怪ノ三十一 廊下の絵
うちの学校には奇妙な絵画があった。
職員室や美術室ではなく、普通の廊下にだ。場所は、空き教室の前、という更によくわからない場所。その空き教室は、もともと何年か前に卒業した学年が、偶々人数が多くて、ひとクラス余計に出来ていたときの名残だ。
学校というのはたいてい同じようなクラス編成になる――もしくはしているのだが、そのときに限って、人数が多すぎて教室に入り切らないという事態が起きたのだ。だが、それ以降は次第に生徒の数も落ち着き、現在は使われなくなった。
だからこそ、使われなくなった今になっても絵画がぽつねんと置かれているのが不思議なのだ。
加えて、絵の内容に関しても理解不能だった。中学生だから、というわけでもなく、飾っていた教師陣にも理解できていたかどうか怪しい。例えるなら、ピカソのゲルニカと、ダリのシュールレアリズムを足して二で割ったようなといえばいいだろうか。何が描かれているのかさっぱりわからない。
赤や黄色といった鮮やかな色を使っているにも関わらず、どうにも雰囲気が暗く、かろうじて女性の顔のようなものが描かれているとわかる程度だった。更に言うなら、それならそれで下の部分は服なのか、それとも何か違うものを表現したのか、とにかくまざりあった赤とオレンジと黄であるとしか言えないのだ。
それゆえ、もっぱらこの絵に関する奇妙な噂のほうが有名だった。
”この女性は、事故にあったこの学校の生徒である”――。
この絵について唯一わかっているのは、この学校の生徒が描いたということだった。
噂によると、元々は普通の絵だったというのだ。ところがその卒業生が、この絵が評価される直前、事故にあってしまった。事故にあった中学生の絵などどうなのかという――おそらくは、不吉だと思われたんだろう――選考委員の理不尽な考えにより、絵は落とされた。それから絵は歪み、事故にあった少女のように、こんな風になってしまったというのだ。
それ以来、時折絵の中から抜けだして、恨みを晴らしている。
――絵から抜けだす、ねえ。
その噂を聞いてから、私は改めて絵を見る機会があった。
機会といっても、たまたま絵の前を通りすぎようとした、ただそれだけのことである。ただし、何度か通りすぎることはあったものの、こうして改めて見上げてみることはなかった。
私は奇妙な噂など信じていなかった。
それでも、別に普通の絵だ、と言いきってしまえるほどこの絵が好きなわけでもない。むしろ気味が悪かった。なぜこの絵をいつまでも飾っておくのかもわからない。掲示板があるわけでもないし、そもそも廊下に貼りだすなら、「廊下は走らない」というような注意文のほうが適切だ。
なぜ剥がさないのか。
それもあって、たぶん奇妙な噂があるんだろう。
まじまじと絵を見つめてみたが、それらしい気配はまったくない。
それでも、女性の目がこちらを見つめているような描き方で、いい気はしなかった。それどころか、見つめているうちにむかむかとした気持ち悪さのようなものが、胃のほうから立ち上ってきた。
これでは、確かに噂が立つのも頷ける。
私は、絵の女の射抜くような目線から逃れるように離れた。
だがそれ以来、私はあの絵から異様さを感じるようになってしまったのだ。
一旦気にしてしまったから、だろうか。
日に日に増していく気持ち悪さに感情を持て余し、私はいつしか吐き気を催すようにまでなっていた。
そこにある、というだけで気分が悪い。
教室にいても、あの絵の前を通り抜けることを考えただけで、まとわりつくような嫌悪感を覚えた。
「あの絵、気持ちわるいよね」
それとなく親友のユキに告げてみる。
「あー、そうだよねえ。なんか変な噂もあるしさ。いつ外すんだろうね?」
「私としては、今すぐにでも外してもらいたいけど」
「あはは。確かに見た感じも怖いよねー。あんまり目を合わせたくないっていうか」
「それもそうだけど、目障りだと思わない?」
「目ざわり?」
彼女はきょとんとしたように私を見つめる。
「うん。本当に、なんであるのかよくわかんないし、いくら卒業生の……事故死したっていうのが本当だったとして、そういう人が描き残したからって、いつまでもあんなところにあるなんて。信じられないと思わない?」
「うーん、まあ、そう言われればそうだけど……」
ユキは首を傾ぐ。
「そうだよ」
私は嫌悪感を隠さずに言った。そのときの私は、とにかくあの絵をこき下ろしたくて仕方がなかった。とにかく罵倒せずにはいられないというか、汚い言葉を使ってでも理解してほしかったからだ。
「そもそもあんな絵があるから、妙な噂だってたつわけでしょ。あんな気持ち悪い絵があるから気分だって落ち込むし。あの絵に描かれてる女の人だって見た感じ気持ち悪いでしょ。あんな絵を描くぐらいなんだから、性格もちょっと、ね? わかるでしょ? 学校にも相当無理言って飾ってもらったんじゃないかな」
ユキはポカンとしたまま、私が休憩時間を潰しながらまくしたてるのを聞いていた。
「そんなに言うなら、見てみようかな」
ユキは立ち上がって振り返った。
私は一瞬あっけにとられたあと、驚きよりも先にユキの軽率な行動を軽蔑した。
「私は行かないからね!」
「んー? いいよいいよ パパッと行って、チャチャッと帰ってくるから」
ユキは時計をちらりと見てから言った。どうやらもうすぐチャイムが鳴るからだと勘違いしているらしかった。
実際、ユキは風のように駆けだしていくと、すぐさま戻ってきたのだ。
「まあ確かに気持ち悪い絵ではあるね」
ユキはなんでもないことのように言った。
ちがう。
私のいいたいのはそういうことじゃない。
私はもやもやとした気分を抱えながら、ユキを無視するように拗ねた。何かあったの、と他の友達にも聞かれたが、適当にごまかした。
とにかく絵が気持ち悪くて仕方なかったし、それを理解してほしかった。ただ、ユキがあの様子では他の子にいったところで理解してはもらえまい。
私は帰りのホームルームが終わっても、わざとぐずぐずと荷物をまとめた。
あの絵をどうにかしなければ、私の学校生活そのものが破綻してしまう。私は教科書を鞄の中に詰め込むと、代わりに、筆入れの中に入れたカッターを取り出した。これは本来は、文房具のひとつとして特に用途もなく入れているものだ。
だけど、本当はこのためにあったのだと自分を納得させる。
私は他の生徒や教師がいないことを見計らい、こっそりと廊下に出る。こそこそと他の教室の様子を伺いながらあの絵の前に行くと、やはり絵はそのままだった。
吐き気がしたが、手にしたカッターがあれば充分だ。
震える手で、絵に刃を向ける。
けれども、先ほどまではあんなに固執していたのに、急に馬鹿らしくなってきた。
何度見ても絵はただの絵で、抜けだしてくる気配もなければ襲ってくる気配もない。
私はしばらく逡巡したあと、ゆっくりとカッターを下ろした。
なんだ。
やっぱりただの絵じゃないか。
私は手早くカッターをしまった。なぜだか、恥ずかしさがこみあげてくる。ユキにもひどいことをしてしまった。
早く帰ろうと、踵を返して階段に向かう。
いつも使っている階段は遠く、そういえば、向こう側にある階段のほうが近かったかも、などと思いながら廊下を戻っていると、ふと背中に影が落ちた。
最初は気にならなかったものの、進むほどに変わらない影の形を不思議に思う。外の建物からの影だろうかと窓を見ると、もう夕暮れになっていた。
「ん?」
ぐるりと後ろを振り向くと、赤く染まった夕暮れに包まれて、背の異様に高い女の顔がひきつるように笑った。ワンピースのような赤い布を広げて、血まみれのままいびつに私を見下ろしている。
――あ、やっぱり。
気持ち悪いものは気持ち悪いのだ。
その気持ち悪さが、自分の中の警鐘だったと気付く前に――私の視界は赤く染まった。
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