怪ノ三十二 壁の影(前)
私が通っている高校には、旧校舎があった。
旧校舎といっても、怪談の舞台になりそうな古くて暗くて閉鎖されていて……というようなものではない。確かに木造ではあったが、新校舎を作るときに改装されたらしく、壁はコンクリートだ。もっとも、その新校舎――つまりは現在使っている校舎も、だいぶガタがきていて、「新」がついていてもしっくりこない。そろそろ新校舎が「旧校舎」と呼ばれてもおかしくはないだろう。
それで旧校舎のほうはというと、こちらも既に取り壊しが決まっていた。もっぱら一階部分が道具置き場として使われていたおかげで――体育祭や文化祭なんかで使う大道具が主だ――生徒会が教師と一緒に時々立ち入り、荷物を移し替えることになっていた。
「うわっ、何この部屋、きたなっ」
その日はじめて入った教室には、よくわからないオブジェやつぎはぎされたダンボールがホコリにまみれていた。
「いくらこんなでかい倉庫があるからって、放置しすぎだろ、うちの学校」
普段は役職の責任感から文句を言わない新藤会長も、眉を顰める。
加えて、いくら体育のジャージに着替えたからといって、これはない。はたして五人程度の生徒会でなんとかなるのか、という具合だ。
今までは隅の方に置かれていた机や椅子の撤去が多かったのだが、なんでもかんでも詰め込み過ぎだ。
「とりあえず、窓開けてくれ。風を通そう」
会長が不快感を隠さずに言った。
書記担当の一年生二人が窓に向かうのを皮切りに、私たちも中へそろそろと入る。すぐに窓は開くかと思ったが、相当古いものなので、ガチャガチャとやっている。
「うわあ、本当にここの物って使うんですか? 私、見たことない……」
第何回の体育祭の飾りなんて、どうすればいいんだろう。
「一応全部移動ってことだけど、廃棄してもいいんじゃないかなあ。先生が来たら確認して捨てたほうがいいかもな」
誰も会長の意見に異議を唱えるものはいなかった。
「うええっ、なにこれ!」
「うひゃっ! び、びっくりした……どうしたんですか?」
むしろ突然の声に驚き、声をあげてしまう。
副会長をしている氷室先輩だ。先輩のほうに近寄ると、先輩は無言で壁を指さす。
「うわっ……」
今度の声は、驚きではなく気持ち悪さからだった。
教室の壁には、黒いシミがついていた。ただついているだけならまだしも、それがぼんやりとした人影のように見えるのだ。壁にはりついているような格好で、頭と思しき部分だけシミの無いところがぽつぽつとあり、それが顔に見えるのだ。それが口を開いて泣いているようにも見えるので、余計に引いてしまう。
「うわー、何これ」
「カビかなんかかな」
会長までもがやってきて、微妙な顔をする。旧校舎は取り壊すのだから壁に何があろうと構いやしないが、さすがに人影に見える形のシミがこうもはっきりと存在していると気分が悪い。
「おう、やってるか」
遅れてやってきた先生が、顔を覗かせる。
「先生! なんかここにきもちわるいシミが……」
「シミ?」
先生がどれどれとばかりに覗きこむ。
「ああ、これかあ! なんか聞いたことあるなあ。カビかなんか生えてるみたいなんだが、何度塗り直しても駄目だったらしくてな」
「いやっ! 余計に気持ちわるっ!」
「人影みたいに見えるだろ? だから、昔はここの七不思議でよく登場したみたいだぞ。なんでも、この学校を作るときに壁の中に塗りこめられた者が、こうして誰かにへばりつこうと……」
「待って、先生。その先は聞きたくないです」
氷室先輩が蒼白になって止める。
窓開けから離れた一年生が、あ。と呟いて窓に戻り、ひらめいたようにガチャガチャやりはじめる。
「これでこうだろ? ……開いたー!」
一年生の歓声があがった。ようやくそこで涼し気な空気が入りこみ、話に興じようとしていた先生も、片付けをしようという空気にかわる。
「そうだ、先生。この辺のものでもう使わないものがあれば、廃棄してもいいと思うんですが……」
「そうだなあ。ひとまず、こういう大道具はみんな畳んで廃棄するか」
会長が先生と交渉しているのを横目に、私たちはさっさと片付けに入ることにした。人影がこちらを見ているようで落ち着かなかったが、片付けに集中しはじめるとそんなことは忘れてしまった。
奥のほうからもまだ以前の生徒たちによって作られたと思われる文化祭の飾りが出てきたりして、とうてい一日でどうにかなるようなものではない。
「この柱みたいなのも解体したほうがいいですよねえ」
書記の二人が聞いてくる。体育祭と書かれた柱だ。しばらく使っていなかったらしく、もうボロボロだ。去年見たものとはデザインが違う。
「これ、どこに置いてたんですか?」
「たぶん、門のところじゃないかなあ。手伝うから解体しよ。えーっと、カッターかなんか……」
私は辺りを見回して、誰かが使っていたはずのカッターを探す。すると、大荷物を持ちながらよろける氷室先輩の姿が目に入った。その足元には段ボール箱が無造作に置いてある。
「氷室先輩、足元あぶなっ……」
「きゃっ!」
氷室先輩は段ボール箱につまずき、よろめいたかと思うと背中を壁にしたたかに打ち付けた。痛そうな音が響き、全員の目が先輩に向けられる。
氷室先輩のもっていた荷物の中身が転がり、辺りに散乱する。
「大丈夫ですか!?」
「ていうか……背中痛ァ……」
氷室先輩はうんざりしたように言う。
「ひっ、ちょ、ちょっと先輩……」
私は言ってから、しまった、と思った。
何よりもそれをこわがっていたのは氷室先輩だったのに。先輩は後ろを振り向くと、すぐさま壁から離れた。
「いやっ! ちょっと、もうっ、最悪!」
先輩はあのシミのところへ背中を強かに打ち付けたのだ。氷室先輩は必死に背中を払っている。一番怖がっていたのは先輩ではあるけど、みんな同情していたのは確かだ。人間のようなシミにぶつかるなんて、気持ちの良いものではない。
なんとなく気拙いような空気になった。
「おい、スゴイ音がしたがどうした?」
「ああ、氷室さんがちょっと転んで……。今日は遅いし、ここらで終えてもいいかもしれません」
「そうだな。あんまり遅いのも何だ、後は先生が鍵をかけておくから、お前たちは先に帰りなさい」
先生の言もあって、散らばったものを適当に段ボールに詰め直すと、私たちはそそくさと旧校舎をあとにした。
「なんか着替える気もないや。うち近いから、私はこのまま帰るよ。なんかだるいし」
氷室先輩はそう言うと、着替えの入った荷物を手にして先にふらふらと帰っていく。だるいという割にはまだ歩いていたし、無理に引きとめるのもどうかと思って、みなそのまま見送った。
だが次の日から、氷室先輩は学校に来なくなった。
最初は疲れからかと思ったが、一週間も休んでいるとなると、さすがに心配になってくる。
「氷室先輩のことで、少し噂聞いちゃったんですよ」
書記の一年生が教えてくれた。
「なんでも、ひどい熱と、背中が痛いとかで……、なんか、熱のせいかうなされちゃって大変みたいで。背中にシミがあるとかうめいてて」
「シミ? シミって、なに?」
聞き返すと、一年生は渋い顔をする。
「……この間片付けた部屋、あったじゃないですか」
「どれだっけ?」
「ほら、あの……シミがあった部屋」
私はようやく思いだした。
先輩が倒れて、シミにぶつかったのを思いだす。
「この学校の七不思議って、卒業生の従兄に聞いて調べてみたんですけど……、確かに先生が言ってたような不思議が存在したみたいなんです。あそこにあるシミに触ったりすると、あのシミの幽霊に憑かれるって……それで……」
一年生は言いにくそうに呻く。
「あそこ……、気になって、窓から見てみたんですけど、シミがなくなってたんですよ」
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