第63話 秘密の彼女
* * *
大学に入ってからも、美容室は樹生の兄、俊也のところに通っている。樹生の身内なのだと繰り返し自分に言い聞かせ続け、どうにかこうにか四十五分ほどの施術に耐えられるようになった。女性美容師を求めて近場で新たな馴染みを作るのも手だが、せっかく慣れた俊也との距離を空けたくない。
二、三ヶ月に一度のペースで地元、
待合ソファに座る樹生は、俊也から目を離さない。アレンジ沼にはまっているだけあって、美容師の手仕事を見るのが好きなのだろう。
今日も織音がひと足先に美容室を出て、カフェ『ねこだまり』にやってきた。『にゃんとも贅沢なたまごサンド』に舌つづみを打ち、アイスティーをかき混ぜる。織音の向かいでは、春らしく髪色を明るくした結衣が、同じくたまごサンドを堪能中だ。
結衣のとなりの空席に、カタンと皿が置かれた。『にゃにゃつのスパイス香るソースのカツサンド』が乗っている。
届け人は、
「もうすぐ着替え終わると思うから、おふたりとものんびり待っててね」
「はーい」
結衣と一緒に返事をして、たまごサンドを食べつつ待つことしばらく。私服に着替えた朱莉が店の奥から出てきて、周囲に会釈しつつ結衣のとなりに座った。
「ごめん、おまたせ」
「あかりん、一時までシフト入ってるんじゃなかった?」
「……いいから上がれって言うんだもの」
拗ねと照れを混ぜた顔で目を伏せて、朱莉が「いただきます」と手を合わせた。その左手に指輪がはまっているから、織音はほほうと目を光らせる。年明けに集まったときには無かったと記憶している。
「あかりん、ペアリングにはしてないの?」
先ほどの柊吾の手にはなかったはずだ。織音が尋ねたら、朱莉が珍しく頬をほんのり染めて、食べかけのカツサンドを皿に置いた。
「ペア。バイト中は衛生面で外してるだけ」
「本気のやつ?」
「まさか! まだ、そういうのじゃ」
「へぇー、まだかぁ」
余分なひと言をしっかり拾ったら、朱莉がぼんっと沸騰した。大人びた友人のレアで可愛い姿に、織音はうっとりと目を細める。
然るべき時が来たら正式なものを。その予約なのだろう。贈り主が朱莉の立場やら年齢を重んじると知っているから、安価な指輪も一層輝いて見える。
ちょうどテーブルのそばを通りかかった柊吾を捕まえてから、朱莉の指輪をつついてみた。柊吾は「あぁ」とうなずいて、襟元からチェーンを引っ張り出してくる。そこにはしっかり指輪が通してある。
「バイト中はこうしてます」
「はー。ごちそうさまでーす」
指輪を胸元にしまった柊吾は余裕の笑みで去っていく。彼が朱莉の前だととんでもない甘えたっぷりを発揮するというのがなかなか信じがたい。
残された朱莉はもう照れすぎて溶けかけている。夏場のチョコレートだ。
「ね。素敵だよねぇ」
結衣がくふくふと嬉しそうに言うと、朱莉がじとりと横目で睨んだ。
「結衣も買えばいいのに」
「クマがいるから、私たちはいいのです」
結衣と悠がおそろいで持っているワンコインのバースデイ・ベアは、まだまだ現役で活躍しているらしい。
結衣は樹生と同じ市立大学を目指したが届かず、英星大に進学した。織音だけが離れてしまったのは寂しいが、朱莉と結衣が一緒にいるのは素直に嬉しい。皆バラバラになってしまうよりずっと良かった。
三ヶ月に一度はこうして集まるし、昨年は一緒に旅行に行ったりもした。大学でそれほど交友を広げられない織音を理解して、ふたりは今も変わらず頻繁に連絡をくれる。
「織音ちゃんは最近どう? 今日も俊也さんとこ大丈夫だった?」
「うん。余裕だった。もう
「そっかそっか」
「ただ今日、あたし失敗しちゃってさぁ」
結衣がたまごサンドを食べきって、おしぼりで手を拭く。織音も最後のひと口をもくっと味わって、アイスティーで仕切り直した。
「俊也さん、樹生に彼女がいること知らなかったぽくて。変な空気にしちゃった」
朱莉が盛大にむせた。そのとなりで結衣は目を真ん丸にして眼球を零れ落とさんばかりだ。
「ちょ……っと、今、何言った!?」
「お、織音ちゃん……樹生くんの彼女って、なに?」
「へ!? あ、あれ? もしかして誰も知らないの!?」
結衣が知らないということは、悠さえも知らない可能性がある。とことん失敗してしまったと両手を顔に押し付けた。
「だめだぁ……ごめん、今の忘れてぇ」
彼女の話になると、軽快な関西なまりの声がいつも鈍る。とことん照れ屋なのか、究極の秘密主義なのか。いずれにせよ、もしかしたら織音にだけひっそりと明かしてくれたのかもしれない樹生の秘密を、べらべらと垂れ流してしまった。
そんな秘密を前に、結衣は「えぇぇ」と頭を抱え、朱莉はどことなく殺気立つ。
「あり得ない……高砂くん……」
「あ、あかりん? あり得ないはひどくない? たっつ良いヤツじゃん。あんだけ出来るヤツなら、彼女のひとりやふたりや三人」
「も、そういうことじゃないのよ……駄目、今すぐ問い詰めたい」
「駄目だってぇ! 忘れよーよ! シュバッと消してよー!」
そこにお
「なんか、あった?」
朱莉がぎごごと骨を軋ませるように動いて、自身の彼氏を見上げた。
「高砂くんが……わたしを騙してた」
「……うん。詳しく聞かせてもらおうか」
柊吾の纏う空気が、体感にして三度ほど下がる。これは気合を入れて朱莉をなだめねばと、織音は自分の迂闊さを呪った。
* * *
友人たちからしか得られない栄養をたっぷり補給した帰り道。
電車に揺られつつ、となりにちらちらと目をやる。どことなく樹生がふさいでいる気がして、織音は彼の腕を軽くつついた。
「なんか、あった?」
「兄貴とちょい揉めた」
樹生と俊也は九つも離れているせいか、織音は揉めているところを見たことがなかった。そもそもひとりっ子の織音なので、兄弟ゲンカがいかにして発生するものか想像もできない。
「あたしのせい? 俊也さん、彼女のこと知らなかったから?」
「ちゃうちゃう。先々のことでちょっとな。定期的に対立するネタやし、織音は気にせんでええよ」
本当だろうかと疑ってかかる。織音の軽率な発言が微妙な空気を生み出してしまったのは確かで、その空気を引きずって揉めごとになった可能性は大いにある。
このうえ、『ねこだまり』でもやらかした。皆にはどうにか聞かなかったことにしてもらったが、それで織音の罪が消えるわけでもない。
知らず知らずのうちにうつむいていたら、となりでふひゃっと笑い声が弾けた。
「そない百面相せんでも、ほんまに大したことやないから。それよりほら、そっちはどうやった? 皆あいかわらずやった?」
「あかりんが指輪してたぁ」
「ほん? 本気のやつ?」
「違った。お安いやつって言ってた」
「柊吾さんらしいっちゃ、らしいな」
にたっと笑う樹生が車窓に映る。そうするとなかなか悪い顔になる。となりで織音もにひひと悪く笑みを浮かべてから、やっぱり黙っておけないなと覚悟を決めた。
「あのさ。さーやちゃんのことって、こざーくんも知らない?」
「言うたことなかったなぁ」
「……ひょん」
「なんの鳴き声や?」
「織音サマの反省鳴き。ごめん、実は『ねこだまり』で皆に話しちった。誰も知らないと思わなくて。聞かなかったことにしてもらったから、ゆいこからこざーくんに伝わりはしないと思うけど」
「あー……了解。こざにはあとで言うとく。ゆいこちゃんに頑張って黙らんでええよて伝えといて」
樹生は責めるでも怒るでもなく、うっすら笑みを浮かべて眼鏡を外した。ずっとかけていると、度無し眼鏡でも疲れるらしい。鞄から出したケースに眼鏡をしまって、彼はふっと息をつく。
ときに緑、ときに黄色を強く見せる、不思議なヘーゼルの虹彩。織音はこの瞳を見るのが好きなのだが、樹生は人に見せたがらない。眼鏡を外してくれるのはだいたい織音か樹生の部屋でリラックスしているときで、出先で外すのはレアだ。
「きれーだねぇ」
「ほん?」
織音が自身の目を指さすと、樹生は眉を軽く下げて目を伏せる。これは照れている時。そういうのはわかる。
「織音ぐらいやで。そんなこと言うてくんの」
しみじみと返してくる彼の声は、やっぱり少し気落ちしている。
「ごめんよぉ!」
「おぉ!? なんや急に!」
「やっぱり彼女のこと広めたくなかったんでしょ? あたしが悪い。怒っていいからぁ!」
「ええんやて。話す機会がなかっただけや」
「そこをなんとか怒ってよお!」
「怒られたいんかい」
くっくと喉奥で可笑しそうに声を跳ねさせたあと、樹生はスマホを取り出した。
「そこまで言うんなら、どっかで飯食って帰らん? 兄貴に叱られたオレのこと慰めて」
珍しく甘えられて、織音はにんまりと笑った。
「いいぞ! 何食べよ。肉か! 肉だな!」
「せやな。ファミレスでもよろしいから連れてって。ほんで、奢らせて」
「樹生が奢られる側じゃないの?」
「人に奢るほうが元気出んの、オレは」
確かに、樹生はそうだ。他者に施すことに喜びを見出している。
そんな感じで『さーやちゃん』にも尽くしているのだろうかと思うと、胸の奥がもやもやとした。樹生だって彼女から尽くされていて欲しい。大切な友人の交際が、互いに贈り合うものであれと願う。
ただの友人である織音にできるのは、望みどおり奢られてやることぐらいだ。スマホでファミレスメニューを検索して、いちばんがっつりした肉料理を表示した。樹生に見せると、口元に弧を描きながら指で丸を作ってくれる。笑顔にさせたことで気を良くして、さらにデザートなんかも表示してみた。
「胃に入るか?」
「無理なら樹生が食べてくれるじゃん?」
「人の胃袋を入店前から当てにすんなて。まぁ食べますけど」
ハの字眉の、いつもの困り笑顔。今日は少し前髪が短くなって、下がり具合がよく見える。この笑顔は可愛い。そして、わかりづらい。
困る。焦る。喜ぶ。呆れる。
樹生はたくさんの感情をこの笑みひとつに代弁させるから、出会いから二年半経っても、織音はきっと彼をほんの一部しか理解できていない。ほろ苦さを押し出したココアが好きで、織音の髪をいじるのが好きで。間違いなくわかっているのは、そんなことばかりだ。
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