第61話 メイドアレンジ完全攻略

 高校三年、四月。

 最終学年に上がったら、トラウマ克服に精を出している場合ではなくなった。


 高校最終学年は受験生の異名を持つことが多い。これまで散々なテストを積み上げてきた織音には、大学など夢のまた夢に思える。母ひとり子ひとりの三原家で、予備校に通わせてくれとは言いづらい。だいたい、予備校に通ったぐらいでどうにかなるような頭でもない。


 いつものように三原家の玄関に座って、織音は先々の不安を愚痴る。春になっても、なんだかんだで訓練場所は公園に戻らなかった。


「大学行く分には行けるんだって。私立四年でも学費はなんとかするからねって。おかーさんの彼氏さんも応援してくれててさ」


 織音の高校卒業にあわせて再婚をという話がほとんど固まっている。何度か顔を合わせたが、朗らかで良い人だった。詩穂に新生活を気兼ねなく送ってもらうために、織音としてはどうにか家を出たいのだ。


「そもそも、とりあえず三月までって話だったじゃん? だし、ちょっと訓練も休もっかなって思ってて……ほんとに進路やばいんだよ」

「オレ、見たろか?」

「へ?」

「勉強。詩穂さんが家にるとき限定やけど、織音のヘルプぐらいできるで」

「……神?」

「もっと褒めてええよ」


 持つべきものは全国模試順位二桁の友人である。

 そんなわけで、樹生を家庭教師として雇うことになった。彼は無欲の極みのようなところがあって、報酬に要求したのは、詩穂から料理の手ほどきを受けることだった。家庭教師初日の礼に詩穂が夕飯をふるまい、その味に感銘をうけたとかなんとか。


 聞けば、樹生は家庭料理に飢えているらしい。


「うち、離婚家庭やねん。親父は料理せんし、兄貴は近場とはいえ独り暮らしやし、姉貴は暇なとき作ってくれるけど、まぁだいたい総菜か自力で適当に? なもんで、詩穂さんの肉じゃがに心のふるさとを感じた。極めたい」


 よくわからない主張をもって、詩穂の味を会得すべく三原家の台所に立つ。詩穂は詩穂で、褒めちぎられてまんざらでもない。

 母と同級生がキッチンでジャガイモの皮をむいている。そんな光景をちらちらと眺めつつ、織音は座卓で、樹生から渡された問題集に挑む。できれば自分も今すぐ包丁に持ち替えたいものである。


「樹生くん、いい夫になりそうねぇ」

「どうでしょうねー。意外と家庭におさまったら新聞片手にふんぞり返っとるだけかもしれませんし」

「なさそうだわぁ」


 面白い会話をしているなぁと思いながら、織音は参考書片手に頭から煙を吹かす。肉じゃがの調味料配分なら簡単に受け留められるのに。英文法様からのご提案となると、織音の脳は鋼のバットでカキンと跳ね返してしまう。


「たっつー……ここ全然わからぁん」

「ちょい待ち。玉ねぎむいてから行く」

「あーい」


 こんなものが、高校三年の織音の週末である。




 秋になり、ようやく俊也のカット施術を三十分耐えられるようになった頃、高校最後の文化祭がやってきた。


 文化祭二日目、一般客来校日。

 十二時半。

 前日丸々フリーだった織音はメイド服に着替えて多目的室を出た。本日は午後いっぱい接客担当だ。髪は後ろできゅっとひとつに縛り、七組の教室に向かう。


 すると、廊下でばったり樹生に出会った。


「おお、メイドさんやんけ」

「ふふん。可愛かろう」

「……六十点やな」

「厳しっ!」


 樹生は織音をしげしげと眺め、八組九組お化け屋敷の控室に入って行った。かと思えば、すぐに顔を出して織音を手招く。そして、控室前に【使用中】の段ボール立札を置いた。


「なになに?」

「せっかくやん。試してみよ」


 織音が控室に入ると、樹生は適当な椅子を勧めてきた。次いで、鞄をロッカーの上から引っ張って、常備している櫛やらピンやらを別の椅子の座面に乗せる。


「もうちょい色々持ってきとったら良かったな」

「アレンジしてくれんの?」

「百点満点のメイド作ったろ思て。いつもより手ぇ込んだことするし、ギブんなったら言うて」

「お、ちょっとどきどきする」


 かれこれ一年。織音の体はすっかり樹生の手に慣れた。編み込みぐらいは難なく耐えられる。樹生の指先はいつも少し冷えていて、それが気持ちいいとまで思う。素晴らしい成長ぶりだ。


「そういえば、さーやちゃん呼んだりしなかったの?」

「わざわざ普通の高校の文化祭にかぁ? 私立ぐらい盛大ならまだしも」

「無理か。一回会ってみたかったなぁ」


 織音がそんな話を振ったら、樹生は無言になってアレンジに没頭しだした。彼女の話になるとなかなか口が重い。あまり惚気のろけ話はしてくれないタイプだ。


「たっつ。恋って素敵ですかぁ」

「まぁ、悪いもんやないですねぇ」

「そかー。羨ましいこと」

「ええことばっかりでも、ないですけどね……」


 樹生が織音の前に回り込む。サイドの髪を摘んだり、頬にかかる髪を調整したりとずいぶん念入りだ。


「こだわるじゃん」

「アレンジは顔周りとこなれ感が命。可愛げが天と地ほどもちゃうねん。覚えといて」

「受験終わったら本格的に教えてもらわないとなぁ」

「まず、大学受かりぃや」

「ほんとそれ。どっか引っかかれ」


 冷たい指先がときどき頬をかすめながら仕上げていく。こんな風に真正面から向き合ってアレンジをされるのは初めてだ。


 今までなら、触れられている髪にばかり気が向いていた。今の織音には、目の前の樹生をしげしげと眺めるだけの余裕がある。明るい髪も、ピアス穴も。垂れ気味な目尻も、意外と長いまつ毛の奥にある瞳も。


「あれ……? 色薄い……と、いうか」


 よく見れば、虹彩がなんとも区分しがたい色をしている。中心に近いほど茶色、周りにいくほど緑がかって見える不思議な色だ。


 織音が言い澱んだら、樹生がニッと口端を押し上げた。


「オレは茶色やろて思うんやけどなぁ。姉貴いわく、ヘーゼル? 父親のほうにどっか混じっとんねんて。ややっこしぃから眼鏡で周りの注意逸らしとる」

「なるほど? いや、でもさぁ。一年気付かないとか、あたしもどうなの」


 指でフレームを作って上体をぐっと退き、樹生の顔全体を収めてみた。そうしてみたら確かに真っ先に眼鏡に視線を奪われて、瞳までは注意を向けない気がする。


 少し遠巻きにそうやって楽しんでいたら、樹生がふいに笑みを消した。


「見せてくれ、て。言わんの?」

「え? 見てるじゃん、今」

「いや。裸眼」

「あんまりじろじろ見られたくないから眼鏡かけてんじゃないの?」


 おかしなことを訊くものだと笑ったら、どうしてか樹生は眼鏡を外した。


「どぉぞ。文化祭特別サービス。言うて、度無し眼鏡やからそない変わらんけどな」

「おぉ!? 何さぁ、ちょっと楽しくなっちゃうじゃん!」


 樹生が中腰をやめて織音の前でしゃがんだ。少し低い位置からこちらを見上げてくるヘーゼルなる瞳を、じっくりと観察する。


「わぉ……綺っ麗だねぇ」

「そぉかぁ?」

「うん。なんかこう、大自然を感じる。森」


 途端、樹生の眉がハの字に下がって、ぷはっと吹き出す。何がツボに入ったのかしばらく笑ってから、ふたたび眼鏡をかけて立ち上がった。


 サービスタイムは終わりかと彼を見上げて、もうひとつ気づく。


「あれ!? じゃあもしかして頭も?」

「地毛。学校に証明出しとる。せやなかったら、さすがに指導食らうレベルやろ」

「ひぇ、一年経って知る衝撃第二弾」


 樹生は織音の反応を愉快げに眺めつつ、壁際にあったキャスター付きの姿見を引っ張ってきた。鞄から出した大きめの鏡を手に、織音の背後に立つ。


「おら。百点満点のメイドいぅたら、こうやろ!」

「うお! なにこれぇ!」


 合わせ鏡はやや見づらいが、お団子に三つ編みがぐるんと一周巻き付いている。サイドにも編み込みが施された、クラシカルな印象のヘアアレンジが完成していた。


「欲を言えばリボン欲しかった。巻いたら百二十点出せた」

「やー、すごいじゃん。ていうか、このアレンジ耐えられるようになったあたしもすごい」


 ついでに、嬉しい。

 樹生がアレンジを『他人に誇れる特技』と言ったのが、今になってよくよく理解できる。これはもっと誇っていいものだし、披露したくなるのもうなずける。


 織音は立ち上がって、姿見の前でくるくると回った。


「樹生、樹生!」

「ほん?」

「ありがと! あたし、可愛くなった!」


 自分で自分を褒めてしまうと、一瞬、樹生が動きを止めた。それから、いつもの困ったような柔らかい笑みを浮かべてうなずく。


「そろそろ、オレと訓練する必要ないかもしれんな。報酬も今もらいましたし?」

「ぁ……そ、っか」


 とうとう言われてしまったなと、織音は目を伏せた。樹生と毎日顔を合わせる最大の理由がなくなってしまう。


「けど……たっつは、あたしの友だちじゃんね?」

「せやで? どうしたん、急に」

「いや、ちょっと寂しくなった」


 包み隠さず寂しいと言ったら、樹生はからっからと笑う。


「何センチメンタルんなっとんの。家庭教師続けるし、触る触らんがなくなるだけのことやて。あと、気が向いたとき髪で遊ばせてくれたりすると、オレとしては大歓迎」

「そか。うん。それならいいっす」


 織音がひひっと笑って見せたら、樹生の手が織音のひたいにぺちっと当たった。


「大丈夫やで。訓練が終わったら他人です、みたいなことにはならんよ?」

「あんがと」

「意外と寂しんぼよなぁ。織音は」


 冷たい指先が織音の眉間を軽く押して離れる。姿見を壁際に運んでいく樹生の背中に、織音はふと声をかけた。


「さーやちゃんて……どんな子?」


 どうして訊きたくなったのかわからない。ほとんど無意識に自分の口が動いた。樹生はこちらに背を向けたまま「そうやなぁ」と応じた。


「ちょい意地っ張りで、あんまり器用やないけど。頑張り屋さんやな。警戒心強ぉてなんでも怒りに変えて発散するとこが可愛らしぃよ」

「ぬあ、めっちゃ好きなんじゃん。樹生のくせに」

「せやろ。出会えただけで、オレ幸せ」

「うわぁ! なんかすんごい腹立つ。惚気のろけんな!」

「織音が訊いたんやろが」


 くっくっと喉奥に含めた笑い方をして、樹生はこちらを向いた。戻ってきて、織音の頬にかかった髪をすくい、耳に掛けた。ピン一本を追加で挿して仕上がりを調整する。


「織音ちゃんもええ子やから。焦らんでも、ええ彼氏見つかるて」

「……ぁい」


 訓練が終わると思った途端に湧いた不安を、あっさり見透かされた。ばつが悪くて、口をへの字に曲げてうなずく。初めての男友だちは、織音の内面にやたらと鋭い。

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