怪ノ八十六 あなたの後ろに

 正直、浮かれていなかったと言ったら嘘になる。


 考えてもみてほしい。

 誰もいない放課後の教室で女子から残るように言われたら、考えることはひとつだ。

 そんな可能性は少ないとしても、ちょっと期待してしまうのが男のサガってものだろう。


「えっと。それで、何の用?」


 そういうわけで、できるだけ平静を装って、なんでもない風に尋ねた。

 クラスメイトの帰った教室は既に夕暮れが近づいていて、窓からはオレンジ色の光が眩しく差し込んでいる。

 普段の教室とはまったく違った趣だ。俺は自分の机に座っていて、彼女はそこから少し離れた場所で目を逸らして立っている。

 うーん、これで期待するなというほうが無理だ。


「あの……ごめんね、急にこんなこと言いだして、変な子だって思うかもしれないけど……」


 俺を呼びだしたクラスメイトの女子は、言いにくそうにこう続けた。


「……大丈夫なの?」

「うん?」


 思わず聞き返す。

 何が大丈夫だというのか。


「あの……ね、変だって思わないでね。……後ろにね」


 血まみれの、おんなのひとがいるの。


 彼女は確かにそう言った。

 女の人?

 ……あちゃあ、と思わなかったといえば嘘になる。

 そっち系の子だったかあ、ってやつだ。

 ただ、彼女は本当に驚くほど青白い顔をしていた。怯えているようだ。信じていないとはいえ、妙に信ぴょう性がある。思わず後ろが気になるくらいには。


「いやほらさあ、そんな……」


 俺が机から降りただけで、彼女はビクッと肩を跳ねさせた。そうして怯えたように俺を見上げる。


「あ、ご、ごめんね? そんなつもりじゃなかったの。だけど、その……」


 妙な胸騒ぎがして後ろを振り向いたが、当然そこには何もいない。


「それって、あの……幽霊、だよな?」


 というより、突然幽霊がいるなどといわれても、今までそんな気配微塵も感じなかった。普段より疲れているとか調子が悪いとか、そういうことも全然なかったのだ。


「うん……」

「その幽霊って、今どうしてんの?」

「後ろにいる……」

「いるだけ?」

「そう。その……、じっとあなたを見てる、かな」


 俺はもう一度ゆっくりと後ろを振り返った。


「ごめんね、突然こんなこと。信じられないよね?」

「そりゃまあ、そうだけど……、なんの冗談?」

「じょ、冗談じゃないの。ずっと見てるの」

「はあ……」


 はあ、としか答えられない。


「どんなやつなの?」

「えっと……、裸足の女の人で、白い……血とか汚れとかついてるワンピース。で、髪はこれくらいで、顔は見えないかな」


 余計に、はあ、としか答えられなくなった。

 そんなオーソドックスな幽霊が憑いているといわれても困る。

 そのうえで、そんなのが見えると訴えて来る女子生徒に呼びだされたなんて、完全に時間の無駄だった。

 大体、そう、としか答えられない案件だ。


「ごめんね、信じてくれなくてもいいけど、大丈夫ならいいの」

「お、おう」

「伝えたからね」


 彼女はそれだけ言うと、慌てたように鞄を持ったまま教室から飛びだしていった。

 一人残された俺は、ぽかんとそれを見ているしかなかったのである。


 思わずため息もつきたくなる。

 それこそ幽霊がとりついたかのように、ガックリと肩が重くなった。後ろを振り向いてみたが、相変わらずそこには誰もいなかった。


 結局、浮かれた気分も残った意味も見いだせずに帰ることになった。


 いったい俺は今日なんのために居残っていたんだろう?

 それどころか、彼女はクラスメイトでもあるので、明日になったらまた顔を合わせなければいけないという事実に憂鬱になる。


 まあでも、もう彼女に近づこうという気すら湧かない。

 普段からそれほど女子と接点があるわけではないから、それに関してはいいとして。


 夜中になると多少気にはなったが、それでもスマホを触っていると忘れてしまった。ぐっすり寝て、朝起きた時にもこれといった変化はなかった。

 学校まで行くと、意外なことに彼女のほうから俺を避けていた。


 それもそうか――という気分になる。


「ん?」


 ふと妙な気配を感じて顔をあげると、異質なものが目に入った。

 それはこの学校の制服ではなく、ぼろぼろで薄黒く染まった白いワンピースを着ていた。ワンピースはところどころ血にまみれていて、そこから伸びる白い足は妙に青白い。靴は履いておらず、裸足のままだ。胸元くらいまで伸びた長い髪はぼさぼさで、少しうつむき気味の顔は表情が見えない。

 見てはいけない。

 急にぞくりと背中に冷たいものが走る。


 まさか――と思って、慌てて顔を下げる。


 あれは、この間聞いたやつか?

 特徴はそっくりだ。というより、そのものだ。

 この間まで俺を見ていたという幽霊は、今は斜め前に座っている女子のことを後ろからじっと眺めている。

 妙な脂汗が頬を伝い、血の気が引いていくのがわかる。


 なんで。

 どうして。


 頭の中が唐突に真っ白になったようだった。


 それからというもの、その女子の後ろには血まみれの女がずっと立っているのが見えるようになった。

 ふと顔をあげた瞬間や、何でもない時に限って、彼女は偶然か近くにいた。そうして、彼女のことをじっと見つめている女が目に入る。


 俺に幽霊のことを伝えた女子を見てみたが、彼女は今度は気付いていないようだった。

 それどころか、俺のことをなんとなく避けているように思える。

 俺のほうが避けるならともかく、どうして向こうから避けられないといけないのか。

 加えて、どうして今まで俺に見えなかった幽霊が、唐突に俺の目の前に現れたのか――納得のいく説明がほしかった。


 女はいつでも女子の後ろに突っ立っていた。

 そして、おれは何となく顔をあげた瞬間にそれを目撃することになる。

 同じクラスだからというのもあるが、余計に視界に入るそれは不気味という以外に言いようがない。

 自分がおかしくなりそうだった。


 大体、あの幽霊はそもそも俺に憑いていたのではなかったのか?


 考えるごとにずんと肩が重くなったように感じた。

 今、憑かれているのは俺ではないはずなのに。


 ――でも。


 まさか、とひとつの可能性が去来する。

 俺が顔をあげると、俺に幽霊のことを告げた女子が目に入った。


 偶然か必然か、ぱっと目があった。

 彼女は――気の毒そうな顔をして俺を見ていた。





 その数日後、俺は幽霊が後ろにいる女子を人気のない教室に呼びだしていた。


「あの、なに?」


 怪訝そうな彼女に向かって、できるだけ戸惑うような表情を作った。


「あの……ごめんな。急にこんなこと言いだして、変な奴だって思うかもしれないけど」


 彼女の後ろには、相変わらず女が突っ立っていた。

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