怪ノ六十 学生アパートの住人

 大学二年の春、俺は実家から念願の一人暮らしのアパートに引っ越した。


「おー、いいところじゃないか」


 アパートまで手伝いに来てくれた友人は、感心したように言った。


「築年数が古いっていうから、外はともかく中はどんなもんかと思ったけど」

「今流行りのリノベーションって奴らしいぞ。押し入れの中とかは昔のまんまみたいだけど。ま、見えないからいいだろ」

「へえ、どれどれ?」


 友人が珍しそうに押入れの中を覗くと、「ほんとだ木が古い!」という微妙な叫びがあがった。まったくもって手伝いに来たのか遊びに来たのかわからない。俺は手に持った段ボールを机の横まで運び、まだ何も入ってない本棚を見つめる。


「でも、どうしてこの時期なんだ?」


 ようやくやる気を出してくれたのか、使い終わった段ボールの山を崩し始めてくれる。これである程度場所が確保できる。


「最初は電車で行ける距離だからって許してくれなかったんだけどさー。俺、一人部屋だったし。上の妹が今年、高校受験でさ。下の妹と部屋が一緒なのはさすがにどうかって。俺が出てけば部屋が空くだろう?」

「はあん、それでか」


 本を適当に詰め込みながら、俺は続けた。


「まあ、二人とも喜んでたぜ。自分の部屋ができるって。上の妹なんて、まだ俺がいるのに荷物をちょっとずつ運びこみやがって」

「はははっ、俺は兄弟いねーからちょっと羨ましいなあ」

「それにこのアパート、学校からも近いから、学生用にしてるみたいなんだよ。だから余計安いみたいだ」

「ふうん。……あっ、そうだ。後からケンジとトモも来るみたいだぜ」

「おう、りょーかい。早めに終わらせて、今日は宴会といこうぜ」


 俺はにやりと笑った。

 それから一時間ほどして二人が到着すると、ますますスピードは上がった。二人が買いこんできたジュースやつまみに加えて、ピザを注文して盛り上がった。

 その日は四人で深夜まで騒ぎ、昼近くなってからようやく起きた。

 連れだって大学まで行き、午後の授業だけ受けると、その足でバイト先まで急いだ。バイトが終わってようやく家に帰ることができたのは、十時を過ぎてからのことだった。


「ただいま」


 誰もいないのはわかっているが、妙にわくわくする。

 電気をつけて部屋に入ると、ようやく自分の部屋という気分になった。初日から友人と騒いだり大学に行ったりとゆっくりする暇がなかったが、それでも次第に高揚していた気分は落ち着いていった。

 それまで一人部屋とはいえ家族と住んでいた自分にとっては、妙に静かだ。


 とはいっても、昨日は騒いでいたから仕方がないが、夜になるとあちこちから音が聞こえてきた。もしかすると昨日の騒ぎは他の部屋にも聞こえていたんじゃないかと少し心配になる。だが、どこかの部屋でも酒盛りをしているらしく、笑い声も聞こえてきていた。隣の部屋からも電話をしているらしい女の声がする。


 ――早めに挨拶なりなんなりしたほうがいいな。


 昔のように菓子折りを持って、なんてことはないだろうが、せめて初日のことを謝りつつ挨拶に行ったほうがいいかもしれない。

 俺はさっさと風呂に入ってしまうと、今日の疲れを取り戻すべく早めに就寝した。


 ところがだ。


 ――なんだ? うるせえなあ。


 上の階だろうか。ドンッと何かを動かすような、部屋の中を歩き回っているような音がする。こんな時間に家具でも動かしているのだろうか。ぼんやりと目を覚まして、はっきりとした時間をスマホで確認する。

 深夜の一時を過ぎている。

 もしかすると、昨日の騒ぎで怒っているのかもしれない。その報復なのか。

 ため息をついて再び眠りにつこうとすると、今度は急に笑い声が聞こえてきた。


「きゃははは!」


 ぎょっとして跳び起きたが、よく声を聞くと、隣の女のようだった。まだ電話しているらしい。楽し気な笑い声が聞こえてくる。最初のうちは隣が女であることを喜んでいたのだが、甲高い声でいつまでも喋っていられるとうるさいことこの上なかった。


 ――はー……そうか。こういう弊害があるのか……。


 安アパートだから仕方ないのかもしれないが、今後はこれに慣れないといけない。それでも疲れがきたのか、またすぐに瞼が重くなった。

 気が付いた時には朝になっていたが、疲れが取れたという感覚はなかった。


 仕方なく授業の準備をしていると、ピンポン、とインターホンが押された。

 なんだ、と思っていると、もう一度押される。

 まだ九時前だっていうのに、いったい誰だろう。


「はーい」


 そういえば自分で出なければならないと気が付いて、玄関まで行く。宅配でも来たのかと思って開けると、そこには自分と同じ年代くらいの男が立っていた。


「なんですか?」

「あ、すいません。僕、この上の階の、202の芳野っていいます」

「ああ……はい」

「先日はすいません。うるさかったですよね」

「え、いや……」

「引っ越してきたばかりなんですけど、荷物整理に夜中までかかっちゃって」


 あ、と気が付く。

 ドタドタいっていたのはそのせいだったのか。


「あ、ああーー……、そうなんすか。実は俺もここ、引っ越してきたばっかなんスよ」

「そうなんですか! よろしくおねがいします」

「ああ、俺も引っ越し初日に騒いじゃって、気になってたらすいません。中々挨拶とか行けなくて……でも、他の部屋でも誰か酒盛りしてたみたいだし、お互いさまなんでしょ」

「えっ?」


 相手は驚いたように瞬いた。


「えっ? ……あの、何か?」

「ここ、僕たちの他には誰も住んでませんよ」


 相手の言葉は思った以上に俺の心を突いた。


 その日一日、授業で何をしたのか、友人たちと何を話したのか覚えていない。家に帰ってからも、俺は震えて周りが気になっていた。

 せめて確認しようにも、朝が来るまではと思ってしまったのだ。その間にもどこからか女の声や笑い声が聞こえてきそうな気がした。スマホのアプリゲームを起動しようにも、まったく頭に入ってこない。

 そのまま気絶するように眠り、気が付いた時はカーテンの隙間から朝の光が入ってきていた。


「やっべ」


 今日は朝から授業があるのだ。

 この間休んでしまったし、休み癖がつくのも困る。一人暮らしのせいで単位を落としたなんてことになったら、せっかく手に入れたこの環境を棒に振ることになる。

 急いで支度をして外に出ると、急に昨日の話を思いだした。


 鍵をかけようとして、隣の部屋を見る。

 ひどく恐ろしかった。長電話していた女も、酒盛りの声も本当にいないっていうのか。

 鍵を突っ込んだ手が震える。その表札を今にも確認したかった。もう暑くなりはじめているというのに、ひどく寒い。背中を冷たいものが這っていき、掌に汗が滲む。

 すると急に、隣の部屋の扉が勢いよく開いた。

 ぎょっとして隣を見ると、ひとりの女が続いて出て来た。思わず頭の先からつま先までを見てしまう。女は俺の存在に気が付くと、会釈をした。


「おはようございます」


 不思議そうな顔で此方を見ている。


「はじめまして、ですよね?」


 恐る恐るというように顔を確認してくる。


「えっ? ……あ、ああ! 隣の、石崎です。よろしくおねがいします」

「隣の遠藤です、よろしくおねがいします。……あの、私の顔に何か?」


 あまりに女の顔をじっと見てしまったのだろう。女が訝し気にこっちを見てきたので、俺は慌てて取り繕った。


「あっ、いや、その……実は昨日、上の階の人に会ったんですけど、自分と俺以外には誰もいませんよ、って言われちゃって。誰もいないと思ってて、びっくりしたんです」


 笑い話のようにして話す。


「ああ、そうなんですか。……でも、上って202号室ですよね。誰か住んでたかなあ」

「えっ……?」

「それじゃあ、私もう行きますね」


 女は会釈をすると、俺の横をすれ違って自転車置き場のほうへと歩いていった。


「誰か住んでたかなって……」


 俺は誰も聞いていないにも関わらずひとり呟くと、その足で階段まで駆けだした。カンカンと音を立てながら階段を登り、自分の部屋の真上のところまでやってくる。誰かいるなら表札が出ているはずだと確認したが、そこは真っ白の表札があるだけで、何も書いていなかった。

 後になって調べたところによると、このアパートを改装する前、ここに引っ越してきた直後に殺された男がいるらしかった。なんでも、その前に住んでいた住人にストーカーがいて、引っ越したことを知らずに尋ねてきたらしい。前の住人は女性だったらしいが、彼氏と勘違いしたストーカーに刺殺されたということだった。

 アパートはそれがあってからリノベーションされ、学生用アパートとして貸し出しを開始したらしい。

 古さに加えて妙に安い理由を、俺は理解した。


 だがすぐに引っ越すわけにはいかず、俺はまだこのアパートにいる。

 今日も上の階からは、ドンと音がしている。

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