怪ノ五十二 受験生
「それでは、はじめてください」
俺の掛け声とともに、制服に身を包んだ学生たちが一斉に試験用紙に覆いかぶさり、ペンを動かし始める。
自分が学生たちを支配できるという微かな優越感と、緊張と思い出とが同時に湧き上がってくる。奇妙な感覚だ。一年前を思いだす。
大学受験の試験監督がアルバイトだというのは、大学に入ってから知った。自分があそこにいてペンを動かしているときには、学生みたいだが手伝いの人かとぼんやり思っていたくらいだった。
ある程度ポピュラーな仕事らしく、学生課の掲示板に貼ってあったのを見たときは、受験時の監督官について納得がいった。監督していればいいだけの楽な仕事だというイメージがあったが、実際は何もしないというのは凄くキツかった。
あとから聞けば本当に楽だったと言っている奴もいたが、試験監督をしている間、何もしないで過ごすというのが苦痛でしょうがなかった。スマホの使用は禁止されていたし、ただ学生たちを見ているだけというのもとても味気なかった。
一つ目の科目が終わる頃には、ようやく終わったという安堵感からため息がこぼれた。
それでも昼の終了時間までいれば数千円が貰えるのだ。人手が必要とはいえ、これほど楽な仕事も他にないだろう。
一旦、事務室として使われている教室に戻ってから、再び廊下に出る。休憩時間とはいえ廊下は制服姿の学生たちでごったがえしていた。中にはさっそく保健室に運ばれた奴もいると同じバイト仲間から聴いていたが、これだけいると一人二人いなくなっても気付かないだろう。
「あ、あのう」
ふと声をかけられて振り向くと、そこにはセーラー服姿の女子生徒がひとり立っていた。
「受験票を……」
顔の白い、気の弱そうな女子生徒だ。
うつむき気味で、雰囲気はひどく暗い。
どこの学校だろうか。
セーラー服だから公立ではなかろうか。たいてい高校だと私立の女子はブレザーだったり、同じセーラー服でも独自のものだったりするから、こういういかにもな制服は逆に珍しい。
これが後輩になるのかと思うと、普段なら願い下げだ。面白くなさそうなのは目に見えている。ただ、今が受験中なのを考えると、これも仕方ないかもしれない。
ただでさえ受験という緊張状態にあるなか、向こうにとってこっちは年上の男で、更に言えば従わないといけない立場なのだ。
一つ目の科目は終わっているから、この人ごみの中で落としたに違いない。
自分が受験生だった頃は受験票を落としたら終わりだと思っていたが、きちんと謝って説明すれば再発行してもらえるというのは大学に入ってから聞いた。そのまま帰ってしまったり、試験に行かないのが一番駄目らしい。
「ああ、それなら、一旦本部棟まで行ってもらわないと」
それでもほんの少しの優越感から、俺は冷たく言った。自分でもなんて声だと思ったが、今は俺のほうが立場が上なのだ。
女子生徒は今にも泣きそうな顔で、何か言いたげに口をぱくぱくさせている。
相手が受験生なのを思いだすと、さすがに可哀想になってきた。だいたい、一年前は自分もこの立場だったのだ。
「こっちで用意するから受験はできるよ。案内するからついてきて」
そう言って歩きだす。
「きみ、学部と名前は?」
「文学部の、ムラカミカナコです」
「ムラカミさんね」
それ以上の答えはなかった。
本当に無口な生徒だ。
人ごみから離れて、本部棟のほうまで急ぐ。
大学の学生たちはみんな休みだから、そこまで来るとほとんど人はいなかった。受験生たちの喧噪も今は遠く、空は曇り気味で、雪でも降ってきそうな天気だ。
この一年ですっかり見慣れた光景だというのに、どこか不安を覚えさせる。
時折案内のために振り返ると、青白い顔をしているのが見えた。本部棟ではなく保健室にでも連れていったほうが良さそうな空気だ。もっとも、その保健室も本部棟にあるのだけれど。
「あそこが本部棟だから」
残りのほぼ一本道の道のりを歩いて、階段を登ると学生課のある階へとたどりつく。
入口のガラス戸を開けきり、そのまま女子生徒を先に入れようとしたときだった。
「あれ?」
女子生徒の姿がない。
「おーい! ムラカミさん?」
どこかで迷ったのだろうか。
時計を見ると、もうしばらくすれば次の科目がはじまってしまう。
自分のバイトの件もあるし、そろそろ戻らないといけない。とにかく、本部棟の周りを探してみたが、それらしき影は見当たらない。女子生徒をひとり見かけたが、セーラー服ではなかった。
ムラカミに対して段々と苛々もしてくる。
こっちにも時間があるし、受験生なのだから向こうにも時間があるだろう。
大体、一本道で迷うなんてどうかしている。
「ムラカミさーん!?」
苛々しながら叫んでいると、向こうのほうから統括責任者の先生がやってくるのに気が付いた。俺の腕についている腕章を見ると、顔を顰める。
「もう試験ははじまってるぞ。何をしてるんだ?」
「受験票を落とした生徒がいて、本部棟まで案内してたんですが……急にどこかに行ってしまったんですよ」
駄目でもともと、正直に言った。
「落とした生徒が? どんな生徒だ?」
「女性生徒なんですが、ええと、文学部を受験してるムラカミカナコって言ったかな」
「文学部のムラカミ?」
先生がそう口にして、手にもったバインダーに手をかけた。
だが、すぐに思い直したように顔をあげたかと思うと、その表情に驚いた。先生の顔は真っ青になっていて、僅かに唇を震わせていた。
「わかった。試験監督には別の人が行っているから、きみはもういい。明日からまた頼んだぞ」
俺はわけもわからぬまま、先生に促されて事務室まで戻った。
次の日からは同じ教室ではなく、違う教室を任された。先生は何も言わず、忙しそうに走り回っていたので、どうにも聞くことができなかった。
しかし、受験が終わってしばらくした後、先生を捕まえて話を聞くことができた。
「毎年このシーズンになると、毎度きみと同じようなことを言う学生がいるんだ。受験票を落とした生徒がいる、と。最初は偶然かと思ったが、その生徒は毎回煙のように消えてしまって、どこにいるのかわからない。しかも、特徴を聞いてみると同じなんだ」
先生は俯いた表情で、けれども真面目に言った。
「おかしいと思って調べてみると、何年か前に入試直前に事故にあって死んでしまった生徒がいたらしい。名前はムラカミカナコ。写真を見ると、この女子生徒だという者がほとんどだった。偶然だとは思うんだが、はたしてこんな偶然はあるのかどうか……」
おそらく彼女は来年もこの学校を受験しに来るのだろう。
俺は、楽なはずのこのアルバイトを、来年もやろうという気にはどうしてもならなかった。
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