怪ノ七十七 伸びる手

 通っている高校のトイレには、噂があった。

 なんでも外にあるプール近くのトイレに入ると、下から手が出てきてお尻をぺろりと撫でられるというものだった。

 信じる信じない以前に、小学生の考えるような怪談だ、というのがおおかたの意見だ。

 ただまあ、そんなことをされたらたとえ幽霊だとしても痴漢まがいではないか。


 そのトイレはそもそも外にあるものだし、汚い以前に薄暗く、利用する人なんてほとんどいなかった。トイレットペーパーも常に切れかけていて、外で部活している子たちも、たいていは校舎の中の近いところを利用していた。水泳部の人たちもほとんど同じようなものだったらしい。


 そんなトイレにどうしても入らないといけない事態、というのは、一生に一度あるかないかというところだろう。


「ねえ、ほんと早くしてよね?」

「ご、ごめん。もうちょっと待ってて」


 とはいえそんな事態に陥ったのは、ひとえに友人のエミのせいだ。

 私たちが来たのは半年に一度の大掃除のせいだったのだが、ついうっかりトイレに入るのを忘れて外のトイレまで来てしまったのだという。掃除が終わってから校舎に戻ればいいやと思っていたらしいのだが、我慢できずにそのまま入ることになってしまったらしい。

 トイレットペーパーだって覗いたらなかったから、私がたまたま持っていたティッシュをあげただけだ。


 そのあとはもう二人とも無言だった。

 そりゃまあ、他人のトイレしてる音なんて聞くのは、聞いてるほうだってちょっと恥ずかしい。そもそも掃除じゃなかったらこんなところだって来ないし。ただでさえ蛾やよくわからない虫がくっついてたりするし、観光地にある古いトイレとそう変わらない。いや、最近じゃ観光客が増えて建て直したりもしているらしいから、そっちのほうがマシかもしれなかった。


「うええ、水流すところに虫がいるー!」

「もうーっ、そんなの我慢してよ! あたしもう帰るからね」

「やだよ、待っててよ! 友達でしょ」


 いい加減本当に帰ろうかと思い始め、私は背を向けた。

 水を流す音が聞こえる。ここまで待ったし、あとは帰ってもいいだろう。


「キャアアアアーーッ!!」


 大げさとも言える悲鳴が聞こえて、少しだけぎょっとする。

 足を止めるべきか悩むくらいには。


「やだ、やだ、やだ!! 助けて、助けて!!」


 今度こそ足を止める。


「やだっ……ぶごっ、べごっ……」


 悲鳴は次第に言葉の意味を失っていた。


「エミ!?」


 慌ててトイレまで戻ったが、そのころにはすっかり声は聞こえなくなっていた。


「ちょっと、エミ……、ふざけないでよ」


 トイレは静まり返っていた。

 エミが入っていたはずのトイレは鍵がかけられたままで、何度ノブを廻そうとしても開かなかった。意を決して、ノブに足をかける。その足に体重をかけて、一気に体を移動させると、ドアの上に手をかけた。ちょっと汚いが、この際どうだっていい。

 個室の中を覗く。


「エミッ!」


 個室の中に、エミはいなかった。

 その場から消え失せたようにいなくなってしまったのだ。

 ちょうどドアノブから降りたところで、監視にやってきた先生が声をかけてきた。私は困惑しながら先生を見返した。


「先生、エミが……」


 それからのことは、あっという間だった。

 なにしろ私は最後にエミを見た人物だったし、助けてという声も聴いている。先生や警官から色々と話を聞かれ、私は何度もした話を繰り返さねばならなかった。


 それと同様に、エミがいなくなった、という話題も、同じようにあっという間に広まった。とはいえ誰も怪談なんか信じちゃいなかったから、僅かな間に変質者に連れ去られたのだということになった。

 それでも、一部の噂では、腕に引きこまれたのだというものもあった。


 私はすっかり疲弊していて、聞かれても肯定も否定もできなかった。


 しばらくは近辺でも警官の姿をよく見たし、放課後には先生が見回りを強化していた。それでもエミは見つからず、その姿が目撃されることもなかった。

 次第にエミのことを尋ねてくるのは、いなくなっていた。


 私も積極的に忘れようとした。

 そうしないと辛くて仕方がなかったし、いつまでも落ちこんでいると、クラスメイトからも厄介者を見るような目で見られたからだった。そっちのほうがずっとつらかったが、他の友人たちは多少理解を示してくれた。


 そんなときだった。

 あの噂を聞いたのは。


「あのトイレ、たまにゴボゴボいうらしいよ。それで、助けて、助けてって聞こえるの」


 おそらくエミの行方不明を受けて、噂が変化したのだろう。

 気が付かないうちにそんな噂が立つくらいには、エミの行方不明事件はおもしろおかしく脚色されてしまっていたのだ。

 それどころか学校内の怪談と一体化されるなんて!


 猛烈に腹が立っていた。


 噂の出所を確かめてやろうともしたが、そういうものはたいてい見つからない。暇な学生たちの遊びに他ならないからだ。噂を流した本人を突きとめようとしても、なぜか堂々巡りしてしまった。

 それでもこういう場合、絶対に「誰誰から聞いた」を辿っていけば最初の人間に辿り着くはずなのに、なぜか一周してしまうのだ。人数が多いからとメモにもしていたが、不思議なことにひとつの矛盾もないのに、なぜかぐるりと一回りしてしまうのだ。

 誰かがグルになって嘘をついているとしか考えられないのに、嘘をつく理由も見当たらなかった。


 私はある日の放課後、とぼとぼと一人で例のトイレまで赴いた。


 トイレはひどく不気味だった。


 電気もついておらず、今日は曇りとはいえ雨も降っていないというのに、どうにも気持ちが悪い。

 こんなところまで来てもどうしようもないのはわかっている。けれど、足取りの手がかりになるのではと思ってしまったのだ。


 自然とため息がこぼれる。


 ドアはすべて閉まっているし、誰か利用者がいるのかもしれない。そんなはずはないとわかっていても、エミの時だって偶々利用することになったんだから、ありえないということもない。

 私はそっと離れた。


 途端、ごぼごぼごぼ、とトイレから音がした。


「……ねえ」


 ぎょっとした。

 私は立ち止まり、恐る恐る後ろを向いた。トイレの入口が、妙にぽっかりと口を開いている。それだけじゃない。

 私の名前を呼ぶ声がしたからだ。

 よく知った声だった。


「エミ……?」


 だってそんなはずはない。

 人間がいきなり現れるなんてことがあるはずがない。それに、今の音はなんだ。いったい何があったっていうの?

 でも気のせいで片付けることもできず、私はそろそろと入口に近づいた。

 相変わらず真暗だった。


 誰かいるのか、と口に出しそうになる自分を抑える。

 エミのはずがない。そんなはずはない。

 だけど、気になってしまう。


「……エミなの?」


 とうとう口に出してしまった。

 返事なんかない、あるはずがない。けれども期待と恐怖がないまぜになったものが、内側からつい言葉として表出させてしまったのだ。

 呼応するように、どん、とトイレのドアを内側から叩く音がした。

 ヒッ、と小さく呻く。


「エミ? エミなの?」

「たすけて……たすけてよお……友達でしょ……」


 エミの声だった。

 助けを求めているんだ!


 すぐさま動こうとはしたが、同時に妙な胸騒ぎもした。

 行ってはいけない。

 嫌な予感がする。

 だけど。

 だけどエミがそこにいるかもしれないのだ。


「エミッ!」


 扉を開けた瞬間、視界に入りこんだのは、青白い腕だった。それが私の顔面を掴んだかと思うと、外す間もなく、腕や足、太ももや首を他の手に捕まれた。


「い、いや……っ」


 悲鳴は声にならなかった。

 何しろ青白く冷たい手が私の顔を掴んだままだったから。外そうともがいても、腕たちはとうとう私の体を地面から引き離した。

 体を上下逆にひっくり返され、僅かな指先の隙間から、トイレの床が見えた。


「助け……」


 トイレからは一斉に水の流れる音が聞こえ、私の体は沈んでいった。


 やがてちゃぽんという音を最後に、静かになった。

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