第62話 おとなりさん、始めました
十二月には朱莉が恋に悩み、二月にはその恋が形になった。
その頃、織音はといえば。
大学受験という分厚い壁にことごとく跳ね返されて、息も絶え絶えだった。
「……どこも受かる気がしない。日本の大学があたしに優しくない」
「世界の大学よりはまだ、織音に微笑んでくれる心の広さをお持ちやで。ほれ、手動かす。まだ後期残っとんのやから」
「てか、樹生も本番来るじゃん。なんで我が家で人の勉強見てんのよぉ」
「ええから、頑張りぃ。詩穂さんが安心できるかたちで家出たいんやろ」
ぐずぐずと半泣きで英単語を書いて覚える。
リビングでとなりに座る樹生の手に、どう見ても大学の専門書らしきものがあるが気にしない。となりにいる同級生はいろいろおかしいのだ。考えるだけ無駄だ。
「頑張るんだい。あたしも早く部屋探ししたい」
「……織音、合格前予約サービスとか使ってへんの」
「何それ」
「物件のあたりぐらいはつけとるよな? 詩穂さんが探しとるやろ?」
「いや? 合格決まってないのに探してどうすんのさ」
途端、樹生が顔をしかめて立ち上がる。
「え、何!? どったの!?」
「織音は勉強しとり」
「……うん?」
キッチンに向かった樹生が、何やら詩穂と難しい顔で話している。しばらくふたりを眺めてから、いかんいかんと手元に集中を戻した。
三月半ばに差し掛かろうという頃。奇跡的に後期試験に引っ掛かり、なんとか四年制の女子大学進学を決めた。
織音は意気揚々と大学近郊の物件調査に行き、即日絶望して帰ってきた。家に入ると、玄関には樹生の靴があった。危なげなく市立大学の合格を決めた友人は、今日も詩穂のとなりで包丁を握っている。
鞄を引きずってリビングに入り、ラグにべたんと座って座卓にあごを乗せた。
「いいとこ軒並み、空いてなぁい」
「やろなぁと思た。あの辺、大学集中しとるから三月後半から物件探しは難しいで。しかも女子向けの安心物件やろぉ?」
「お母さんもうっかりしてたからねぇ。いまどき女の子のひとり暮らしは防犯面でかなり条件が狭まるとか、樹生くんに言われるまで考えてもなかったわぁ」
そんなことを今さらあれこれ言われても、自宅から通うにはかなり厳しい距離だ。何より織音の主目的であった、母の充実した新生活が叶わなくなってしまう。
「一階でもよくない? ふつーのワンルームでさぁ。鍵かけときゃよっぽど大丈夫でしょ。それか学生限定物件」
「場所によったら溜まり場化して、夜な夜な宴会の大騒ぎが聞こえるらしいけどええか?」
「耳栓して寝るぅ……」
座卓に突っ伏した織音の前に、ぱさりと物件情報が置かれた。目線をあげたら、やや気まずそうな顔の樹生が、座卓を挟んで向かいにしゃがんでいる。
「あくまで、一案。親戚の伝手で不動産関係強いんやわ。んで、二月終わりの時点でヤバそやな思たし、詩穂さんと相談して仮押さえで話つけてある」
「は、えぇっ!?」
がばっと頭をあげたら、樹生はなぜか半眼でうなずいた。
「織音の大学からはちょい離れとるけど、大学近々よりはかなり安い。洋室ひとつに、別でキッチン。トイレ風呂セパレート。なんとエントランスオートロック。エレベーター有りの三階建て。徒歩圏内にスーパー二箇所とコンビニとドラッグストア。詩穂さん的には家賃許容内らしいし、親戚がちょい優遇つけてくれる」
「めっちゃ良物件じゃん! 神か!?」
「ただし!」
バンッと樹生が物件情報を叩いた。
「手違いがあって……三階の部屋押さえてもらうはずが、二階になった」
「え、別に見晴らしとか気にしないけど?」
「ちゃう。オレも春からここの二階やねん」
「いいじゃん! ご近所に樹生がいるなら安心」
「ご近所ちゃう。となりや」
樹生が長々しいため息とともに顔を両手で覆った。
「悪ぃ……親父に友だちとしか言うてへんかって。親父は男友だちやと思い込んどって。三階譲ってええかて親戚から連絡きて、ええよーて返してもたらしい。せやし、他のとこ見つかるまでの仮住まいぐらいで」
「ここでええんじゃないの?」
半端な関西なまりでこてっと首をかしげたら、指の隙間からこの世の深淵でものぞくみたいにして、樹生がこちらを見た。
「となり、やで? わかってるか?」
「うん。樹生のとなりなら安心。あ、さーやちゃん的にまずい?」
「い、や。そういうことやなく……あかんやろ」
「え、おかーさん。良いよねぇ?」
キッチンからリビングに出てきた詩穂は、うーんとあごに指を当てた。
「樹生くんしだい?」
「そこ、オレに投げるんですか」
「母としては、下手なおとなりさんができるより安心ではあるのよぉ。まぁ樹生くんだしってことも?」
樹生はしばらく難しい顔をして、パンッと膝を叩いて立ち上がる。
「わかりました! もうええです。とことん付き合います!」
「わーぉ、樹生くんたら男前ぇ」
「え、何? あたし全然ついていけてないんだけど」
目と目で語り合う母と友人の間で、織音はやっぱり首をかしげるだけだった。
そうして、大学二年四月現在。
織音と樹生は、楽しくおとなりさんをやっている。
* * *
大学二年、四月。
第三土曜日、午後。
週末恒例、樹生の部屋で、ヘアアレンジ勉強会である。
樹生相手ならどれほど触られようと平気になったとはいえ、年がら年中お世話になるわけにはいかない。
不器用な織音ながら、普段使いできる簡単なアレンジを樹生に教わっている。ここまで、トラウマ克服、受験勉強ときて、現在はヘアアレンジの師匠。どこまでも樹生の世話になりっぱなしの織音だから、土日の夜は夕飯を作る。それも結局、樹生がとなりで一緒に作るのだから、礼になっているのか疑わしい。けれど樹生はそれでいいのだと笑う。あいかわらず無欲な世話焼きだ。
なお、週末にここにいる時点で、前回の合コンの結果はお察しである。空気の読める樹生はわざわざ「どうだった?」などと尋ねてきたりしない。
ご飯が美味しかった。すこぶる美味しかった。以上だ。
ラフな部屋着に眼鏡無しのオフモードな師匠が、いつものように織音の背後にスタンバイする。
「ほな、今日はくるりんぱアレンジな」
「出た。くるりんぱ」
「簡単で見栄えするし応用も効くし。もし今後髪短くしたとしても使えるから、しっかり覚え」
「はい。お願いします先生!」
いつもどおり、ひと言「触るで」と断りを入れてから、樹生の指が織音に触れてくる。ゴムで髪を結び、そのゴムを少し下げて緩める。緩めたところに指で割れ目を作って、結んだ毛束を文字通りくるりんぱと通す。
「え、そんだけ!?」
「そんだけ。ただし、いかにして
通した毛先をふたつに分けて、左右に引っ張る。こうすると、緩んでいたゴムがしっかり締まる。今度はくるりんとした根っこ辺りの髪を少しずつ摘んで引き出す。バランスを見つつ、きちっと結ばれていた髪に遊びを作っていく。
「おしゃれになってきたぞ!?」
「この崩し具合が重要。これはもう慣れるしかないから、とにかく数こなしぃ。しくじったら結ぶとこからリセット。ほい、一回やってみ」
樹生は織音の髪をほどいて、櫛とヘアゴムを座卓に置く。織音は早速髪を全部ひとまとめにしようと集めた。
「少なめのハーフアップから。ほんで、鏡で見やすいようにサイド寄せで結んで試しぃ。こないだやったやろ」
言われるままに方針を変え、耳上ぐらいまでの髪をまとめて結ぶ。大丈夫と判断したのか、樹生はキッチンに移動して電気ケトルでお湯を沸かし始めた。
「樹生ー、今日は何食べたい?」
「リクエストしてええん?」
「あとで買い物行こうと思って」
「ほな梅じゃこ飯と煮込みハンバーグ」
「あ、良いじゃん。きのこ入れよ……お、ぉぉ、グシャってなった。なんでぇ?」
余裕ぶって喋りながらくるりんぱを崩していたら、全体のシルエットが乱れてしまった。
くっくと笑った樹生が「やり直しー」と指令を飛ばしてくる。ぶぅと口を尖らせて、織音はゴムを解いた。
「思ったより難しいのだがぁ」
「慣れ慣れ。何回かやってみ」
「はーい」
「ほんで、カフェオレ飲む?」
「いーるー!」
樹生の淹れるカフェオレがいちばん美味しい。専門店のこだわりコーヒー豆だとか、淹れ方がどうとかではない。安売りのインスタントコーヒーに、温めた牛乳と砂糖を入れるだけ。ただ、ちょうど織音の欲しい甘さになっている。逆に、樹生が甘さ控えめ、かつ濃いめに淹れたココアを好むことを織音は知っている。
カフェオレが届くまでに二回解いてやり直し、ようやく完成させて鏡を見る。最初に記憶した樹生のお手本に比べると、どうもパッとしない仕上がりだ。
「なんかちがーう」
座卓にマグカップをふたつ並べた樹生が、織音の髪を三ヶ所ほど引っ張った。たったそれだけで、しおれた花が水を得たようになるから不思議だ。
「悔しい……」
「そない軽々超えられたら、オレの唯一の特技が霞むやん」
そんなことを言うが、樹生には特技しかない。学業面でも器用さでも、最近は料理の腕すら危うい気がしている。
「出来過ぎ魔神め」
「なんやその物騒な二つ名は」
「ハンバーグだって樹生が作るほうが美味しいんだー!」
「それはない。こと料理に関しては織音のが強い。長年詩穂さんに仕込まれてるだけあって勝てん」
はっきり言い切られると悪い気はしない。織音はひひっと笑って、カフェオレのマグを手元に寄せた。口をつけると、文句無しに織音好みな甘さが舌をなでる。
「あ、せや。織音、来週日曜」
「
「その日、織音が十一時で、終わり次第オレな」
「おっけぃ。ゆいことあかりんと『ねこだまり』でご飯食べるんだぁ」
「花があってよろしいなぁ。こっちはこざと野郎ふたりでパフェ食ぅたんねん」
「それはそれでアツいな!?」
「やし、五時に向瀬駅前でええ?」
「ええよぅ」
織音が関西弁混じりの言葉を使うと、樹生は決まって「下手くそ」と笑う。気を付けていても西の風は影響力が強く、織音はどんどん樹生に染まってしまう。織音の言葉はかけらも伝染らないのが悔しい。
ふと、『さーやちゃん』と樹生の会話を想像してみたら、ふたりともハイペースでぽんぽんボールを投げ合っていた。想像だけで笑ったら、樹生が不思議そうに首をかしげた。
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