怪ノ六十三 教員寮の怪
これはな、先生がまだ若かった頃の話だ。
今もまだあるかはわからないが、昔は教員寮っていうのがあってな。公立で教えている先生たち用に、寮があったんだ。
先生が寮にいたころは、もうそういう場所が少なくなってきていた。
入居期間は採用されてから最初の数年、というようなところが多くて、二、三年の間に多くの先生たちが入れ替わり立ち代わりしていたようだよ。
けれど、先生がいた所の賃貸料は八千円。今ですらそんなところは滅多にお目にかかれないし、あったとしても物凄く古いか、事故物件のどちらかだろうな。とにもかくにも、社会に飛びだしたばかりで、金のない若人には願ったり叶ったりだった。多少の不便さはさしおいても、先生はすぐに飛びついたんだ。
ところがまあ、やっぱりその値段に見合う環境ではあるわけだよ。
その当時の築二、三十年っていうと、やっぱりすごく古いアパートなんだ。
部屋は六畳一間の畳み張り。押し入れの天井は穴が開いていて、段ボールで補強がしてあった。玄関を入ってすぐの右側に狭いキッチンがあって、左側にトイレがあった。そのトイレがひどくて、タイル張りの床に、錆びかけた和式がついてるようなやつだ。電気も豆電球がひとつ垂れさがってるだけで、風通しはひときわ悪い。腹でも下そうものなら地獄だった。
加えて部屋は窓のたてつけが悪くなってて、冬になると隙間風が吹いてくるもんで、ガムテープでいちいち補強しないといけなかった。
まあそんなところでも、当時はありがたかったもんさ。
何しろ若かったから。
トイレが多少汚かろうが、風呂が共同だろうが、冬が寒かろうが、なんとか生活に耐えうるレベルだったんだ。幸いにして先生の部屋は冷暖房がついていて、そいつが妙にでかい音を出す以外にはちゃんと働いてくれていたからな。
さて、そういうところだから、住人の入れ替えも激しかった。
元々入居年数的にも長く入居できるようなところじゃなかったし、必要なお金が溜まるころには、もっと綺麗なマンションやアパートに引っ越す人も多かった。五年もいればアパートの主みたいなもので、早く出て行ってもらえないかと苦言を呈される頃合いだ。
実際に、五年も住んでいた吾妻という男の先生はそう言われていたみたいだった。
ある時、吾妻先生と一緒に部屋で飲もうということになって、そのことについて愚痴られたよ。
「そろそろ俺も出なきゃならん頃合いみたいでね」
「先生は何年この寮にいましたっけ?」
「五年だ。別に便所にも家にも不満があるわけじゃないから、わざわざ移動して高い家賃のところに行くのも億劫でな」
そう言って吾妻先生は缶ビールを飲み干した。
「皆さんほとんど数年もしないうちに出て行っちゃいますからね」
「まったくだ。普通の賃貸だったら事故物件もいいところだ」
吾妻先生は数本目の缶ビールを開けようとした。吾妻先生が酒に強いのは知っていたけど、そろそろ止めないと明日に差し支える。
あのころは色んな意味で暢気な時代だったけれど、それでもやることはきちんとやらないと。やんわりと止めようとしたけど、吾妻先生は缶を開けてしばらく考え込んでいた。
「そうだ、高橋先生。事故物件で思いだしたんだがね」
「なんでしょう?」
「ここの一階の一番奥の部屋があるでしょう。あそこ、出るんだよ」
「出るって、何がですか?」
「これだよ、これ」
吾妻先生は両手をだらりと前に垂らした。
いわゆる幽霊のポーズだ。
「あそこだけ妙に人の出入りが激しいだろう」
そう言われても、当時も授業で忙しくて、人の入れ替わりに気付くことはあっても、どれくらいのサイクルで入れ替わっているのかまではわからなかった。
先生のいたところのアパートは、夏休みの間に出て行く人もいたし、正月に実家に帰りがてら引っ越す人もいたくらいだったからね。
「そう……ですかねえ?」
だから先生は、曖昧に答えたんだ。
けれども吾妻先生は何かのスイッチが入ってしまったみたいに、それから饒舌に語りだした。
「そうだよ。あの部屋に入ったやつは、夜中に、ギィ……ギィ……って音がするんだと。最初のうちは慣れない生活や、アパート自体が古いからってことで気にしないんだが、次第に、同じ時間になると音が規則的に聞こえることに気付くんだと。いったい何の音だってんで目を覚ますんだが、その途端に音は消えちまう。気のせいかと思ってその日は眠りについて、朝まで眠ることができた。だが、今度はそれが毎晩続くんだ。毎晩毎晩、ギィ……ギィ……って音で目が覚めるんだ。いい加減うるさいと思ってきたところで、ふと音が自分の上から聞こえてくることに気が付くらしいんだ。なんだちくしょう、上の階の奴め、と思っていると、音は次第に大きくなっていく。もう我慢ならんと起き上がったところで、起き上がると――」
恐ろしく青白い形相の奴が、天井から首を吊ってるんだ――。
「ギィギィって音は、ロープのせいで軋む音だというんだ。だからあの部屋にいるやつは一年どころか半年、悪けりゃ一か月ももたずに引っ越す奴がほとんどなんだよ」
吾妻先生は缶ビールをごくごくと飲むと、それを置いてから続ける。
「おれァ、もし引っ越すのなら、一度くらいはあの部屋に泊まってみてからと思ってるんだ」
さすがに幽霊なんて信じる年でもなかったけど、背中が妙にぞくぞくーッとしてな。吾妻先生は少しだらしのないところはあったけれど、人をからかうような人ではなかった。
「首吊り人形に文句の一つでも言ってやりてえ。おまえのせいでここに人が入らねえんだってな」
けらけらと笑う吾妻先生には、ふざけている様子は微塵も感じられなかった。
先生はそれでもまだ冗談だと思って、こんな風に言ったんだ。
「じゃあ、もし見られたら一喝してやってくださいよ。俺たちも先生なんですからね」
それから、吾妻先生とは別れて部屋に戻った。
古い家っていうのは、それでなくてもギィッ、とか、ミシッ、とか、木が音を立てるものだ。酒が入っているというのに、妙に目が冴えてしまったよ。
翌日は吾妻先生のほうが元気だったね。
あれくらいじゃないと教師というのは成り立たないのかもしれないね。
それからテストの時期に入って、先生たちもばたばたしはじめた。だから他の先生たちと交流する暇もなくて、自分のことにいそしんでいた。
するとしばらく経ってから、また吾妻先生に呼びだされたんだ。
「高橋先生。今晩ちょっと付き合わないか」
こう、ビールを飲む仕草をしてな。
吾妻先生はいつもそういうとき、ちょっとニヤついているというか、楽しみにしているという風な表情だったんだけれど、そのときは妙に真剣な目をしていたよ。
何があったんだろうと不思議に思いながらも、飲むのは楽しみだったからね。つまみや缶ビールを買いこんで、吾妻先生への部屋へと赴いた。
吾妻先生は既に缶ビールを二本ほど開けていた。既に出来上がっているのかと思いきや、ずっと何も言わないんだ。
先生も缶ビールを開けて飲みだしたけど、吾妻先生は妙に押し黙っていた。
「どうかされたんですか?」
沈黙に耐えられなくなって、とうとうこちらからきりだした。それからまた吾妻先生もじっ……とどこかを見つめていたけれど、もう一本缶を開けると、ようやく話をしだしたんだ。
「高橋先生。この間の話を覚えているかい」
「この間、といいますと?」
「幽霊だよ。一階の奥の部屋の話」
「……ああー、そういえばそんなこともおっしゃってましたね。それがなにか?」
「実はこの間から、あの部屋で寝泊まりをしてるんだ」
そりゃあびっくりしたさ。
まさか吾妻先生が本当にそんなことをしているなんて思ってもみなかったからね。
「それって、勝手にってことですか?」
「まあ、そこは言うなよ。それで聞いてくれよ。確かにあの部屋じゃ、ギィギィッて音がしたんだ。家鳴りなんかじゃない。一定の感覚で、ぎぃ……、ぎぃ……って鳴り始めたんだ」
「そ、それで。見たんですか」
「ああ。上からしているってことはわかりきってるからな。なんとかして見てやろうと目をかっぴらいてやったんだが、上には真暗な闇が広がるばかりだった。幽霊の姿なんか見えやしねえ」
「それじゃあ、やっぱり上の人が……?」
「いや、今はそこの部屋には誰も住んでないはずなんだ。勝手に住みついてやがるならそれはそれで問題だが、それにしたって他の生活音みたいなのがするだろう」
先生は黙って、吾妻先生の言うことを聞いていた。
「何日かそんなことが続くうちに、妙なことに気が付いたんだ。上は真暗なんだよ。いくらなんでもそりゃあありえない。窓の外は多少の灯りはあるし、完全に外と断絶された閉めきった部屋じゃないんだからな。目が慣れてれば天井や電灯が見えるはずなんだ。けれども――」
「見えない、と?」
「こりゃおかしい。ははあ、さてはおれは幽霊の足の裏でも見ているんだなと思うと、途端に笑いがこみあげてきた。つまりだ、天井から首を吊ったわけだから、もしそんな幽霊がいるのなら、ちょうどおれの頭の上に足があれば、ちょうど隠れるような形になるわけだ。こりゃ面白いと思って、くすぐってやろうと腕を動かそうとした。だが、動かないんだ。手が。微動だにしない。これが金縛りってやつかと思った。もしかするとずっとそうだったのかもしれないが、気が付いてなかっただけかもしれねえがな」
吾妻先生のその時の目は、妙に落ちくぼんでいたように思う。
思えばそのときに、逃げればよかった――とも少し思う。
「なんとか頭だけでも動かして、やっこさんの面を拝んでやろうと思った。おおい、足の裏しか見えてないぞって思いながらな。しかし待てど暮らせどそれらしいものは見えてこない。おれは目を凝らしてもっとよく見てやろうとしたとき――」
ぐい、と缶ビールをのみほし、勢いよく空の缶をテーブルに叩きつける。
「暗闇の中から顔が浮かんできたんだ――おれの顔だった」
その指先は小さくカタカタと震えていた。
「叫ぼうにも声が出なかった。頭は首を吊っていて、だらりと舌を出していた。目から鼻から耳から、穴という穴から液体がこぼれ、およそ正常な頭のやつがする顔じゃなかった。それが首を吊ったままじっと俺を見ているんだよ」
先生は何も言えなくなった。
まさか嘘ではあるまいし、ここでそんな嘘をついてどうするというのだ。
「おれの意識は遠のいていって……気が付いたときには朝だった。とにかく朝日が入ってくるのがこのうえなくうれしかった。あれほど東からのぼるおひさまに安心しきったのもはじめてだった。だが、怪異はそれだけじゃすまなかったんだ」
ごくりと喉が鳴る。
「今まであそこに住んでた奴らは、顔なんか見ていなかったんだ。恐怖で、恐れて――ただ首を吊ってるやつがいるってだけで。見たのはたぶんおれがはじめてだったんだろう。そして、それを見ちゃいけなかったんだ。見てはいけないものだったんだ。やつは――移動したんだ。おれの部屋に!」
急に部屋が冷えたようだった。
そのとき突然、どこからともなくギシリと家鳴りがしたんだ。
「この部屋! この天井にだ! あれからずっとおれのことを、おれが見下ろしているんだ! ギィギィ、ギィギィって首を吊りながら! なあ高橋、おれはどうすればいい? いったいどうしろっていうんだあ!」
吾妻先生は正気ではなさそうだった。先生は、飲み過ぎですとかなんとか言ってすぐさま部屋に逃げ帰った。部屋までかけていって、鍵をかけて布団の中にすぐさま潜りこんだ。吾妻先生が追いかけてくるんじゃないかと怯えていたけど、やがて酒のまわった体は気絶するように眠りこんだんだ。
明日になって、吾妻先生が「いやあ、昨日は脅かし過ぎたよ」なんて笑って出てきてくれるのを待っていた。
だが、吾妻先生は急病だとかで学校には顔を出さず、部屋に籠ったままだった。その急病は一日どころでなく、二日、三日、一週間、そして二週間が過ぎたころだった。
寮のなかで、吾妻先生の死体が発見されたんだ。
あの一階の奥の部屋で、天井から首を吊った姿で発見されたらしい。
誰もいない部屋だったし、普段は鍵がかかっているからまさかそんなところで人が死んでいるとはわからなかったみたいだね。おかしいだろう、腐臭や異臭がしそうなものだけれどね。だけど臭いは部屋の中だけにとどまっていたようだよ。
じっさい、先生も気が付かなかったくらいだから。
先生もそのあとすぐに引っ越した。
まだあの寮暮らしをするつもりだった先生や、引っ越してきたばかりの他の先生たちにとってはいい迷惑だっただろうね。何しろけちがついてしまった。
それからしばらくあとになって、あそこのアパートで自殺した人がいたという話を聞いたよ。けれどもそれが、先生たちのような教師なのか、それとも寮の関係者なのかまではわからなかった……。
もしかすると、吾妻先生は呼ばれてしまったのかもしれないと思ってるよ。
あのとき止めていればよかった、とも思う。
でも、この話をすることでその迷いも断ち切ろうと思ったんだ。
まだ、吾妻先生に呼ばれるわけにはいかないからな――。
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