怪ノ六十四 通学路の魔女

 魔女に近づいちゃいけない。


 それが私たち小学生の間のルールだった。

 魔女というのは学校の近くに住む老婆のことで、名前は真嶋といい、あまりこの近辺では見かけない名前だった。

 単にマジマという苗字だからそう呼ばれているわけではない。通学路の途中にあるその家も、鬱蒼とした樹木に覆われたあばら家だった。庭園やガーデンという言葉からは程遠い、どこかから拾ってきたようなプランターを乱雑に置き、植物を植えただけの庭は、夏になると虫が飛び交って近隣から顰蹙を買っていた。

 彼女がいつごろからそこに棲みついているのか誰も知らず、ただ「昔からいる」としか言いようがない。

 聞いた話によると、人付き合いはそれこそ無いに等しく、通りすがりに「こんにちは」と声をかけただけで怒鳴られたことは数知れず。セールスマンが入ろうものならホウキで叩きだされ、家の横を通るだけで水をかけられ、おまけに出歩いているところを誰も見たことがないという。


 あのお宅には近づいちゃ駄目よ、と大人たちは口々に言ったが、進んで関わろうと言う子供もないに等しかった。


 私はその日も誰にも気付かれ無いように下校ルートから外れると、住宅街の裏通りを歩いた。そこを通る人間はゼロに等しく、猫たちがわが物顔で歩くだけの獣道のようだった。

 異次元にでも迷いこんだような道をしばらく行くと、やがて木々に囲まれた古い家が見えてくる。蔦の這う門を抜け、古い裏口の引き戸をからからと開けると、靴を脱いで中に入りこんだ。


「ああ、よく来たねえ」


 魔女はニコニコと笑いながら私を迎え入れた。


「こんにちは」

「はい、こんにちは。今日はマフィンを焼いてみたのよ。手を洗ったらどうぞお食べ」


 こうして魔女……真嶋さんと出あったのは一か月ほど前になる。

 裏道を歩いていた私は道がわからなくなり、そのときにちょうど真嶋さんの家の裏手を通ったのだった。真嶋さんのことはどうにもぴんと来ていなかった私は、「食べられる!」というような素っとん狂なことを思ったものだが、彼女は意外にも私を家にあがらせ、お茶菓子と茶を出してくれたあと、家までの道を教えてくれたのだ。


「あんたはいい子だねえ、ミカちゃん。他の連中とは大違いだ」


 真嶋さんは黄色い歯を剥き出しにしながらニコニコと笑い、しばし最近の流行やテレビのことを聞きたがった。

 私があれ以来こうしてここに来るようになったのは、お茶をもらったということだけではない。よくよく彼女と話をすると、好奇心旺盛で興味の尽きないごく普通のおばあさんだということがわかってきたし、学校のことや、お母さんやお当さんの愚痴も聞いてくれる。


「みんな、あたしのことを魔女っていうだろう」

「それは……」

「あたしはね、そんな噂気にしちゃいないのさ。魔女で結構。面白いじゃないか」


 そう言って、黄色いのか緑なのかわからないお茶を出してくれる。

 どこか甘い香りのするこのお茶は、どこで飲むものとも違っていた。部屋の中は和風なのにも関わらず、異国の香りがする。


「宿題はあるかい? 今はどういうことをやるんだね。一緒に考えてやろう。なに、私の頭はまだ老いぼれちゃいないさ……」


 少なくとも私はこのおばあさんに悪意や敵意というものを感じなかったし、どうしてみんながそれほど恐れるのかもわからなかった。


 楽しい時間が過ぎて家に帰ると、もう五時を過ぎていた。お母さんがパタパタとスリッパを鳴らして出迎えてくれたが、その表情は暗い。


「最近、遅いわね」

「公園とか、友達の家に行ったりしてるのよ」

「毎日?」


 お母さんの言葉に、声が詰まる。


「別に毎日ではないけど……」


 私がそう言いながら靴を脱ぐと、お母さんはふうっとため息をついた。


「まあいいけど。あんまり危ないところに行っちゃだめよ」

「わかってるよ」

「あ、それと、真嶋さんのお宅には近づいちゃだめよ」

「うん」


 なぜお母さんたちがそれほどまでに真嶋さんを嫌うのか、よくわからなかった。

 それでも私は真嶋さんの家に行くのをやめることはできなかった。


 不思議な味のお茶は私を違う世界に誘ってくれるようだったし、そのお茶の味が学校のあとの楽しみになっていた。お菓子はいつも違っていて、最初のほうこそおばあちゃんちで出るようなおせんべいや黒飴のような古臭いお菓子だったけれど、最近はクッキーやポテトチップスといった私の好きなお菓子を出してくれるようになったからだ。ケーキのときもある。それはちゃんと箱に入っていて、私も知っているケーキ屋さんの名前があった。「出歩いているのを見たことがない」なんて、誰も見ていないから言えるだけなのだ。


「大人なんていうのは、勝手なのよ」


 真嶋さんはそう言ってお茶を淹れる。


「相手の一部分しか見ないのよ。その噂が悪いものであればあるほど、人はそこに注目してしまうものなの。もちろん人は全部の自分をさらけ出すなんて恐ろしくてできないけれどね」


 お茶だけは相変わらず、不思議な香りがした。

 たぶん、ハーブティーの一種なのだと思う。そんなものを湯のみで出してくれるのはおかしいけれど。

 それだけでなく、真嶋さんは時々家の中のものを見せてくれることがあった。


「ここの家には地下があるのよ」


 そう言って、キッチンの床から小さな保管庫を見せてくれた。

 中にはウメボシなんかの漬物や保存食のようなものが見えていた。そんなものが家で作れるのは驚きだったし、昔はどこの家庭でもやっていたらしい。


「この人形を見たことはある? 有名な人形師さんの作りなの」


 人形は西洋人形めいていて、和室には不釣り合いだった。

 けれども確かに良いものだというのはわかった。レースは白く輝いているし、よく見る人形とは違って顔も美しい。


「ここの押し入れの中に……そうそう、あったあった。ガラスのティーポットね。この家にはあわないでしょう。誰か欲しい人でもいればいいんだけど」


 私があまりに真剣な目で見ていることに気が付いたのか、真嶋さんは薄く笑った。


「そう、それならあたしが死んだらにしてあげよう。いくらなんでも他の大人に嫌われてるあたしが今あげたら、あんただってもう近寄れなくなりそうだからね」


 そうして、何か特別というものでもないが、私の興味をひくようなものを持ってきては見せてくれたのだ。

 あるとき、真嶋さんがこんなことを切りだした。


「そういえばあんた、うちの二階を見たことはあるかい?」

「二階? このおうち、二階があったの?」

「ああ。といっても屋根裏みたいなものだがね」


 そう言うと、真嶋さんはゆっくりと立ち上がった。

 曲がった腰は確かに魔女のようだ。私は誘われるように立ち上がり、真嶋さんのあとについていった。

 廊下の隅にある階段は小さなもので、今まで気が付かなくても仕方ないと思うようなものだった。


「ここの上ね。さあ、上がっておいで」


 階段がぎしぎしと音を立てる。

 恐ろしいような階段だったが、どことなくわくわくした。真嶋さんはその容姿に似合わず慣れたもので、ひょこひょこと階段をのぼっていった。ゆっくりとそのあとをのぼっていくと、本当に屋根裏程度の小さな部屋があった。


「こっちに秘密の扉があるのよ」

「何が入ってるんですか?」

「ふふふ。聞いたらつまらないでしょう。さあ、手をとって。暗いから気を付けて」


 真嶋さんは私を先に行かせた。屋根裏は暗く、ほかに何も見えない。奥へ進むごとに暗くなっていくようだ。


「変わった匂いがするね」

「香を炊いているからね」

「なんの香りなの?」

「……さあ、なんの香りだろうね。お嬢ちゃん」


 真嶋さんが私をそう呼ぶことにぎょっとした。

 今までのような親愛の情と呼べるべきものがその声からは欠落していた。


 どこまでも暗い闇が続いているようだ。私と真嶋さんは手を繋いだまま、黙々と先に進み続ける。ぐるぐると床を円陣を描くように歩いているような気さえする。それでも小さな屋根裏ではなく、広い広い空間の中をひたすら歩いているような気分にさせられるのだ。

 急に怖くなって、私は相手を見上げる。


「真嶋さん?」


 見上げたそこには、顔はすっかり見えなくなっていた。

 真嶋さんの存在そのものが見えなくなってしまったようだ。ぐるぐるとめまいがするようで、私は次第にぼんやりとひたすら手を引かれ続けた。


「マジマ……さん……?」


 ようやく眠気のようなめまいから開放されてきたとき、ふと自分の握っている手が妙に小さくてすべすべしていることに気が付いた。


「え?」


 体中がぎしぎしと痛む。声はかすれ、およそ自分の声とは思えない。

 相手の姿を探し、ふと握った手の主を見た。

 小さくて、いつもどこかで見ている。見慣れた姿。

 鏡のなかで会うだけの自分だった。


 そのもうひとりの自分はおよそ私とは違う笑い方をして、思わず尻もちをついた私を追いやるように迫ってきた。


「ひ、な、なに……」


 思わず逃げ腰になったそのとき、私の手は宙をつかんだ。


「あはは。じゃあね。この体をありがとう!」


 それが、私が聞いた最後の自分の声だった。

 あっという間に私の体は滑り落ち、あちこちをぶつけながら階下へと落下した。


 次にかろうじて目覚めたとき、私は自分の体中に痛みが走っていることに気が付いた。最初のそれとは比較にならない痛みで、足は一歩も動かない。

 赤いものが廊下に広がっているのが見える。これはいったいなんだろう?


「たあ、たあ、す、けてえ」


 そう呟いた声が、はっきりと自分のものではないことに気が付いた。

 無残に投げだされた自分の腕は、一瞬違う人の腕ではないかと思うほどしわくちゃだった。血は一部乾燥していたけれど、いまだに体のどこかから流れ出ているらしい。


「え……」


 途端にいいようのないものが心の奥底から湧きおこってきて、慌てて外に飛びだそうとしたものの、うまく動かない。

 ひいひいと喉の奥から空気の漏れるような呼吸をしながら窓までたどりつく。窓枠を掴んで何とか体を起こすと、カーテンからは夕暮れの光が差し込んでいる。

 いったい今がいつなのか混乱する。

 確かここにいた時も夕方ではなかったか。


 震える腕でなんとか窓へと視線を向けたとき、そこに反射している自分の姿に気が付いた。

 真嶋さんがそこにいた。


「うああ……あ……、ああ……」


 痛みのせいなのか、驚きのせいなのかわからない。

 ふと、家の前を、私の姿をした子供が歩き去っていくのに気が付いた。

 「私」は一瞬こちらを見たかとおもうと、歯を剥き出しにしてニコニコと笑った。

 真嶋さんがよくやる笑みだった。


「あぐう、うう、が、ああっ」


 マジマさん。

 真嶋さん。


 真嶋さん!!


「ああああーーーーっっ、ああーーっ、あああ……」


 老いた声で叫び続けたが、彼女は私の叫びを無視して、家の方へ悠然と向かっていった。

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