第65話 体調管理は万全に

 殴るという物騒な単語にとなりの美桜がぎょっとしている。平気だと笑みだけで伝え、織音自身の心にも大丈夫だと言い聞かせる。もう中学生じゃない。間違ってもメニューで引っ叩いたり、グラスの水をぶっかけたりしてはいけない。


「その節は、大変失礼しました」


 口達者な樹生と日々過ごしているから、これぐらいの言葉遣いはすんなり出せるようになった。作り笑いで軽く会釈したら、ケラケラと無遠慮な声で外面を小馬鹿にされる。


「すっげ、あのオトちゃんが大人になってる」

「五年も経ちますので」

「ひぇー、もう二十歳?」

「あとふた月です」

「二ヶ月ぐらい変わんないじゃん。飲む?」

「遠慮します。法律遵守で」


 ナチュラルに遵守なんて言葉が飛び出した。自分の成長を感じる。だいたい、飲むも飲まないもない。今日はノンアルコールコースだ。

 きっぱりと返すと、ムッとした顔の祐慎は指でテーブルを叩いた。


「五年前は俺もガキだったんだって。ちょっと折れてよ。空気悪くしたくないだろ?」


 すっとオレンジジュースのグラスを差し出される。そういえば離席前にこんな物を頼んだ。会釈で受け取って、ストローを挿した。


「お礼は?」

「……ありがとうございます」


 グラスを寄こしたぐらいで、恩着せがましいことこの上ない。五年前の自分がまぶたの奥にはめんでいたのは、きっとガラス玉か何かだったのだ。当時の自分の見る目のなさを再認識しつつ、ジュースをひと口ずずっと含んだ。


 とんでもない美味しさに思わず目を丸くした。無心で半分ほどを飲んで、ほぅっと息をつく。


「酒じゃあるまいし。そんな旨いの?」


 からかう口調のせいでやや甘みがマイナス。

 とはいえ、こんな相手を前にしたら何を口にしても味がしないだろうと覚悟したが、オレンジジュースに関しては極上である。


 こくりと、もうひと口。味に加え、冷たさがやたらに体に染みる。三千円の食べ飲みコースで出していいレベルの飲み物だろうか。オレンジジュース界でも名を馳せる何かに違いない。きっと、和歌山か愛媛か有田あたりの何とか賞を受賞している。


 会話そっちのけでジュースを堪能していたら、祐慎はまた不満げにテーブルを指で叩いた。なんとも不快な癖をお持ちだ。


「オトちゃん、今ひとり暮らしなんだろ?」

「はい」

「こっから近い?」

「遠くはないです」

「彼氏いるぅ?」

「いないから今日参加してます」

「だーからぁー、硬いって! 空気読まん? そんなんで大学やっていけてんの? 中学ん時みたいにボッチ極めてねぇ?」


 昔を掘り起こす物言いに、つい声を荒らげそうになる。織音は一度苛立ちを飲み込んでから呼吸を整えた。こちらを案じてくれる美桜と彩葉の視線に励まされる。


 せっかく友人が用意してくれた場を台無しにしたくない。十九歳らしい対応をしろと、作り笑いを顔に貼り付け直す。

 今こそ、五年前とは違う大人の余裕を見せるべきときだ。淑女の微笑みを浮かべる自分を脳裏に描く。そのイメージを、たっぷり全身に行き渡らせた。


「おかげさまで、素敵な友人と楽しくやっています。江幡さんこそあいっ――――かわらずみたいで何よりでぇす」


 行き渡らなかった。淑女も真っ青。ハリセンボンも返り討ちにする刺々しさ。大人の余裕に羽が生えてパタタタと飛んでいくラストシーンなんて、涙なくしては見られない。


 いますぐ脳に樹生を住まわせたい。こういうとき、樹生なら完璧に外面を装ってこなすはずだ。


「よそよそしいなぁ。昔みたいに祐慎って呼んでよ」

「そんな風に呼んだ記憶、ありませんし」


 嘘だ。交際初期からすっかり気を許して、織音はこの男を名前で呼んでいた。消し飛ばしたい過去である。


 視線を祐慎から外し、残りのオレンジジュースに集中する。

 すると、祐慎がおもむろに織音の顔周りの髪に触れてきた。びくりとして身を退くと、底意地の悪そうな笑みを向けられる。


「もったいない。オトちゃんは下ろしてるほうが美味しいのに」


 その美味しいの意味するところをまともに考えてしまった。樹生に慣らしてもらった体を、久しぶりの不快感が這う。

 ぎゅっと手首を掴んでいたら、となりの美桜に「大丈夫?」と小声で気遣われる。こそりとテーブルの下で親指を立てて応えた。


「いや、避けすぎじゃね? いまだにガード固いのかよ。そんなんじゃ彼氏もできねぇだろ」

「江幡さんにご心配いただくことでもないですから」


 どうして、いちいち煽りにくるのか。ぞわぞわと騒ぐ肌に服の上から軽く爪を立て、なんとか笑顔でかわし続ける。けれど、祐慎はまったく攻勢を緩めてくれない。マッケンバーガーのトレイの一撃をここまで根に持たれようとは。


「冷てぇの。キスした仲なのに」

「おいっ、さすがに失礼すぎるだろ!」


 蒼大が声を張る。彩葉も顔色を変え、織音の側に寄ってきた。

 個室内の空気が緊迫した途端、祐慎がげらげらと耳障りな声を上げた。


「なーんか点数稼ごうとしてるけどさ。オトちゃんが俺のこと殴った時、蒼大もあの場にいたんだけど? 覚えてない?」


 そう言って蒼大にくいっと親指を向ける。途端、蒼大が表情を曇らせ、気まずそうに目を逸らした。


 悲報にもほどがある。

 合コン九回目にしてようやく抱いた好印象が、一瞬で地に落ちてしまった。


「……最悪」


 苛立ちのせいか、ずいぶん顔が火照って喉に渇きを感じる。こんなときに限ってジュースは空だ。まだラストオーダーまで時間はあるだろうかと、鞄からスマホを取り出す。


 画面を見たら、いつの間にかLINEメッセージが届いていた。


【 タツキ >> やっぱり調子悪いか? 】


 はて、と瞬きした。いったい何の話だろう。樹生にしては珍しく送り先を間違えたのだろうか。

 精神疲弊のためかどうもぼんやりしてきた目で画面を眺めていると、肩に彩葉の手が触れた。


「織音……ちょっと、大丈夫?」

「ぁえ? なにが?」

「いや。顔、赤……ってか熱っ!」


 首筋に触れた彩葉が仰天して、美桜がひたいに手のひらを当てがってくる。友人たちの手がやけにひんやりと感じられて、織音は目を細めた。


「えー、なにぃ。気持ちいい」

「……うわ。まずいよ彩葉、これ結構ある」

「よね? とりあえず水。水飲んで」


 ふたりにうながされ、水の入ったグラスに手を伸ばす。氷でしっかりと冷えたグラスを掴んだ途端、ぶるっと全身が震えた。


「……あ、れ。なんか寒い?」

「でしょうね! どう見ても熱あんのよ!」


 不調を自覚した途端、ずんと頭が重くなった。両腕を擦りつつ、頭を個室の壁に預けてみる。


「何、具合悪いの? 家まで送ってってやろうか?」

「祐慎! いい加減にしてくれ!」


 蒼大が祐慎を怒鳴りつける。白々しいことだ。人の良さそうなこの男も五年前、織音を笑い者にしたのに。


 彩葉が織音の背中に手を当てて、ゆっくりと上下させる。


「タクシー呼ぼう」

「ん……駅そこだし、平気……」


 立ち上がろうとしたら、握りしめていたスマホが震えた。


【 タツキ >> 向遥台の駅前におるし 】


 こんなに頼れるメッセージが他にあるだろうか。駅までたどり着けば大丈夫だと安堵した途端、彩葉にスマホを奪われる。


 ぼんやりと、彩葉がスマホに何か打ち込むのを見守る。首から上はどんどん熱を持つのに体はひどく寒くて、目は回りだすし涙まで滲んできた。これほどの不調ならもっと早く兆候があったはずなのに。自己管理がなっていない。


 蒼大が「あの」と声を上げて腰を浮かせる。


「駅までなら、俺が」

「中条さんはそこの最低な人を押さえといてください」


 美桜がぴしゃんと言い放つと、蒼大は大人しく腰を下ろした。祐慎がショーでも見るように手を叩く。せっかく彩葉と盛り上がっていた男性はおろおろするばかりで、こんな場に居合わせたのが気の毒だ。


 彩葉から返されたスマホを鞄にしまい、そのままかっくりと頭を下げた。 


「ふたりともごめんねぇ……空気悪くした」

「私の人選が最悪だったのよ。織音が謝らなくていい」


 彩葉の言葉に、美桜がうんうんとうなずく。

 ふたりの優しさを前にそんなことを考えて、目頭が熱くなる。もしかしたら、大学でだって織音なりにちゃんと友情を築けるのかもしれない。


「気にしなくて大丈夫だって、織音。ほら、靴履こ」


 美桜に促されて、なんとか小上がりから足を下ろして靴を履いたときだった。


 織音のひたいに、ぬっと伸びてきた祐慎の手が触れた。


「うわ、ガチで熱い」


 その手がひたいから離れ、耳をかすめ。樹生がアレンジしてくれた髪に触れる。


「っぁ……ゃ」


 織音の体を羽虫が這う。それは巨大な塊になって、触れられたところから全身にぶわっと拡散する。熱に震える体を、さらなる寒気が突き抜ける。


「ぃやッ!」


 バチンと祐慎の手を撥ねつけて、自分の体を抱きしめた。


「いやいや。さすがに態度悪すぎ……だろ」


 そこで祐慎が眉をひそめた。止めようと腕を伸ばしたままの蒼大も、臨戦態勢に入ろうとしていた彩葉も織音を凝視している。個室内の視線が体に刺さる。


 織音は袖を強く引っ張ってうつむいた。腕は隠せても、露出した首は隠しようがない。きっと今、赤い発疹が大量に浮き上がっている。皮膚の下を這い回るようなじりじりとした痒みでわかる。


 ずいぶんマシになったと思っていたのに。

 恥ずかしい。見ないで欲しい。こんな弱い面を、誰にも知られたくない。


 せめて、彩葉たちには自分の体質を伝えておけば良かった。今さらな後悔に唇を噛む。羞恥に涙腺を揺さぶられて、きつくまぶたを閉ざしたときだった。


「失礼。三原 織音の迎えの者です」


 頭上から、織音のよく知る声がかかった。ゆっくりと顔を上げたら、軽く息を切らした樹生がそばに立っている。その姿を目にした途端、恥ずかしさも体の強張りもまとめて吹き飛んだ。


「駅まで来てくれてるならって、呼んでみたよ」


 小声で彩葉が説明してくれるから、ぎこちなくうなずいて応じる。

 樹生がパーカーを脱いで、織音の首を隠すように肩に掛けてきた。


「会計、終わっとる?」

「……ぁ、まだ」


 織音が答えたら、彼は自分の財布から五千円札を出してテーブルの隅に置いた。個室内を一瞥し、彩葉と美桜に向かって人の好い笑みを向ける。


「足ります?」

「や、多すぎです!」

「ほな、つりは今度また織音に渡しとってください」

「……やば、関西弁アガる」


 彩葉がぽそっとこぼすのを聞きながら、織音はふらふらと立ち上がる。すると、祐慎が気怠げに声を掛けてきた。


「オトちゃん。俺に謝るぐらいしねぇの?」


 求められるまま、朦朧としてきた頭でどうにか座敷に体を向けようとした。

 けれど。そんな織音より早く口を開いたのは樹生だった。


「織音はちゃんと謝れるやつです」

「ぁ?」

「その織音が謝らんのやったら。そちらさんに何かしら落ち度があるてことでしょうね」


 祐慎の派手な舌打ちを無視して、樹生が織音の鞄を肩にかけた。それからぐっと顔を近づけてきて、耳元でささやく。


「ええか、触るしな。スカート押さえときや」


 え、と思ったときには視界がすっと高くなった。足が宙を蹴る。樹生の顔が近い。いわゆるお姫様抱っこだと、やや遅れて認識した。


「た、つき……あたし、自分で」

「ええから。パーカーだけ落とさんようにしっかり掴んどって」


 樹生は織音を抱えたまま「お騒がせしました」と皆に会釈する。織音の頼りない視界に、なんだか嬉しげに手を振る友人たちが映った。



 店を出てすぐタクシーに乗せられた。樹生もとなりに乗り込み、運転手にどこかの病院の名前を告げる。ふらつく織音の頭は彼の肩に引き寄せられて、そこが定位置かのように落ち着いた。


「あの腹立つ男、誰?」

「ぇ、ぁ……元カレ」

「ほぉん。一発殴っといたら良かったな」


 うまく回らなくなってきた口で、ヒーローが来てくれたから平気だと伝える。樹生はいつもの笑みを浮かべて織音の頭を軽くなでてくれた。

 織音の体をなにひとつ脅かさない彼の手に誘われて、静かにまぶたを下ろした。



 あとのことは、あまり覚えていない。

 どこかの病院に連れて行かれたこと。また樹生が抱えて下ろしてくれたこと。


 それから。

 三原さん、と受付で呼ばれて。当たり前のように返事をする樹生の声を聞いた。

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