怪ノ八十九 不思議その七・赤いプール

 古寺克己は陰鬱に顔をあげた。


 窓の外には見慣れたはずの校庭。けれども自分がいるのは見慣れない木造校舎の教室の中だ。

 何もかもが異常だった。

 外の景色は夕暮れ時から動かず、朝にもならなければ夜にもならない。

 不気味に赤い太陽は教室の中を朱く照らした。

 黒板に刻まれた「怖い話会――この学校で経験した恐ろしい話を語りましょう」の文字を見たときは、なんの冗談かと思った。けれども冗談なんかではないと気が付いたのは、いつまで経ってもこの世界の時間が動かないことだった。時計は不吉にも四時四十四分でとまっているし、あわせたように日は沈まない。


 極めつけは、見ず知らずの生徒たちだった。

 この教室に集められた生徒は全員バラバラ。中には知り合い同士もいるけれど、彼ら彼女らは同時に同じ体験をしていたという共通点がある。

 だけど、そんなバラバラな自分たちは――この学校の七不思議を体験した、という共通項を持っていた。それもただ体験しただけではない。体験した直後にこの奇妙な教室へやってきた(あるいは放り込まれた)のだ。


 もっとも謎なのが、自分たちの進行役である彼の存在だった。

 黒縁眼鏡をかけた男子生徒で、あまりにも落ち着いていた。そういう性格やタイプなのかもしれなかったが、不安はないのだろうか。


 自分の話す七つ目の話に、彼は出てこない。むしろ、今日が初対面なのだ。自分たちがそれぞれ七不思議によってここに連れてこられたというのなら、彼はどうやってここにやってきたのだろう。

 自分たちが、「彼が一番最初にいたから」という理由で進行役を押し付けたときも、一切文句を言わなかった。


 戸惑いながらはじまったこの会合は、はたしてどこに向かっているのだろう。

 怖い物見たさというべきか。

 そもそもやめるべきだったのかもしれない。

 どうすべきか。

 古寺は唇を舐め、視線を床に落とした。


「それでは――次の話をおねがいします」


 古寺はゆっくりと顔をあげて、黒縁眼鏡をかけた進行役の男子生徒を見た。

 気が付いたときには、古寺は乾いた口を懸命に濡らして、話し始めていた。



 ――……。



 ぼ、僕の名前は古寺克己……です。

 二年生で、水泳部に所属してます。


 僕の体験した話は――七不思議の、プールの話です。


 プールの七不思議は、わかりますか。

 えっと、簡単に説明すると、プールが血で真っ赤に染まるっていう話です。


 水泳部はひとつなんですけど、部の中は女子と男子にそれぞれ分かれてるんです。

 彼女――怪談ではミズハラさんって呼ばれてます――ミズハラさんは、その女子のほうに所属してました。


 ミズハラさんは泳ぎの名人でした。

 小さい頃から水泳を習っていて、得意分野と……なんだろう、趣味と実益……まあ、泳ぐことも好きだし、実際泳ぐのも大得意って感じでした。

 だから、ミズハラさんを見物しに、夏の大会前の練習はにぎわったそうですよ。女子の入部希望者も、ミズハラさんが二年生になるころにはぐっと増えたそうです。


 それぐらいミズハラさんのカリスマ性は凄かった。見た目も美人だったし、男子生徒の中にも彼女に憧れてプレゼントを持ってくる人は絶えなかったみたいです。


 対する男子のほうは、あまり成績もふるわなかったみたいです。

 男子だってもちろん、小さい頃から水泳教室に通ったり、オリンピックを目指しているような生徒はいました。彼らだって決して弱かったわけじゃないんです。

 ただ、それでもミズハラさんには敵わなかった。

 大会に出るのは常に女子だし、もはや女子水泳部といっても過言じゃなかった。


 かといって、ライバルとして認めることもできない。

 彼らのプライドはずたずたになっていきました。それは、下手に後ろ指をさされるよりもつらいことでした。

 男子が女子に嫉妬なんて、どう考えても恰好はつかないと思うんですが。


 でも実際、男子のふがいなさを理由に、プールを女子が占領するようになったんです。

 それもあって、男子と女子の確執は絶対的なものになりました。


 男子はそれをミズハラさんのせいにしたんです。

 あの女が来てからおかしくなったんだって。

 女子のほうもプールを使わせないから、男子の練習量が減っていく。そのくせ、大会に出られないことを馬鹿にする……そういう悪循環に陥っていたんです。

 お互いさまってやつですかね。


 それであるとき、男子のなかで数人のグループが画策したんです。

 ミズハラは調子に乗ってるみたいだから、ちょっと痛めつけてやろうって。


 ミズハラさんは大会前、ひとりで誰もいないプールで練習していることがありました。そのときを狙って、何人かで脅そうとしたんです。

 練習を終えてセーラー服に着替えたミズハラさんの前に、男子生徒たちが立ちふさがりました。


「ミズハラ、お前ちょっと泳ぎがうまいからって調子に乗んなよ」

「調子に? それってどういうこと?」


 一人が気を引いてる間に、他の二人がミズハラさんを羽交い絞めにしたそうです。


「ちょっと、離して!」


 同性間のいじめの話ならよくあるんでしょうけど、男子が女子に、ですよ?

 彼女はそのままプールに連れて行かれました。


「動くなよ。こいつが足を切るぞ!」


 そのうちの一人はカッターナイフを持っていました。もちろん脅すだけでした。

 当初の予定では、ミズハラさんをプールサイドで脅すだけ。放り込むようにするだけでした。

 でも、ミズハラさんはカッターナイフを見て激しく抵抗しはじめたんです。男子生徒が本気だと思ったんでしょうね。一人が抑えこもうとしたとき、抵抗するミズハラさんの平手が一人を強かに打ちつけました。


「……こいつ!」


 逆上した男子は、思わず殴り返しました。

 殴った本人は、それで更に引っ込みがつかなくなったんでしょう。ナイフを奪い取り、彼女の胸を強引に掴み、更に彼女の長い髪の毛を切ろうとしたんです。


「あっ」


 そのときでした。

 かすかに肉を切り裂くような感触に、男子が一瞬ひるんだんです。

 途端に、ゴン、と鈍い音が響き渡ったあと、彼女の姿は男子生徒の前から消えてしまいました。

 水しぶきがあがり、男子生徒たちにプールの水がかかりました。


 あまりのことに、男子生徒たちは茫然としていました。

 特にナイフを持った生徒は、「俺じゃない」といって逃げだしたそうです。

 残された男子も、沈んだまま浮かびあがってこないミズハラさんを見て怖くなってきました。


 殺してしまったかもしれない。

 自分たちは脅すだけだったのに。


 翌日、ミズハラさんが死体でプールの中から発見されました。

 発見されたとき、彼女は虚空を睨むようにして死んでいたそうです。


 これほどまでに怒りに満ちた形相で死んでいるのははじめてだ、とみなこわがったそうですよ。

 ほんとうの死因は、プールサイドの飛びこみ台の角に頭をぶつけて、意識を失ったときにおぼれてしまった――いわば事故です。でも、もちろん首の下のところに傷跡もありますから、事故ではなく事件ですよね。

 それでも、事件は内々でこっそりと処理されたそうです。

 大会も迫っていたし、練習中の不幸な事故として処理されました。男子生徒たちは、自分たちが殺したわけではないと言い聞かせました。でも、秘密を抱えて生活するのは精神的につらいものがあったんでしょうね。

 水泳部の男子の数は減っていきました。


 だけど、理由はそれだけじゃありませんでした。


 ミズハラさんが亡くなってから、男子生徒の前に、ミズハラさんの幽霊が出るようになったんです。


 彼女は決まって水泳部の男子の前に現れました。

 男子生徒が一人で練習をしていると、急に周りの水が赤く染まったかと思うと、急に足を引っ張られ、意識を失って溺れてしまうんです。

 他にも、プールサイドを歩いていた男子生徒が、ふっと視線を感じてプールを見ると、赤く染まった水の中から髪の長い女子生徒が見上げていたとか。


 助かった男子生徒は、みな首の下に一文字の傷を負っていたそうです。


 ミズハラさんの死に男子生徒が関わっているというのはそれとなく噂されていましたから、襲撃に加担しなかった生徒も次第に辞めていきました。


 最後の生徒が部活を辞め、とうとう水泳部は女子だけになってしまいました。


 ――これが、七不思議としての話の全容です。


 ……実際に、僕らが入部するまで水泳部に男子は入部していませんでした。

 この話は、冗談まがいに話されたんですよ。水泳部に男子がいない理由として。


 事実、水泳部は全員が女子で、強い人がそこそこいて、大会でも常連だったそうです。

 だけど男子部員を増やそうと努力はしていて、毎年、学年は関係なく先生からも声はかけていたそうです。

 だけどまあ、女子ばっかりのところに男子が入るって、中々勇気が要りますよね。


 だから、水泳部の中の男子専門として改めて立ちあげることになったそうです。

 それに、僕もなにか運動になりそうなことをしたかったんです。来年になれば受験もあるし、運動部系は強みになりますからね。だから、ほとんどできたばかりといっていい男子水泳部は願ったり叶ったりでした。

 強い人もいないし、そこそこ運動ができて、かといって厳しくしごかれるわけじゃない。女子はともかく、男子のほうはまだ緩い空気がありました。水泳部としても男子の入部は歓迎したいから、最初から厳しくやるってことはなかったんでしょう。

 練習も女子と男子はわけられていたので、気がねすることもありませんでしたから。


 ぴったりだと思ったんです。


 ……今日までは……、そう、ちょうど今日のことです。


 偶々でした。

 着替えを終えて、部室のドライヤーで髪を乾かして、さあ帰ろうという時でした。プールに続くドアの施錠を忘れていたのを思いだしたんです。


「悪い、鍵かけてくるから先に行っててくれるか?」

「おう。ミズハラさんの幽霊にとりつかれるなよ」


 僕は笑いました。

 女子の中でもそれほど真実味はなかったみたいだし、女子がそれなら男子も当然ありませんでした。

 だから、笑い話のひとつだったんです。

 僕は鍵を持って、開けっぱなしになった扉を閉め、鍵をしようとしたんです。


 そのときでした。


 ――ザバン、と音がしたんです。


 まるで大きなものが、プールに飛びこんだような音でした。

 驚いて、慌てて扉を開けました。


 怪談を信じていたわけではないけど、何事か気になりますよね。

 鳥か何かが飛びこんだのかもしれないし、かなりの大きな音だったので。


 プールサイドまで行くと、プールには今しがた何かが飛びこんだように波紋ができていました。


「なんだ?」


 ぞっとしたのを覚えています。

 だって、さすがに怪談の少女が現れたら怖いじゃないですか。


 だけどそんなはずはない、と自分に言い聞かせました。

 幽霊よりも、鳥がおぼれていたら、感染とかもあるかもしれませんし。現実的にそっちのほうが恐ろしかったんです。

 それでも、もし幽霊だったら……。


 なんとか勇気を振り絞り、波紋のできた辺りを覗きこみました。

 当然水は透明で、


「え?」


 水中から引きだした手は、当然濡れていました。

 けど、妙な感覚でした。


 べったりと血がついていたんです。

 自分が何を触ったのか信じられなくて、叫びすらあげられませんでした。


 ぎょっとしてプールを見ると――水面はすべて赤く染まっていました。


「う、うわ」


 叫ぼうにも声が出ませんでした。

 情けないことに腰を抜かして、四つん這いになりながら逃げようとしたそのときでした。

 僕の肩に、冷たい手がかかったんです。

 思わず振り向いたその先に、青白い顔が一瞬見えました。


 物凄い力でした。僕の視界は一瞬でひっくり返って、そのまま水の中に引きずりこまれました。


 冷たい水の感触と、血のにおいがしました。口の中に血が入ってきてるのか、僕の口が切れたのかわかりませんでしたが、血特有の鉄臭い味がしました。

 誰かに抱きつかれるように引っ張られたまま、僕の意識は段々と遠くなって――。


 ……それで気が付いたときには、肩を揺らされていました。

 目を覚ましたときは、助かったんだ、誰かに引き上げてもらったんだと思いました。


 だけど――。


 ええ、そうですよね。

 わかりますよね。


 みなさんそうだったんでしょうから。


 気が付いたときはこの教室にいたんです。

 どうやってなのかはさっぱりわかりません。

 ただ、七不思議に引きずりこまれるみたいに、此処にいたんです。



 ――……。



 すべて話し終えると、古寺はちらりと進行役を見つめた。


 七つの話が終わった。

 これで終わったのだ。


 これで何かが起こるのだろうか?

 これで全部終わるのだろうか?

 何かが変わるとでもいうのだろうか?


 教室のなかはしんと静まり返った。

 古寺はあまりの重苦しさに、それ以上何も言うことができなくなった。手の中の汗をズボンでぬぐい、押し黙る。


「お前は」


 最初に声をあげたのは、篠原仁だった。

 七不思議の中の、階段の話をした奴だ――と古寺は思う。


「お前はどうなんだよ」


 責めるような物言いだった。目線は睨むように進行役へと向いている。自分に言われているわけではないのに、ひるんでしまいそうだった。

 その隣に座っている照沼との関係といい、古寺は彼のことがどうも好きになれなかった。

 だがそれでも――その疑問は自分も投げかけたかった。


「お前はいったいどうやってここにきたんだ」


 全員の視線が進行役へと向かう。

 あそこにいるのが自分でなくて良かったと心から古寺は思った。

 そうだ。たった今七不思議のすべてが語られた。


 それじゃあ、彼はどうやって――。


「わかりました」


 落ち着き払い、冷徹とも思える一言は、当初から一貫して変わらない。

 古寺は自分が語る時には感じなかった、身の引き裂かれるような思いを今になって感じてきた。

 本当に大丈夫なのか。


 奇妙な緊張感の中、彼は答えた。


「では、最後に――俺の話をしましょう」

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