
全員が黙り込んだそのとき、一人が声をあげた。
「う、う……」
蒼白になったまま、一歩、また一歩と後ろへと下がっていく。
その目線は足元に向けられている。
見たくない。
今、足元を見てはいけない。
だが、その思いに反して、好奇心が勝った。
「うわあああーッ!!」
ピアノの下からは血まみれの男子生徒が彼らを見上げ、その足を引っ張っていた。
「助けて、助けてくれえっ!」
彼らは混乱状態にあるところを、用務員さんに見つかった。全員がわけのわからないことを喚き立てていて、頭がおかしくなっちまったそうだ。
……何日かあとになって、そいつが自殺したという一報が飛びこんできた。
飛び降りだったらしい。
なんでも、その暴行が原因で指先がうまく動かなくなったらしい。演奏家にとっちゃ致命的だ。治療すればそこそこ回復したかもしれないが、下手に将来を期待されていたもんだから、そこで絶望しちまったんだろう。
奇しくも、それはピアノの音が聞こえ始めた日と一致していた。
それからだ。
そしてそれ以後、夕方に誰もいない第二音楽室からピアノの音が聞こえてきたら、絶対に行ってはいけない。
聞く人が聞けば、それは彼の弾くピアノの音だと気付いたんだそうだ。
それは、特に音楽に興味のない奴にもわかった。
亡くなる直前まで練習していた課題曲だったからな。
……噂はそういうものだった。
……さて、ここまでが前提だ。
話はこれからだ。
この話をした奴は――どこから仕入れてきたのか知らないが、今みたいに雰囲気ありげに語ってくれたよ。対して俺達も、面白がった。だって今までそんな噂、聞いたこともなかったからな。大体、部活をやってる間はピアノの音なんて聞こえない。
「人がいるから駄目なんじゃないか? 誰もいない第二音楽室から聞こえてくるんだろ?」
「おお、それだよ、それ! かっちゃん、頭いいな!」
「いや、フツーだろ」
とかなんとか言って。
今まで何か思うところがあったとしても、せっかくあるのに使わないのももったいねーな、とか、邪魔だなー、とかそれぐらいだ。そんな話をされると少しは意識してしまう。おおいに盛り上がったさ。
「開けてみるか?」
いくらなんでも、今。
話をした奴が脅かすようにしてピアノの前に立ったが、それでもいざ開けるという段になると、変な緊張感がよぎった。
ああいうの、なんていうんだろうな。直前までふざけてたのに、いざその時になると急に恐ろしさが湧き上がってくるんだよ。ピアノは、日の光を反射して黒光りしていた。俺たちとは違う高級感に満ち溢れたその楽器が、急に不気味に思えてくる。
そいつも言った手前ピアノの蓋に手をかけたが、どことなく漂う違和感に飲まれかけていた。
そうして――。
「わッ!」
そいつは急に大声をあげて、俺達を驚かした。
「うわっ!」
「なんだよ、も~!」
「ふっざけんな、バカ!」
「あははは! びびってやんの!」
一気に空気が和んで、俺たちは笑い合った。
「いいから、開けてみろよ」
気が抜けたようにピアノの蓋を開けてみたが――当然のごとくってやつ。
ピアノは血にまみれてもいなかったし、弾いてもみたが血があふれ出てくることなんてなかった。ただ、鍵盤の白さは不気味だったけど。
「う~ん、血とか出ねえな」
「さすがに出ないだろ、たぶん」
そんなことを言ってたら、あっという間に五時をすぎた。
帰り支度をして、俺達はのんびりと校舎から出ようとする。
「あ、ごめん俺、忘れモンしたわ」
その日、荷物がいつもより一つ多かったのを忘れて、俺は校舎から出ようとしていた。別に明日でもいいかと一瞬思ったけど、そっちのほうに持ちかえっておきたい楽譜とかもついでに入れてたし、まだ鍵も返してなかったから。
「取りに行ってくるから、先帰っててもいいぜ。追いつくわ」
「そして第二音楽室でピアノの音が……」
「聞こえたら教えてくれ」
「おう、教えるわ」
なんて軽口を言ったが、誰もいない校舎ってのはちょっと不気味だよな。鍵を受け取って、一段飛ばしで階段を駆け上がり、四階まで来た道を戻っていく。
そうして三階まできたところで、ふと変な音が聞こえるのに気付いた。
何の音かと思って気にせずに四階への階段をのぼっていると、音は段々と大きくなっているじゃないか。しかも、その音がピアノの音だったんだ。
なんていうのかな、名前は知らないけど、クラシックだよ。
えっ? と思ったよ。
だって、聞いてすぐのことだぜ。
むしろ、誰かの悪戯だって思うほうが自然だろ。
でも、誰かが知らないうちに曲か何かをかけっぱなしにしていたとして――俺が忘れ物をするかどうかなんてわからないはずだ。
それに、第一音楽室のほうにもピアノはあるから、そっちから聞こえている可能性もある。
そんなことを思って四階に辿り着いた時には、足は重くなっていた。
音はやっぱり第二音楽室のほうから聞こえてたよ。扉についてる小さな窓から覗きこんでみると、音は急に鳴り止んだ。
不気味に思って鍵を開ける。あんな話を聞いたから、神経が昂っているのかもしれない。荷物だけ素早く手に取って出て行けばよかった。
扉を開いても、やっぱり誰もいなかった。
荷物はすぐに見つかったが――すぐに帰るわけにはいかなくなった。
ピアノの蓋が開いてたからな。
もしかしたら、片付ける時に閉めるのを忘れたのかもしれない。窓からは――赤い夕陽がさしこんでいた。
俺はそっとピアノの蓋を閉じた。
あんな話にビビるなんて、らしくない。さっさと戻って、奴らに「ピアノの蓋が開いていた」と笑い話として話せばいい。だいたい、鍵を受け取ったんだから職員室に行けば人もまだいるだろう。
ピアノの音はもう聞こえなかった。
俺は踵を返した。
とにかくもうこんなところから出て行きたかったんだ。
「うわっ」
だが、俺の片足は何かに引っ掛かったように止まった。驚きで、無意識に引っ掛かったものを避けようとしたが、足はそれ以上動かなかった。
「なんだっ?」
俺はとっさに足元を見た。
嫌な予感がしなかったわけじゃない。だが、好奇心が勝ったんだ。
俺の足には、学生服を着た男の腕が絡みついていた。腕は物凄い力で、人間とは思えなかった。その先には、小太りな男がにまにまと笑いながら俺を見上げ、そうして――。
――…。
「俺の話はこれで終了だ。あとはたぶん――お前らと一緒だよ」
お前らと一緒、と言い放ったとき、教室中の空気がぴりりとした。
観月はため息をつき、いまだ静かに見守っている進行役へと目をやった。肩を竦める。
「――ありがとうございました」
静寂に、声は響く。
「それでは、次の方。――お願いします」
会合はまだ、終わらない。
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