怪ノ二十九 名の無い帽子

 持ち物には名前を書きましょう、というのは、最近ではやや廃れ気味になりつつある。

 それというのも、名前を不用意に晒すのは危険だということでだ。


 学校によっては、小学生の名前バッジは校外では裏向きにしたり、はじめの会と終わりの会で一斉に付け外し、というようなことをしている。それでも名前を書いておかないと、他人と混じってしまうものもある。特に小学生は落としものが多いし、教科書や教材なんかは同じ物を使うからだ。

 だが、そんなものでも時折名前のないものが存在する。


「あ、これ」


 池下が床に落ちていた赤白帽を見つけたときも、そうだった。

 自分の担当しているクラスは、前の授業は体育だった。赤白帽が落ちていたとしてもおかしくはない。赤白帽は誰もが使ったことがあるだろうが、裏返すことで赤と白、両方の色が使える、今でいうリバーシブルの帽子だ。帽子は白い側になっていたが、名前の確認はすぐにはしなかった。

 三年生の担当とはいえ、まだまだ低学年からあがってきたばかり。悪戯もすれば落し物ももちろん多い。それをどう気付かせるか。池下は新米教師――それも女性――ながら、その折り合いをどうすればいいのかいつも悩んでいた。

 池下は帽子を拾い上げ、周りの子に確認をとった。


「誰の帽子?」


 ところが、みな首を傾げるばかりだった。

 何人かは自分の体操袋の中をちらりと見ているが、誰が落としたわけでもないらしい。

 こういうとき、自分が落としたのに言いだせない子がひとりはいるものだが、今回に限ってはそうではなかった。みな誰が落としたのかとそわそわしていた。


 ――誰が落としたのか、自分から言いださせないと。


 池下はそう考えていたものの、やはりみなきょろきょろとするばかりだった。このままでは授業ができない。結局池下は名前を確認することになった。


「名前は、ないわね」


 こういう場合、名前が書かれていないものが誰のものなのか、たいていみな了解しているものである。名前がないことそのものが目印になっているのだ。そういうのはなぜかみんなも知っていて、ちらりとそちらの方へと目がいく。

 池下もそう思った。

 このクラスで一人だけ、持ち物のいくつかに名前を書いていない子がいる。


「俺、持ってる」


 だが、返事はそっけないものだった。


「ええ? ちゃんと見てみなさいよ」


 池下が批難めいていうと、彼はしぶしぶといったように、体操袋の中を漁った。中からは赤白帽がちゃんとひとつ入っている。

 それみたことか、というような空気が流れ、ではいったい誰のものなのか、という不穏さが漂ったとき、だれかが不意に声をあげた。 


「それ、幽霊の赤白帽じゃない?」


 みな一斉にざわついた。


「幽霊の赤白帽だよ!」


 池下がぽかんとしている間に、恐怖で泣きだす子までいたりした。ざわめきが廊下にまで響き渡る前に、池下が手を叩く。


「はい、みんな黙って――落ち着いて!」


 池下にとって、突然幽霊だなどといわれても、ばかばかしい話だった。


「ここに置いておくから、あとで取りにきてね」


 黒板横にある掲示板。そこにさしてある画びょうに引っ掛けると、そのことはもう忘れてしまった。生徒たちは帽子を見ないようにしていたし、帰りの会の時間になっても思いだすことはなかった。

 生徒たちを送りだして、教室の片隅で多少の仕事を片付ける。

 誰もいなくなった教室でサラサラとペンを動かす音だけが響くなか、ふと伸びをしがてら目線をやると、赤と白のコントラストが目に入った。


 ――まだあったのね。


 持ち主不明の赤白帽。

 そういえば、幽霊の赤白帽だなんて話があったっけ、と思いだす。子供の間で流行っている都市伝説や学校の怪談のようなものだろうか。いったいどんな話なのだろうと思いながら、立ち上がって赤白帽を手にとった。

 まさか他のクラスの赤白帽がこんなところにまでくるはずはないし、と、帽子の裏側、赤いほうに手を突っ込んで裏返そうとする。

 ぬるりとした感触が手に伝わる。


「? やだっ、いったい何……」


 慌てて手を引っ張りだすと、手はぬるりとした血に塗れていた。


「ひっ!」


 指先にはべったりとした髪の毛と血とがからみついていて、池下は思わず赤白帽を取り落とした。手を振っても血は取れず、混乱のまま何で拭くべきか辺りを見回し、近くの配膳台にこすりつけた。

 必死になって血を取ろうとしていたものの、べたべたとした髪の毛は指にへばりつき、剥がすことができない。

 やがて池下は、半狂乱でいるところを他の教師に発見された。


「あ、赤白帽に髪が血、血がっ……!」


 発見されたとき、池下は血に染まった手をひたすら配膳台にこすりつけていた。

 だが、その血は、すべて配膳台にこすりつけて傷ついた池下自身のものだった。彼女が必死に訴えた赤白帽は発見されず、池下はやがて入院し、クラスの担当は変わった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る