怪ノ四十二 小島先生
数年ぶりの再会は、小学校の体育館。成人式でだった。
この辺りの地域では、卒業した小学校でそれぞれ成人式を執り行う。だからテレビで見るような大きな会館で行うようなものではない。
きゃああ、と嬉しい悲鳴をあげて、私は仲の良かった子たちと再会した。
今はめっきり連絡もとらなくなってしまったけど、当時の面影は残っている。それでも、振袖に似合うような化粧をしていると誰が誰だかわからない子も当然いた。たった八年で人間というのは変わってしまうのだ。
とはいえ二十歳といっても今はほとんどの子が大学に通っているし、私もまだ学生だ。それでもちらちらとスーツ姿の女子が混じっていた。
「久し振り! 今何してんの?」
「京都の大学行ってるんだよ、向こうに住んでるから全然かえってこないけど」
ぺちゃくちゃと開会までおしゃべりをしつつ、体育館へと入る。記憶と照合しながら、あれは誰であっちは誰、などと当てっこをしたりした。
「小学校変わってないなー」
「まあ、近所だし、選挙の時もここだから見てるっちゃ見てるけどね」
「そういえば聞いたか? あいつ、高校出てから親父の工場継いで働いてんだってさ」
「へえー。すごいなあ」
「おう、久し振り」
「おー! 久し振りじゃん!」
色々な声が響く体育館の壁には、これまた色々と祝いの言葉が貼りだされていた。
当時の校長先生やPTAの会長といった学校関係者から、この近所を拠点にしている政治家の議員まで様々だ。
ひととおり眺めていると、隣のクラスを担当していた先生の祝いの言葉が目に入った。
みんなが急にふっと黙り込む。
「……小島先生のことは、残念だったね」
誰かがぽつりと言った。
本当はそこにあるはずの祝いの言葉。
小島先生が亡くなったのは突然のことだった。
五年生と六年生の二年に渡ってを担当してくれた、女の先生だった。
女性の先生は化粧の匂いが強い人もいて苦手だったが、先生はさばさばしていて、いつもシトラスの香りがしていた。
香水をつけているのは小島先生ぐらいだったから、私たちの記憶の中ではその甘酸っぱい香りと結びついている者は多いだろう。
女だからというただそれだけの理由で懐く女子と違って、同じ理由で排除しようとする男子をうまくおだてて宥めて、あっという間にクラスを掌握した。
誰かが窓を割れば、真っ先に怪我の心配をした。
問題があれば真剣に話を聞き、生徒と向き合ってくれた。
反発もしたが、難しい時期でもあった私たちをよく見てくれたと思う。
けれども六年の夏あたりから、急に先生が休みがちになった。
代理の先生が来るようになり、次第に代理の先生の受け持つ時間のほうが多くなっていった。夏休みを過ぎたころには、先生は時折学校に現れるくらいになった。
病気をしているとだけ伝えられたものの、重度の癌だと知ったのはそれからだいぶ後になってからのことだ。中学にあがった直後に訃報を知らされ、袖を通して間もない制服は早速葬儀で使われることになった。
先生の担当した最後のクラスということで、私たちは学校前に集まってバスで葬儀場まで向かったのを覚えている。
「先生の香水ってさ、最近よく見かけるようになったんだよね」
どこかしんみりした空気を吹き飛ばすように、誰かが言った。
「当時ってそんなに香水とか詳しくなかったじゃん。だから、なんの匂いかわかんなかったんだけど。でも、先生の使ってた香水の種類まではわかんなかったけど」
「あれ、名前なんていうんだっけ。シトラス?」
知ってはいたけど、つい確かめてしまう。
「そうそう、シトラス。最近だと夏になるとよく出てくるよね。でも、一度だけ全然関係ないときに嗅いだことがあるんだよ」
「へえ。なに?」
「いつだったかなあ。秋くらいだったと思う。私がさあ、漫画描いてるのって知ってた?」
「えっ? いや、知らない」
「描いてたんだよ。漫画もやりたかったけど、親のほうは大学進学を望んでたんだよ。好きなことしてもいいけど、その前に大学出たほうがいいって。でもああいう作家とかって、高校からデビューする人っているじゃん。だから凄く焦ってたんだよね」
ああ、と何となく納得する。
私は考えなしにとりあえず大学に入ったくちだから、それほど悩む人もいるんだという感じではあったけれど。
「それで親とスゴイ喧嘩して、もう家出でもしようって思った時に……ふっとシトラスの香りがしてきたんだよね」
「……それって、家の中で?」
「そう。不思議でしょ? なんか小島先生のこと思いだしちゃってさあ。なんか泣けるやら落ち着いてくるやらで、今はSNSで作品発表する人もいるし……、やり方はそれぞれだなって思ったし。大学の四年間で情報収集するのもいいかなって」
なんだかいい話だ。
「そうそう、シトラスの香りって強いのかな。俺もどっかで嗅いだことあるぜ。やっぱり小島先生のこと思いだした」
「あ、思いだした。俺もだ。高校進学で悩んでたとき。なんかふっとどっかから流れてきたんだよ。俺もやっぱりあの香りで小島先生連想したなあ」
わいわいと、先生のつけていた香水の話で盛り上がる。
確か嗅覚って、一番記憶と結びつきやすいという話を聞いたことがある。音楽もそうだったかな、などと思いながら、盛り上がるのを聞いていた。
そのときだ。
「……俺さあ」
誰かがふっと、吐きだすように言った。
彼も思い出の話かな、と誰もが視線を集中させる。
「一度自殺しようと思ったんだよね」
続く言葉に、全員が息を飲んだ。
「高二の時なんだけど。親が離婚でもめてた時で、イライラしてたらクラスでハブられてたんだよね。イジメというかさ。付き合ってた彼女も段々俺のこと嫌いはじめてさあ。もうどうでもいいかなってなって」
話の落とし所がわからず、私たちは困惑したまま聞き続ける。
「でも飛び降りようとしたときさ、なんだか甘酸っぱい匂いがしてきて。誰かいんのかと思って周りを見たけど、誰もいなかった。その匂いを嗅いでるうちに段々落ち着いてきたんだ。バカバカしくなって、帰ったよ。でも、なんだか嗅いだことのある匂いだなって思って……」
「それがシトラス? 小島先生の?」
「うん。まあ、だからどうだってこともないんだけど」
しん、とする。
隣のクラスだった子たちが盛り上がっているのがひどく遠くに聞こえる。
ただ、そのとき、誰もが目を見開いた。
ふわりとシトラスの香りがしたからだ。
今まさに、シトラスの香りをつけた何者かが通りすぎていったように。
体育館の中は、振袖に合わせた濃い化粧の匂いと、お菓子の匂いしかしないはずなのに。
誰もが無言のまま、お互いの顔を見合わせた。
既にパイプ椅子に座っていた子たちも、どこかはっとしたように此方を向いている。
爽やかな風が一陣、私たちを祝福していったのだ。
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