怪ノ七十六 止まった時計
朝、学校へ向かうと、下駄箱の前でタカユキが立ち竦んでいた。
「ヨッ。おはよ。どうした?」
挨拶をしても、手に持った物を見つめたままじっと動かない。なので手元を覗きこんでやると、腕時計を手にしていた。
「へー、いい時計じゃん」
とはいえ腕時計は腕に嵌めるものだが、それを手に持ったままなのはさすがに気になる。おまけに、俺が自分の下駄箱から室内用スリッパを取りだし、代わりに靴を入れている間も、じっとタカユキは立ちすくんだままだった。
「どうした?」
もう一度尋ねると、タカユキは困惑の表情で俺を見た。
それでも何も言わないので、笑いがこみ上げてくる。
「なんだよ」
からかうようにして腕時計を奪い取り、まじまじと見る。腕時計に詳しくないから知らないが、小学生や中学生が持っているようなチャチなやつじゃなくて、もっとしっかりした作りのやつだ。高校生になってからぐっと腕時計を付け始める奴が増えるが、タカユキがこんなものしているところは見たことない。
ところがしばらく見ていると、妙なことに気が付いた。
「なんだ、この時計壊れてんじゃん」
壊れているとわかったのは、秒針が一ミリも動かなかったからだ。どうせ学校に来てから気付いたとかそんなもんだろう。止まっているのはちょうど八時くらいなので、それで気が付かなかったんだろう。
俺が訝し気に返そうとすると、タカユキがぽそりと「それ……」と口にした。
「なに?」
聞き返したが、タカユキは何も言わなかった。代わりに顔は真っ青だ。
「お前、どうしたんだよ。この時計となんか関係あんのか?」
「いや、なんでもない。良かったら、それ……お前にやるよ」
「はあ?」
壊れた時計なんか欲しくもない。だいたい、どういう謂れのものなのかもさっぱりだ。困惑している間に、タカユキはまるで逃げるように下駄箱から廊下へと歩いていってしまう。
「お、おい。待てよ」
後を追おうとしたが、他の生徒たちの足取りに阻まれて、結局追いついたのは教室についた時だった。
「おいタカユキ、時計……」
返そうとしたものの、タカユキはのらりくらりと俺から逃げ続けた。俺も機会を失っているうちに、とうとうその日の授業はすべて終わってしまった。
放課後にどうにかしようとしてみたものの、タカユキは他の友人たちと連れだって帰ってしまい、気が付いたら教室には既にいなかった。
そういうわけで、仕方なく家に持ちかえることになってしまったのだ。
――壊れた時計なんかどうしろっていうんだ?
とはいえ、電池でも直せば何とかなるかもしれない。そう思って裏蓋を外そうとしたが、中々外れない。すみずみまで見てまわっても、開けられそうなところがない。せっかくの時計なのだからと思ったが、わざわざ時計店で直してもらうにはちょっと面倒臭い。
そもそもタカユキが俺にくれた時点で、奴にとって大した価値はないんだろう。
それに、どうしてあんなに青ざめていたのか気になる。
壊してはいけない時計だったのなら、余計に俺なんかに渡したら大変なことにならないだろうか。
しばらく考えたが、段々面倒になってきた。
部屋のカレンダーを眺めると、明日はちょうど燃えないゴミの日。
これ幸いとゴミ袋の中に突っ込むと、存在も忘れてしまった。あとで返せといってももう遅い。タカユキにもいい薬だろう。
だが、無造作に突っ込んだのが悪かったのだろうか。
次の日の朝、学校へ行く直前になって母さんが玄関に追いかけてきた。
「ちょっと、こんないい時計捨てちゃうの? もったいない」
母さんは手に例の時計を持っていた。
しかもわざわざ、俺の部屋じゃなくて直接渡してくるもんだから、結局時計を持って学校に行くことになってしまった。
仕方なく、俺はタカユキに時計を返すことにした。
だが、やっぱり返す機会は訪れなかった。
……もっとも、訪れなかったというと語弊がある。
「おい、タカユキ。この時計……」
と話を切りだすと。
「おーい、タカユキー、ちょっといいか」
などと、他の奴が呼んだり、先生に呼びだされたりと、妙に時計のことだけが話題にできないのだ。
そのくせ他の話題を出してみた時なんかは、休憩時間がそのまま潰れるくらいまで喋ることができたりした。
しかもそれはその日だけに限らなかった。
一週間もそんなことが続けば、さすがにおかしいと思い始める。
一度なんかはこっそりと教室のゴミ箱に捨ててみたりもしたが、その途端後から先生に呼び止められたかと思うと。
「こんないい時計をどうして捨てるんだ」
と、その手に持たれた時計を押し付けられた。壊れてるんですよ、と言っても、それが聞き入れられることはなかった。
時計は常に俺のところにあった。
適当に棄てればいいだろうと道にわざと落としたりしても。
「おい、お前、時計落としていっただろ」
と、帰ってきた父さんが時計を持って帰ってきたりするのだ。
受け取るつもりは毛頭なかったのに、俺は戸惑いながら時計を手にした。
――いったいなんなんだ、こいつは?
とうとう、机の上に置いてもう一度向かい合うことになった。
どれだけ捨てようとしても戻ってきたり、返そうとしてもそれが狙ったように妨害されるなんて、どう考えてもおかしすぎる。
タカユキにはあれ以来、腕時計の話についてだけ、することができない。
俺は時計をあちこち裏返したりしたりして、何度も裏蓋を開けようとした。
「あ、うわっ」
何度も何度も確認してもこじ開けられなかった裏蓋が、ようやくカチリという音を立てたのだ。
「よし、これで……!」
回そうとした途端、唐突にガチャリと音がした。
思わず驚いて後ろを振りかえると、父さんと母さんがドアの向こうに立っていた。
ほっとして息を吐く。
「なんだ。どうしたの? 二人そろって。なんか用?」
どちらか一人ならともかく、二人そろってやってくるなんて珍しい。
時計を机に置くと、二人は無言のまま部屋に入ってきた。
「……なに?」
さすがに無言で立ち入られると、妙に緊張する。それをやわらげようと、あえてちょっと笑い気味に尋ねる。
二人は顔を見合わせたかと思うと、もう一度こっちを見た。
「タカユキ。どうして開けようとするんだ?」
「そうよタカユキ。どうして開けようとするの?」
二人の言い分に、妙に冷え切ったものがつき抜けた。
「え……?」
そのまま瞬きすらしないまま近づいてきたかと思うと、机の上に置いてあった時計を手にとって、そのままパタンと裏蓋を閉めた。父さんは無言のまま睨むように俺を見ていた。親として怒っているというのとは、また違う奇妙な感覚があった。
蓋が閉じられ、再び俺の机に腕時計が置かれると、二人はまた無言のままドアへと向かった。
母さんだけがピタリと足を止めて、相変わらず瞬きをしない目でこっちを見つめた。
「……もうすぐ、ご飯だから」
俺は黙って何度も頷くしかできなかった。
その日の夕ご飯は何を食べても味がしなかったし、二人を見ることもできなかった。
テレビからはバラエティ番組が流れていたが、どこか遠い世界から流れてきているように、現実感がなかった。
*
翌朝のこと。
俺は蒼白になりながらも学校へと向かった。両親の態度はいつも通りで、むしろ俺の様子をこそ心配されたくらいだった。
それでも、昨日のあの出来事は夢ではなかったらしい。
時計は今も俺のところにあるし、どうにもできない。
下駄箱のところでじっと腕にもつけられない壊れた時計を見ていると、急に声をかけられた。
「おう、なんだそれ?」
隣のクラスのマサだ。
「へえーっ、いい時計じゃねえか。どうしたんだ?」
俺が相変わらずぼんやりしていたからだろう。マサは何事か言うと、時計を奪い取ってまじまじと見始めた。その様子をゆっくりと見上げる。
そうだ。
この時計もそもそも……。
時計を掲げて、前や後ろをひっくり返して観察しているマサの姿が、どこか他人ごとのように見えた。
「それ……、お前にやるよ」
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