怪ノ六 鏡
「そういえば先生さぁー、あそこのトイレの鏡、直んないの?」
「えっ?」
「ほら、あっちの隅のトイレの鏡」
茶髪の子たちにお小言を言うために話しかけたのに、ていよく話を逸らされた気がする。
だけども、そこのトイレはずっと前から鏡が無く、特にそこのトイレに近い教室の生徒たちは不便がっていた。他のトイレはちゃんと鏡が設置してあるので、どうも一度外されてから放置されているらしい。
聞けばずっとそんな状態で、いつから鏡がないのか誰もわからないのだという。
「まあ、暗いしあんまり入りたくないけどね」
彼女たちはケラケラと笑った。
確かに問題のトイレは、目の前に視聴覚室がある。視聴覚室はいつもカーテンを閉めているから、光が入らず、廊下はいつも暗い。必然的にトイレも暗くなり、そこだけいつも雰囲気が沈んでいるのだ。
もちろん学校で一度もトイレに入らないなんてことはないだろうから、電気をつければ問題はない。
私は職員室に戻ると、隣の机に座る先生に鏡について聞いてみた。
「ああ、あのトイレだけ鏡がずっとないらしいですね」
「どうして直さないんでしょうね?」
「鏡そのものは昔外したらしいので、備品置き場にあるらしいんですけどね」
「えっ? そうなんですか?」
物自体は一応置いてはあるのか。
「じゃあ、もしかして昔、何か悪戯されたとか……」
「さあ、それが詳しいことは……。以前にも誰かがかけ直したらしいんですが、知らないうちにまた無くなってたようですね。ひょっとすると、うまくはまらなかったんじゃないですかね」
ふうん、と私は何度かうなずいた。
「まあ、いつかいつかと思ってるうちにまた忘れちゃうんでしょう」
そんなものなのだろうか。
学校というのは生徒の教育の場であるから、化粧をするのはどうかと思う。けれども、それと鏡がないのとはまた違う。身だしなみを整える必要もあるだろうし、鏡が無いと無いで、手鏡が必要になる。それはそれで学業に必要のないものだし。
私は授業が終わったあとに、用務員の吉崎さんの姿を探した。
ちょうど階段から降りようとしていたところ、一階を通りすがる彼を見つけ、声をかける。
「吉崎さん!」
足早に階段を駆け下りる。彼は私を見上げて、人の良さそうな顔で会釈した。
「どうかされましたか?」
「ええ、ちょっと直してもらいたいところがあるんですが」
「そうですか。わたしにできることでしたら」
「はい。二階の西側の奥にある女子トイレなんですけど……」
私が言いかけると、吉崎さんは先に口に出した。
「……鏡のことですか?」
「そうです、そうです!」
吉崎さんも把握していたらしく、話は早い。
「……あそこに鏡を置くのは、やめたほうがいいですよ」
「へっ? どうしてですか?」
だが、吉崎さんは渋い顔をしていた。
「どうしてもです」
そのままもごもごと口を噤んだ。だが、しばらく言いよどんでからもう一度口を開く。
「以前も先生みたいに、設置し直そうとする人がいました。けれども、結局取り外すことになったんです。とにかく、わたしはおすすめしませんよ。もしやるんだったら、ご自分でやってください」
「あ、ちょっと!」
吉崎さんは言うことだけ言うと、くるりと踵を返して行ってしまった。
私はその場に置き去りにされ、ぽかんと放心するしかなかった。
普段はたいていのことは吉崎さんに言えば修繕くらいはしてくれる。それなのに、いったい何が問題だというのだろう。
困惑はふつふつとした怒りに変わっていった。
「まったくもう、いったいなんだっていうのかしら」
文句は口から自然と出てしまった。足早に備品置き場まで赴くと、電気をつけて乱雑に備品が置かれた空間を前にする。
吉崎さんがやってくれないのならば、自分がやるしかない。そもそも、何のための用務員なのだ。
「あ、あったあった」
鏡はきちんと保管されていた。ちょうど三つ、手洗い場の数と同じだけだ。箱から取り出し、巻かれた古い新聞紙を取り外して確認する。鏡は割れている様子もなく、取り外された時のままのようだ。それどころか、取りつけていた時のネジや部品も小袋に入っていた。鏡自体も曇っているわけでもなく、ちゃんと私の姿も映る。
私は鏡と工具箱を手に、足早に件のトイレに向かう。
残っている生徒はほとんどおらず、その生徒も部活やなんやの用事で残っているだけだ。教室のほうには誰もいない。
トイレの電気をつけ、工具箱を置き、鏡の場所を確認する。まずは一つ目をどう取りつけるか試行錯誤したあと、専用の部品で壁に固定していく。
一つ目の作業をしたあとは、すっかり時間が経ってしまった。
なんだ、しっかりとついたじゃないか。どうもたてつけが悪かったわけではないらしい。それとも以前に付けようとした人がそんなに手先が不器用だったのか。自分のDIY能力に自信をつけ、目の前でピカピカと光を反射する鏡を満足げに見上げた。
すると、トイレの奥の方で、私をじっと見つめる女子生徒が鏡に映っていた。
いつの間にトイレに入ったのだろう。
「ちょっとまってね、今、鏡を――」
振り返ったが、そこには誰もいない。
「あれ……?」
おかしいな、と思って再び鏡を見る。
「ひっ」
思わず喉から声が出る。
鏡には、やはり同じ位置で私をじっと見つめる女子生徒が映っていた。
指定の制服であるからにはわが校の女子生徒であることは違いないのだが、微動だにせずにそこに突っ立っている姿は不気味だ。多少の罪悪感よりも、恐怖が先に立ってしまう。
私はまた振り向いたが、そこには誰もいなかった。
誰かがタイミングを見て、出たりはいったりして驚かそうとしているのだろうか?
「ちょっと、誰なの?」
私はやや声を荒げた。
くだらない悪戯はやめなさい。そう言おうとした私の喉が詰まる。
何かおかしい。
トイレの奥へと歩き、辺りを見回す。トイレの個室は出入り口のある右手側に三つ、窓のある左手側に五つ。トイレの扉はみな閉まっているし、取っ手のところは未使用を示す青い色になっている。そうだ。ここのトイレは外開きだから、使用者がいようがいるまいが、ドアは閉まるようになっている。果たして振り返る間に物音も立てずに隠れられるものなのだろうか……?
一つひとつ軽くドアを開けて確認してみても、どこにも人の気配はない。
最後のドアの前まで来た時、異様な緊張感を覚えた。
それでもここの生徒であることは確かなのだ。何を恐れる必要などあろう。恐怖が形にならないうちに、ドアを開けた。
「いない……?」
誰もいない。
仕切りの上を通過するのはさすがに無理だろう。それも私に気付かれない間に?
私はぎこちなく後ずさりした。窓の外からは、夕暮れの赤い光が差し込んでいる。その光ですら今は不気味だった。
さっさと鏡をどうにかしてしまおう。
私は急ぎ足で、振りかえりながら手洗い場の鏡を見た。
「ひっ……」
きゃあああああ。
そのあとは無我夢中だった。私は鏡のことも工具箱のことも放り出して、職員室へと逃げ帰った。そのあとどうやって家に帰ったのか覚えていない。化粧もそのままに、朝が来るまでガタガタと布団の中で震えていた。
それでも、しばらくは私の記憶から消えることはなかった。
鏡の中で、私を見上げるあの目――。
青白い顔で私の腕に絡みついている女子高生の姿が。
その翌日、まだ朝の誰もいない時間。
清浄な朝日がその恩恵を与えている時間。
吉崎と呼ばれる用務員が、西側の女子トイレへと赴いた。置きっぱなしにされた工具箱をちらりと目で見やると、ダンボールの板を手に乗りこんだ。一枚だけ設置された鏡に素早く覆いをすると、慣れた手つきで鏡を取り外した。
そうして鏡と工具箱を持ちだすと、再び備品置き場に向かって歩きだしたのである。
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