怪ノ七十三 顔がない
ある日教室に行くと、顔の見えない女の子がいた。
女の子だとわかったのは髪型とセーラー服のおかげなのだが、私は思わずドキリとして悲鳴をあげかけた。
なぜなら顔だけが真っ黒に、例えるならイラストや写真を塗り潰したかのように存在しないのだ。
あまりのことに硬直していると、友人が声をかけてきた。
「おはよう! どうしたの?」
「ね、ねえ、……あの子、誰?」
思わず友人に言うと、キョトンとした顔をしてから笑った。
「やだ、クラスメイトだけどそれはひどくない!? ――さんでしょ?」
何さんなのかは、音楽を早送りした時のようにしか聞こえなかった。
私はひきつった笑いを見せることしかできず、曖昧に返事に頷く。
「そ、そうだっけ。なんかついド忘れしちゃって」
「普段喋んないからねー。ところで、何か用だったの?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど」
「ふうん?」
普段交流がないと思われるぶん、助かった。だけれどいったいどうしたことだろう。私以外には彼女の顔がごく普通に見えているのだろうか。
誰もそのことについて言及しないし、笑うこともおかしがることもしない。反対に、クラスで彼女に誰かが話しかけるところを見ることもない。
さすがに、「あの子に友達いたっけ?」なんて聞くのは失礼だ。
名前を忘れているのはままあることだとしても。
彼女の顔に丸く空いた穴は真暗で、吸いこまれそうだった。実際、彼女のその暗闇は、ひとつの光すらも通さないように見える。
妙な不気味さを感じながら、私はせめて彼女に近寄らないように過ごすしかなかった。
ようやく彼女の存在に――良いか悪いかは別として――慣れてきたころのこと。
休み時間になった直後、私が教科書をしまっている時だった。
足音がして目の前に影が立った。
顔をあげると、思わず悲鳴をあげるところだった。
何しろ彼女が目の前に突っ立っていて、私を見下ろしているのだ。
「あ、あの……なにか?」
何か言っているようだったが、言葉は甲高く、キュルキュルと早送りしたような音しか聞こえない。
質問されているのか。
単に話しかけられているのか。
何か訴えられているのか。
何度聞いても、キュルキュルという音を繰り返すだけだ。
「ごめん、私よくわかんないから」
私は泣きだしそうだった。
それでも、彼女はなおもよくわからない音を繰り返していた。硬直したような私に対して、彼女は手を差し出してくる。触ろうとしているのだ。
「わかんないって言ってんでしょ、触んないで!」
恐怖を振り払うように怒鳴りつけると、教室じゅうの視線が私を見た。
「ねえ、どうしたの?」
「どうしたのって、こいつが……!」
「こいつって、何があったの?」
まさか顔が見えないなんて言えない。
それとも私がおかしいのか。
「ねえ、本当にどうしたの? なんかおかしいよ」
「……え、あ……ごめん。どうしたって?」
クラスメイトたちが、微妙な表情で私から目を逸らし、お互い顔を見合わせた。私はそれをなんとも言えない気分で見ていた。
その日から、なんとなくクラスメイトの、特にあまり交流のない子たちから避けられているような気がした。
「ねえ、アンタさあ、あの子になんかされたの?」
休み時間になったとき、前の席の椅子を陣取った友人はなんとなくそんなことを聞いてきた。でも、顔が見えないと答えられるわけもない。
「別に……」
「別にって、何の理由もないの? 存在がウザいとか?」
「そういうわけじゃないけど……」
「なんかさあ、どうしたの本当に? あの子とは普段喋ってもないじゃん。学校の外でなんかされたとか?」
「なんでもないよ、本当に!」
私が叫ぶと、友人は急に黙り込んだ。
「……ふうん、そう」
友人はそう言ってから、立ち上がって他の友達の輪に加わりに行った。私もそうしたかったけれど、なぜか一人孤立したように感じた。
私は悪くない――だけど、あの子の顔はやっぱり見えない。
あの子の顔は見えないし、言っていることは理解できない。みんなだけは理解できる。
その事実を認めたくなかった。
私がますます孤立していたのはうすうす感じていたし、そのことも認めたくなかった。
悪いのはあの子で、私は何も悪くない。
私の我慢はとうとう限界に達し、ある日あの子をひっつかむと、廊下の壁に叩きつけた。
「ねえ、本当になんなの?」
暗闇だけが私を見つめている。
「なんとか言いなさいよ! あんたは誰なのよ!」
彼女の冷たい手が私の手をおさえ、離してといっているように聞こえる。けれども実際に私の耳に聞こえてくるのは、きゅるきゅるという音だけだ。
その音は口のあるはずの場所というより、顔のもっとずっと奥、暗闇の向こう側から響いている。早送りだと思ったそれは、本当はなにものかの鳴き声なのかもしれない。
声は廊下じゅうに響いていて、ぎょっとしたようにみんなが私を見た。
やがて騒ぎを聞きつけた何者かによってあの子から引き剥がされたが、私はみんなが私をおかしなものを見る目で見ているほうがいたたまれなかった。
引き剥がされて手が離れたその一瞬に、辺りにいた奴らを弾き飛ばして走りだした。
うしろから批難の声が聞こえたが、今すぐにどこかに消え去りたかった。
あんな学校にいることなんてできない。廊下を走っていると、教師の「廊下を走るな」という声が聞こえてきたが、私はそんなもの無視して走り続けた。
そのまま学校を飛びだし、急いで帰り路につく私を、通行人が驚いたような顔で見ている。
自転車に乗ることも忘れたまま、私は家まで走った。
明日からどうしようとか、いったいどうすればいいのかとか、そういうことはまったくあたまになかった。
玄関の扉を開けると、ようやく落ち着いてきた。走ってきたからか、呼吸は乱れたままだった。膝に手をついて、肩で息をする。
「帰ってきたの?」
台所からお母さんの声が聞こえる。
「いったいどうしたのよ」
「ごめんお母さん、お腹痛くて、帰ってきた」
「え? なんて言ったの? ふざけないで」
「だから、お腹痛いって」
顔をあげると、母は驚いたように表情を歪ませたあとに絶叫した。
そのままあとずさり、廊下を逃げていく。私はぽかんとしながらそれを見るしかなかった。
「お母さん? どうしたの、お母さん!?」
慌てて後を追おうとしたが、すぐ隣にある鏡が目についた。恐る恐るそっちを見ると、私からは顔がすっかりなくなっていて、暗闇だけがそこにあった。
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