怪ノ七 ピアノ

 それは、夏の暑い日のことだった。


「お久しぶりです、先輩!」


 音楽科専門大学のオープンキャンパスに訪れた私は、一足先にその学校に入った先輩と会うことになっていた。

 場所はリビングサロン。明るい雰囲気のカフェのような空間の隅に、同じく明るい色の白いグランドピアノが置かれているのはさすがだ。

 私と先輩は同じ高校に通っていた先輩後輩で、同じ音楽部で仲良くなった。音楽部といっても少人数の目立たない部活だったが、先輩は飛びぬけてピアノの腕があった。単に昔からピアノを弾いてきただけの私はずいぶんとちっぽけに思えたが、それなりに可愛くしてもらった。

 この学校は、音楽学校としてはさほど有名ではない。むろんそれは国立や、有名劇団直属の学校と比べると、という意味だが、最近ではクラシックだけでなく、バンドを組んだりする人たちもいるらしい。ファッションも清潔感があって、それでいて今風に決めた男の人たちなんかが談笑しているのを見ると、凝り固まった「音楽学校」のイメージが覆されていく感じがする。たった二年間の学校だが、ここで色々なことを獲得していく人たちもいただろう。

 先輩の腕ならもっといいところに行けたのではと思ったが、他ならぬ先輩が決めた場所なのだし、彼女なりの考え方があるのだろう。

 私にしたって、音楽の道に進むかどうか、まだ考えあぐねているのだ。選択肢の一つとして見てはいたものの、なかなか踏ん切りがつかなかった。

 推薦枠もまだ余裕があるし、この夏の間に決めるのも悪くはないという先生との相談の結果だった。いずれにしろ先輩と比べれば暢気なものだ。


「それじゃ、行きましょうか」

「は、はい」


 先輩とお互いの近況を報告しあったあと、私は先輩に連れられてピアノ演奏科の教室を見に行くことになった。


「ピアノ演奏科は、西棟の三階と四階を主に使うことになるかもね。個室が何部屋かあるの。違う学科の生徒でも、授業がないときは使えるわ」


 移動がてら、先輩は色々と説明してくれた。古い学校ではあるが、思ったよりも施設が充実している。

 西棟の四階に到着すると、まっすぐに並んだ廊下の左右に扉がずらりと並んでいた。


「わっ、すごい……」


 先輩はきょろきょろと辺りを見回している私を伴って、奥へ奥へと進んでいく。奥へ進むたびにドアにふられた番号が若くなっていくので、どうやら突き当りの部屋が一の番号をふられているらしい。

 だが、進むうちに奇妙なことに気が付いた。違和感は次第に大きくなり、なんだろうとおもっているうちに、先輩が唐突に立ち止まった。


「ねえ、知ってる?」

「はい?」


 突然の言葉に、私はびっくりしてしまった。


「この学校ね、怖い噂があるのよ」

「怖い噂……ですか?」

「ええ。この突き当りのピアノの個室……」


 先輩はドキリとするほどに細く白い指先で、まっすぐに廊下の奥を指さした。

 それから、私は不思議と先輩に伴われてその部屋に入った。四角い部屋の真ん中に、右側に椅子が来るようにしてグランドピアノが置かれている。真っ白に塗られた部屋は、妙に落ち着かない。なにしろ、白すぎる壁に、中央には真っ黒なグランドピアノが置かれているのだから。

 先輩は私にピアノの椅子に座るように勧めてくれると、ピアノの横に立った。

 そうだ。この部屋には窓もないのだ、と私はぼんやり思った。


「昔、この学校に、ひとりの女子学生がいたの。彼女はこの部屋のピアノをよく使っていたというわ」


 先輩は訥々と語りだした。


 ――それは三十年前のこと。

 ひとりの女子学生がこの音楽学校に在籍していた。

 彼女は当時からして天才と呼ばれるほどだった。彼女の繊細な指先から紡ぎ出される音楽は、聞く者すべてを魅了した。彼女が演奏をはじめると、通りすがった誰もが足をとめた。

 すべての楽器にいえることだが、楽器には当然筋力や体力を要求される。彼女にはそのどれもが欠けているように見えるのに、ひとたびピアノの前に座ると、どこにそんな力が隠れているのかと思うほどに、優雅に弾きこなした。

 悲しい曲は悲しく。楽しい曲は楽しく。人の心の中にあるリズムを刺激する心地よい音楽。

 ひとつの曲の中に、曲の意図と、彼女自身の表現力を落とし込むことのできる逸材。

 天才と呼ばれるにふさわしい人物。

 むしろ、なぜ彼女がこんなところにいるのか――みなが不思議がるほどだった。彼女の腕であれば国立の音楽学校や、ヨーロッパの専門校へ行くことも可能だったろう。

 それというのも、みな彼女の父親が原因だった。

 彼女の家系は立派な家だったが、昔からの習慣に囚われていた。


「女に教育はいらない」


 三十年前ですら時代遅れになりつつあったその言葉を、彼らは平然と言ってのけたのである。

 子供の頃からやっていたから、花嫁修業の間だけ、という理由で、なんとか音楽学校へ行くことまでは譲歩されたものの、彼女はその後は近くの農家の長男に嫁ぐことに決まっていた。

 教師たちはなんとか説得しようとした。この才能を埋もれさせてしまうのは損失にも等しい。

 何しろ彼女はあれだけの腕前を持っていながら、発表会はもとよりコンクールにも出たことがなかったのだ。

 しかし彼女の家族は、それを言葉通りには受け取らなかった。


「そんなことを言って、うちから金をむしり取ろうって魂胆だろう! 大体、女は家にいるもんだ。なっ、お前も早く結婚したほうが楽だろう」


 彼女もうなずきはしたが、その目は悲しそうだったという。

 家にあったピアノを弾く時間は限られていた。彼女の幼いころからずっと家にあったピアノは、彼女の暇潰しとして買い与えられたものだった。ゆえに、発表会やコンクールへの出場などというのは時間の無駄にしかならないと思われていたのだ。


「……もう弾けないのね」


 卒業を一か月後にひかえたその日、彼女は家のピアノの前に座った。

 嫁に行ってしまえば、もうピアノを弾けるかどうかすらわからない。時間はとれるかもしれないが、どんな生活になるのかすら予想がつかないのだから、どうしようもない。

 彼女の瞳からぽたりと、水滴が落ちた。

 そのときだった。


 ――ガタン!


「きゃああああ!」


 悲鳴は家の外にまで響き渡ったという。

 古いピアノだったからなのか。それともピアノが彼女との別れを惜しんだからなのか。家庭用のアップライトピアノだったにも関わらず、不意に落ちてきた蓋の勢いは想像以上だった。彼女の傷はけして軽傷ではなく、もはや二度と動かないという診断を下された。

 彼女にとってはたまったものではなかった。あれほど大好きなピアノが、皮肉なことに、他ならぬピアノによって弾けなくなってしまった。

 それでも彼女はピアノをあきらめなかった。花嫁になることよりも、ピアノが弾けるかどうかを何度も看護婦に尋ねた。


「私、また、ピアノが弾けるようになりますよね?」


 看護婦たちは彼女を励ましたが、状況は芳しくなかった。

 それは彼女の家族にとっても同じだった。ピアノなんかよりも、嫁入り前の体に傷がついたことのほうにすっかりやられてしまったのだ。指の動かない嫁など要らないと、花婿の家にはそっぽを向かれてしまった。何より、あれだけ反対していたピアノによってなされたというのだから、憤懣やるかたない。

 彼らは一計を案じた。

 どうせ退院するまで時間はかかるのだから、その間に忌々しいピアノをどうにかしてしまえばいい。そうすればあきらめもつくだろう。

 そうして彼らはそっけなく告げたのだ。


「あのピアノは処分したぞ。もう弾けないし、古いものだからな」


 そう聞かされたあとの彼女は、生気がすっかり抜けてしまったようだったという。もはやピアノのことを口にすることもなく、ただ人形のようになってしまった彼女を、看護婦は口々に噂した。不安を口にするものもいたが、滅多なことを言うものではないと、そのままひそひそと声は小さくなっていった。

 だが、不安は的中した。

 その二週間後、両手に包帯を巻いた彼女が病院着のまま歩き回る姿を、何人もが目撃していた。にもかかわらず、誰も彼女に話しかけることすらできなかった。それほどまでに鬼気迫る目をしていたのだから。

 彼女は病院の屋上から飛び降り、自殺した。

 おりしも、ピアノが実際に処分された日と同じだったという。

 しかし、それからしばらくして。

 この部屋から再びピアノの音がするようになった。

 それを聞いた者は、みな彼女の曲だと気付いたという。音楽というのは不思議なもので、指揮者や演奏者によってまったく違う印象になるのだ。みな音楽には慣れ親しんでいたから、彼女が幽霊になって戻ってきたのだと噂した。

 やがてこの部屋を積極的に使う人物はいなくなった。

 ここは彼女の聖域であり、永遠にピアノが弾ける場所なのだからと――。


 話が終わったとき、私はまばたきすら忘れていた。

 クーラーが効いているにもかかわらず、じっとりとした汗が体を伝うのがわかった。

 つまり、今、私が座っている席は、本来は彼女の席なのだ。


「あ、あの。どうして、その話をしたんですか」


 私は動けなくなったまま、すっかり恐ろしくなっていた。

 どうして先輩はこんな話をしたのだろう?

 先輩の顔は向こうを向いていて見えなかった。灯りのついた部屋にも関わらず、妙に空気が重苦しい。なぜ先輩は黙っているのだろう。

 私をからかっているのだろうか?


 私はそのとき、あれほど腕のいい先輩が、どうしてこの学校ここにいるのか。そして先輩がもうすぐ卒業であるという事実を前に、動くことができないでいた。

 昔のように冗談だと笑ってほしかったが、私は二人の不遇の天才を前に、ぽたりと汗が落ちるのを見ていた。

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