怪ノ五十九 学校に来る運動靴
小学校教師である神谷が生徒を亡くしたのは、夏前の出来事だった。
それは、普段通りの朝の出来事。
住宅街に突然、鈍い大きな音が響き渡った。
何事かと飛びだしてきた住人たちは、電柱にぶつかって煙をあげている車と、地面に血まみれで横たわる男の子を見ることになった。現場は騒然となり、最初に飛びだしてきた初老の男性が男の子に駆け寄ったが、彼はかなりの出血でぐったりとしていた。道には引きずられたように血痕が続いていて、凄惨という以外に言葉はなかった。
「はやく、警察!」
「救急車もだ!」
人々が叫ぶなか、ぶつかった車の車輪はぐるぐると回り続けていて、やがてバックしはじめたかと思うと、おぼつかない運転で再び動きだそうとした。男たちがそれを何とか止めようとしてしがみつき、騒ぎはますます大きくなる一方だった。
冷たくなっていく男の子をどうすることもできないまま、救急車を待って祈るしかできなかった。願い虚しく彼は病院で死を確認されたのだ。
その一報を聞かされたのは、次の日の全校集会でのことだった。
タクミと呼ばれていた男の子の死に一番ショックを受けたのは、他でもない同じクラスのクラスメイトたちだった。
さほど仲の良くなかった子たちも、同じ子供が――それもクラスメイトのひとりが――死んだということに対して、言葉にできない動揺を受けていたのは明白だった。
のちに、彼は一度ぶつかったあとに服が引っ掛かり、長いこと引きずられた後に車がようやく電柱にぶつかることで止まったとわかった。運転手は、気が付かなかった、男の子が勝手に車の下に潜りこんだとしきりに言っていたが、支離滅裂な言動を繰り返したあげく、アルコールの臭いもぷんとしたらしい。
担任だった神谷は、通夜に生徒を伴って出席した。
負担、けっして大人しいとは言えない生徒たちが動揺したり騒ぐのではないかとはらはらしていたが、予想を裏切ってクラスメイトたちは神妙だった。動揺という意味では当たっていたのかもしれないが、彼らの誰ひとりとして、まだ現実を受け入れてはいなかったのだ。
「お母さん。このたびは、どうも」
神谷は神妙に頭を下げた。
母親は泣き晴らした目をしていたが、神谷に気が付くと何度も頭を下げた。
「先生には本当に……お世話になって……」
神谷は声を詰まらせる彼女に、どう声をかけたものかと思っていた。
神谷自身も祖父母の葬儀に出席したことはあるが、遠い昔の記憶だったからだ。結局神谷は自分が何を話しているのかもわからぬまま、慰めの言葉をかけるしかなかった。
「あのう……ところで先生、つかぬことを御伺いしますが、タクミの……息子の靴をご存知ないでしょうか?」
「タクミ君の靴、ですか?」
「ええ。事故があった時はかなり混乱していたらしいので、見落とされたのかもしれないんですが……ちょうどあの事故の日におろしたばっかりの青い靴を履いてたんです。履いていくのをすごく楽しみにしていて……」
神谷は瞬きをした。
「病院に運びこまれた時には確かに片方は履いていたらしいんですが、いつの間にかなくなっていたらしくて……。あ、いえ、先生は現場にいなかったからわからないですよね。申し訳ありません」
二人が話し込んでいると、まだ式場に残っていた生徒が数人、不思議そうに二人を見上げた。
「ねえおばさん、それなら俺、見たかもしれない」
「青い新品の靴なら、私もどっかで見たかも……」
生徒の騒めきに、神谷は驚きを隠せなかった。
「ええっ? どこにあったんだ?」
「ほら、事故のあった通りのところ。そろえて置いてあったから誰のだろうと思って」
「あっ、そうだ。黄色い看板のところでしょ、うどん屋さんの」
「そうそう、そこだった!」
「ふうん? 誰かがそろえて置いといてくれたのかもしれないな。もしよかったら、今からわたしが取ってきましょうか?」
母親は一度は慌てて断ったが、結局は神谷の申し入れを受け入れた。
だが、神谷が車を走らせた先に、青い靴はなかった。車に乗せた生徒二人も、「確かにこのあたりだった」と言っていたが、それらしいものはついに見つからなかった。
八時を越えてしまうのもまずいので、神谷は電話でタクミの母親に話をつけたあと、生徒二人を車で家まで送り届けた。
そして翌日のことだ。
「そういえば青い靴、無くなってたね。先生、返したの?」
「えっ? いや、それが……」
「青い靴ってなに?」
別の生徒が聞いてくる。
「もしかして、交差点のところにあった青い靴?」
「なんだって?」
神谷は思わず聞き返した。
「今朝、学校に来る時に見たような気がする、青い靴。なんでこんなとこにあるんだろと思ったけど、特に気にせずに来ちゃって」
同じことを言う生徒は一人ではなく数人いた。
「誰かが移動させたのかな」
「うどん屋さんが移動させたのかも。靴だけそろえて置いてあるって、なんか怖いし」
「あんな交差点にィ?」
生徒たちは不思議がった。
それが一日だけではなく二日三日と続き、やがて二週間もすると、今日はどこに靴があったかという報告で持ち切りになった。
だが不思議なことに、その時は何も疑問を感じないのだという。これだけ学校で騒ぎになっていたら、誰かが靴を拾ってこようと考えそうなものだが、なぜか学校へ来るときはそこに靴があることを不思議に思わないのだそうだ。
クラスに入って、「誰か靴見た?」という話題になってはじめて、「そういえば……」と思い出すのだそうだ。
この不可思議な現象に、神谷も眉を顰めた。
「お前たち、先生をからかうんじゃない。クラスメイトがひとり死んでるんだぞ!」
神谷は一喝したが、生徒たちはお互いに顔を見合わせることしかしなかった。
悪戯というよりも困惑が広がっていた。
「……でも先生……俺たちだってわかんないよ。そりゃ、最初は面白かったけど……でも……」
ぽつりと呟かれた言葉に、神谷は我に返った。ため息が口をついて出る。
「ねえ先生。ちょっといい?」
「なんだ?」
「靴なんだけど、最初は事故のあった近くのうどん屋さんの看板のところでしょ。それで次は交差点のところ。それから次はえっと……歩道橋の隅っこだったり、上だったり、反対側だったりしたでしょ」
「それがどうした?」
「靴の場所が学校に近づいてきてるような気がするの」
途端に教室中が騒めいた。
タクミは学校に来ようとしているのではないか。
その推測は明らかに全員の中で繋がった。
「そ、そんな馬鹿な」
神谷は思わず言ったが、その推測がどうにも当てはまってしまう。
「このペースだと、数日中には学校に来るのかも……」
みんな黙りこんだ。
少しずつ移動している、タクミのものと思われる靴。
「ど、どうしよう」
「何か怖い……」
「お祓いとかしてもらったほうがいいんじゃない?」
得体の知れないものへの恐怖がまして、不安が最高潮に達したころ、神谷は息を吸いこんだ。
「みんな、タクミはどんな奴だった?」
神谷の口から自然と滑り出たのは、そんな言葉だった。
「誰かを恨んだりするような奴だったか? 学校が好きで友達が好きな奴だったじゃないか。もしかすると、もう一度クラスに来たいがために、あの世に行けずに迷っているのかもしれない。みんな、あいつをもう一度待たないか?」
それでも、神谷にとっては賭けでしかなかった。
幽霊は恐ろしい。
特に幽霊を恐れる子供たちにどんな風に言えばいいのか、はじめてやることだった。だからこそ何が正解なのかがわからなかったのだ。
同時に、タクミを信じたい気持ちもあった。
それから、タクミの靴は次第に学校へと移動してきていた。通学路の途中にずっとあったそれは、やがて校門の近くに移動し、学校の中で発見された。校舎の入口から階段へと移動し、翌日には教室に近づくのではないかと思われた。
そうして、その日はやってきた。
「先生、来た! 来たよ!」
神谷は複数の生徒の声で呼び止められた。
――ついに来たか。
神谷は意を決して教室まで赴くと、入口の前の廊下にぽつんと置かれた靴があった。青い靴だが、妙に汚れている。どす黒い汚れが目に入ると、忘れていた恐怖心が頭をもたげた。
ごくりと喉を鳴らす。
生徒たちが不安そうに後ろで突っ立っている。
「お前たちは後ろのドアから入りなさい」
そう言って生徒たちを教室の中に促すと、神谷は一度深呼吸をしてから言った。
「おはよう、タクミ!」
恐怖をしまいこんで、いつものように声をかけた。
幽霊ではなくただのクラスメイトとして接しようとなるべくつとめた。
「遅刻ギリギリだったな。もうすぐ授業が始まるぞ!」
神谷は教室の扉を開けっぱなしにしたまま、教壇に立った。生徒たちの表情にわずかな不安が浮かんでいる。
――駄目だ。おれがしっかりしないと。
神谷がそう思ったとき、ふと、誰かが口を開いた。
「お、おはよう」
誰かが言い始めると、全員が靴に向かって挨拶をしはじめたのだ。
「ほら、早く入れ。出席を取るぞ」
空気が僅かに和らいだ気がして、神谷はいつも通りに動き始めた。ひとりひとりの名前をきちんと呼んでいく。
「――タクミ」
神谷がその名を呼ぶと、ふと机のほうからカタンと音がした。
慌てて教室の扉を見ると、靴が消えていたのだ。全員が目を離している、ほんのわずかな時間だった。ぎょっとして目線をやると、その靴はいつの間にか元タクミの机の下にちょこんと置かれていたのである。
生徒は全員上履きに履き替えるのがルールだったが、神谷も生徒たちも何も言わずにそのまま一日を過ごした。
靴は次の日も、そのまた次の日もそこに置かれたままだった。
三日ほど経ったあとに、偶々クラスに入ってきた他のクラスの先生が尋ねた。
「神谷先生、この靴、なんです?」
不思議そうな顔でいわれると、神谷は深い息を吐いた。
「――この間、亡くなった生徒のものなんです。靴だけが行方不明だったのが見つかったんですよ。生徒たちの意向で、元の席に置いてあったんです」
神谷の言葉に、先生はひどく納得したような顔をした。
神谷の肩を軽く叩くと、小さく頷いた。用事を済ませて出て行くと、神谷はもう大丈夫だろうという気持ちになった。
生徒たちに見送られて、その日のうちに靴は教室から神谷の車へと移動された。そうして、そのままタクミの自宅へと持っていったのだった。
両親は泣きはらし、何度も神谷に礼を言った。
できれば一緒にあの世に送ってやりたかったが、火葬の際に入れることができなかったので今後考えるとのことだった。
あとにも先にも、神谷が不思議な体験をしたのはこれだけだった。
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