怪ノ四十九 ミナコさん
うちの小学校には、ミナコさんという怪談がありました。
ミナコさんは夜の学校を徘徊している女子生徒の幽霊です。
大人びた風貌だったミナコさんは、中学生になるのをとても楽しみにしていたそうです。けれども、卒業式の前日に自宅が火事になってしまいました。原因はタバコの不始末。彼女は逃げ遅れ、そのまま死んでしまいました。それからというもの、夜になると、焼けただれた姿で学校を徘徊しているというものでした。
学校の怪談というのはどこでも似たようなものになりがちですが、ミナコさんの話だけは目撃例がたくさんありました。
それも、学校の生徒や先生だけでなく、偶々パトカーで見回りをしていたおまわりさんが、学校に人影があるのを見つけて声をかけたら、それがミナコさんだったという話まであるほどです。
とにかく、ミナコさんに纏わる怪談は山というほどに存在していました。
そうなると、クラスの何人かで集まって、「ミナコさんが本当にいるのか見てみよう」となる人たちは少なくはありませんでした。
「だからって、なにもこんな夜に忍び込まなくても」
「夜っていったって、まだ八時でしょ」
学校にはまだ灯りはついていたし、怖いというよりわくわくしていました。
数人で固まってまだ鍵のかかっていない学校に忍び込むと、すぐさま校舎の探検をはじめました。まだ先生の誰かは残っているはずだったし、見つからないように細心の注意を払ったつもりでした。
それでも校舎の中に入ると、まったく灯りのない廊下は不気味でした。各々、スマホではなく懐中電灯を頼りにしたのは、雰囲気を盛りあげたいためでした。なるべく窓に光が漏れないように注意しながら、そろそろと固まって進んでいきます。
「夜の学校って、なんか怖いよね」
普段、見慣れているのは、みんなが走り回っているような誰かのいる校舎です。
だから、ミナコさんがいてもいなくても、誰もいない夜の教室というだけで恐ろしく感じました。
ミナコさんは学校であればどこにでも現れるようだったので、私たちは廊下をジグザグに進んで一番上の階まで行くことにしました。
「退散の呪文、覚えてる?」
「覚えてる。火事です、お帰りくださいって言うんだよね」
歩きながら、私たちはこっそりと確認しました。
ミナコさんは火事で死んでしまった幽霊なので、火事であることを伝えれば退散させられるという話でした。
その呪文があっても、やっぱり怖いものは怖いものです。
時折ぽちゃんと聞こえる音が、ひどく身の毛もよだつ不気味な音に聞こえました。水道を閉めきっていない誰かを恨みながら、びくびくと先に進んでいきました。
「三階も何もいなかったねえ」
「というか、ここまで来たけど誰もいなかったね」
「じゃあ、どうする?」
私としては早く帰りたいところだったのですが、いわゆるリーダー格だった女の子が、もう一度下まで同じように見て回ろうと言いだしました。
結局、それに乗った人がいた手前、自分だけ帰るとも言いだせずに、同じようなルートを辿ることになりました。
それでも二階に降りても特にこれといったことは起こりません。
「何にもないね」
「あとは一階だけだけど……」
このまま何もなく過ぎ去ってほしい。
そんなことを思った矢先に、ふと耳にはいってくる音がありました。
「ねえ、なんか聞こえない?」
誰かの声で耳をすますと、確かに、ずり、ずり、と何かを引きずるような音がしてきます。
みんなお互いの顔を見合わせて、なんだろうというように音のほうを振り向きました。音は次第に近づいてくるようでした。
すると、闇の向こうからその姿がハッキリと見えたのです。
「うううう、ああー」
奇妙な唸り声とともに、焼けただれた顔がこっちを睨むように見ていました。ぼろぼろの服に、潰れたような足を引きずり、瞬きすらしない目が、じっと私たちへと向いているのです。
「きゃあーーっ!」
「ミナコさんだ!」
全員が踵を返して、無我夢中で逃げだしました。
急いで階段まで駆け抜けましたが、後ろからは次第にずりずりいう音が早くなり、すぐ近くまで迫ってきていることがすぐにわかりました。
いやだ、いやだ、いやだ、ごめんなさい、ごめんなさいと、退散の呪文でもなく謝罪しか頭に浮かびませんでした。
私たちは何かにぶつかりそうになり、また悲鳴をあげました。
そのときです。
「何をしているの?」
落ち着いた声が聞こえて、はっとしたように前を見ると、そこには白髪の女の先生が立っていました。
「校長先生……」
校長先生はこの春から赴任してきたのです。最初に赴任した学校で校長をするなんて感慨深い、というようなことを言っていた気がします。
年はもう六十を越えている先生だったので、自分たちのおばあちゃんのような感じがしていました。それを差し置いても、それまでずっと男の校長先生だったので、女の校長先生というだけで新鮮さがあったので覚えていたのです。
「なあんだ、校長先生」
「なんだじゃありません。いったい何をしているんですか?」
まさか怪談を確かめに来たとは言えません。
ですが、それも普段なら、のこと。
「そ、そうだ。先生、早く逃げないとミナコさんが!」
「ミナコさん? なんです、それは?」
「お化けだよ! 幽霊の話!」
バカバカしい話だと思われたかもしれませんが、じっさいにミナコさんに襲われていた身からすれば、それどころではありません。
私たちはミナコさんの怪談を言ってきかせました。早くしないとミナコさんが来てしまう。ところがその説明の最中にも、ずり、ずり、と何かを引きずるような音がするではありませんか。
「あら、まだ誰か残っているの?」
校長先生は首を傾げましたが、私たちは目を見開きました。
「ミナコさんだ!」
恐怖が再び湧きおこりました。
暗闇の向こうから、ずり、ずり、と片足を引きずる音が響いてくると、次第にその姿が露わになりました。
焼け落ちた髪の毛を振り乱し、焼けただれた顔で、もはや閉じない瞳で、私たちに向かって歩いてきます。
まるで火の塊が歩いてくるような熱をもって近づいてくるのです。
先生もびっくりした様子で、私たちの前に立ってくれました。
「ミナコさん、ミナコさん、火事です、お帰りください!」
「ミナコさん、ミナコさん、火事です、お帰りください、火事です! お帰りください……!」
私たちは校長先生の後ろで庇われながらも、必死で退散の呪文を唱えました。
でも、ミナコさんはそのまま近づいてきます。
「ど、どうして効かないの?」
「火事です、火事です!」
泣きそうになりながら呪文を唱えても、ミナコさんは足を引きずったまま私たちに近づいてくるのです。
悲鳴をあげそうになったそのときでした。
「ミナコさん……」
校長先生がじっとその姿を見つめたまま言いました。
「坂口美菜子さん……?」
校長先生が言うと、ミナコさんはぴくりと手を止めました。
「おおお、う、おお、う……あああ……」
ミナコさんの喉からは変わらずに唸り声のようなものがあがっていましたが、その場でぴたりと動きを止めていました。
私たちはびっくりして、校長先生を見上げました。
校長先生は手を口元に当てて、私たち以上に驚いたように目を見開いていました。
「坂口美菜子さん……あなたなのね?」
「あ、あああ、う、あああーー」
「私よ。むかし、あなたの担任だった溝口。覚えてる?」
私たちがびっくりして先生を見ていると、ミナコさんが急にふるふると震え出すのが見えました。
「うううう……!」
ミナコさんは両手で顔を覆い、泣いているように呻いていました。
ミナコさんが泣いている。その事実に、少なからず私たちはショックを受けていました。
「そう……」
先生はゆっくりと何度も何度も頷きました。
「怪談では、たしか、ミナコさんは卒業できなかったことで彷徨っているのよね」
「は、はい」
「誰か、ペンと紙を持っている?」
私たちは顔を見合わせると、カバンの中からメモ用紙を差し出しました。
先生はその場で、とても綺麗な字で「卒業証書」と書きました。
先生はその紙を両手で持ち、ミナコさんの前にしっかりと立ちました。
「卒業証書」
凛とした声に、急に空気が張り詰めました。
「ほら」
先生は私たちに何かを促しました。
「拍手」
困惑する私たちに、小さな声で指示をします。
私たちは、言われたとおりに拍手をしました。こんなことで本当にミナコさんは大丈夫なのでしょうか。そんなことを思っているうちに、ミナコさんがゆっくりと歩きだしました。
私たちは足が竦んで動けなくなっていました。
でも、ふとミナコさんを見ると、焼け落ちたはずの髪の毛はしっかりと結われていて、その先にあるミナコさんの顔も、焼けただれてはいませんでした。
ミナコさんの顔はどこにでもいる小学生の顔そのものでした。
「坂口美菜子。右の者は小学校の課程を修了したことを証する――」
先生の声はよく通り、ここが廊下の一角だなんて信じられないくらいでした。
ミナコさんは真剣な表情で先生の手から両手でメモ用紙を受け取りました。その格好のまま一礼すると、ニッコリと微笑んだのです。
今まさに卒業していく六年生の先輩の姿が、そこにはありました。
そして、そのまま、すうっと私たちの見ている前で消えていったのです。
気が付いたときには、ミナコさんが受け取った紙が地面に落ちていました。先生がそれを拾い上げると、そこにはもう何も書かれていませんでした。
先生は綺麗に折りたたみ、自分のスーツの内ポケットに入れました。
信じられないようなものを見た気分になって、ぽかんと口を開けていました。
それからしばらくのあと。
私たちが落ち着いてから、先生はこんな話をしてくれました。
「ミナコさん――坂口美菜子さんは、私が受け持った最初の生徒のうちの一人だったのよ。火事にあったのはたしかに、卒業式の前日だった。原因はタバコの不始末。名前も事故の原因も同じだったから、まさかとは思っていたけれど」
「じゃあ、卒業証書が欲しかったのかな……」
「そうかもしれないわ」
「だけど、どうして学校に? 本当にこれで成仏したんですか?」
「幽霊は語られることで出てくるとも聞くわ。だから、怪談になったことで、この学校に縛りつけられてしまったのかもしれないわね」
先生の言った意味はよくわからなかった。
幽霊は、出てくるから怪談になるんじゃないだろうか。
「そうねえ――もし良かったら、あなたたちの怪談に、ひとつ付け加えてちょうだい」
先生は少し考えたあとにこんなことを言いました。
やがて、ミナコさんの怪談には新しい話が加わりました。
ミナコさんはある日、かつて担任だった先生に出あい、卒業証書をもらったことで成仏することができた――という内容でした。
不思議なもので、怪談に続きが出てからというもの、みんなすっかりミナコさんのことを忘れてしまったかのように口にしなくなりました。
怪談が怖い話でなくなってしまったからでしょうか。
それとも、本当に成仏したからでしょうか。
でも、それからというもの。
学校の内外で、ミナコさんを見る人はいなくなったということです。
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