第50話 それが、彼の恋だった
高校二年の春。
柊吾の部屋のドアは、遠慮がちなノックを挟んでから開くようになった。
「じゃん! どう!」
朱莉は東第二中学の紺色ブレザーを着て部屋に遊びにきた。
「おー! 朱莉もお姉さんになったじゃないですか!」
「そうでしょう」
くるりと回るとプリーツスカートが広がる。柊吾にとっては見慣れた制服だが、朱莉が着ると格段に可愛く見える。兄の贔屓目とは恐ろしい。
ちょいちょいと手招きして、あご下で揺れる毛先を指一本でなでた。
「切ったんだ。よく似合うね」
朱莉は頬にほんのり朱を刷いて、こくんとうなずいた。
二次元女子にハマりすぎた残念な自分でも、朱莉の一挙一動はちゃんと可愛い。弟妹というのはやっぱり特別なんだとしみじみ思う。悠の学ランさえ可愛いく見えるから、精神安定には良き弟妹が必要だ。
中学に入ったら朱莉の世界はぐんと広くなったのに、休日にはいつも柊吾の部屋にいる。朱莉は必ず先に柊吾の話を聞きたがるから、他愛ない話をあれやこれやと披露する。
同級生との会話で散々つまずいたから、今ならよくわかる。朱莉と話すと、聞いてくれているという安心感があるのだ。受け渡したものをきちんと両手で包むような間が。言葉が途切れたときにすっと入ってくる相づちが。柊吾の発したものをどんどん膨らまそうとしてくれる、返事のひとつひとつが。言葉に傷つけられ声と向き合い続けた彼女は、人の声も言葉も大事にしてくれる。
ひとしきり柊吾が話し終えたら、朱莉は自分の話をする。今週がどんなだったかを語る彼女のアナウンサーじみた声は、柊吾が時間をかけて一緒に育てた。誇らしい一方で、大人になっていく妹の声が少し寂しい。
たまたまテレビをつけたら、CMの見知らぬ企業マスコットが朱莉の地声で喋っていた。もしやと調べたらやっぱり千崎 乃愛だ。声オタク気質は高校二年目になっても健在で困る。自分は一生こうなのだろう。
そんな柊吾だからつい、朱莉に言ってしまった。
「家でぐらい、地声で良いんだよ」
朱莉が自身の声をどれだけ嫌って封じてきたか知っていたのに。自分が推しの声を聞きたいがための、思いやりの皮をかぶったわがままだ。
朱莉は大人びた顔を小学生に戻して破顔した。
「しょうがないなぁ、柊ちゃんは。じゃあ、わたしの乃愛ちゃんボイスは柊ちゃんにあげるよ」
地声で、ころっころと笑いながら。柊吾のわがままなんてお見通しだという目をして。
柊吾の前でだけ、彼女の隠した地声が響く。外どころか自宅でさえ大人びた声で話す彼女の本物を、自分だけが聞く。なかなかに贅沢なおねだりが叶ってしまった。兄万歳である。
柊吾が受験生になってしばらくして、悠の表情が翳るようになった。とてつもないモテ期に突入しているとは聞いていたものの、まさかそれが悪いほうに転がり始めているとは思わなかった。
朱莉のときのような大砲を撃つことはできない。中学生が加熱しやすい難しい年頃だということは、通過してきた柊吾にもわかる。柊吾自身、正義を振りかざす自分に酔った苦い記憶があるからだ。
柊吾が問えば問うほど、悠は頑なになった。卒業生という立場で中学を訪ねてみたり。忙しい両親に何度も声をかけてみたり。我こそはと立ち上がる朱莉を止めるのも大変で、自分は自分で受験で手一杯。
満足に悠のことを考えてやれたとは言えない。立派な兄を目指したのに不甲斐ない。
冬になって、朱莉は家に来なくなった。
「俺のせいで朱莉に迷惑がかかるかもしれないから。もう、うちには来ないでって言っといた」
ぽそぽそとした悠の説明に「そっか」とだけ返した。朱莉のいない部屋は片隅にぽこりと穴が開いたみたいで、いよいよ妹離れの時期が来たかと苦笑した。まだ解けきらない初恋を抱えている朱莉のほうがよほど寂しいだろうと、彼女のLINeアカウントを選んで通話ボタンを押した。
「悠から聞いた。大丈夫?」
【わたしは平気。悠のほうが全然大丈夫じゃないと思う。わたし、何もしてあげられなくて】
「いいんだよ。朱莉は自分を守ることだけ考えて」
【……柊ちゃんは、大丈夫?】
「え?」
【出せない気持ちが、積もってしまってない?】
そのあと、電話口で自分の不安を吐露してしまったのをかすかに覚えている。四歳下の妹に寄りかかってしまった自分が情けなくて、詳細は記憶から抹消した。
スマホの音声は肉声ではなく、デジタル合成されたものだと聞いたことがある。朱莉の声に近しいけれどどことなく違う合成音を毎日のように聞きながら、寂しいものだとあらためて思った。彼女は妹で、でも妹じゃないから。こういうことがきっかけで少しずつ距離が空いていくのだ。
本当に妹だったら、彼女はこの家に帰ってくるのに。積もる不安が大きくなるにつれ、柊吾はそんな馬鹿げた夢を浮かべるようになった。
笑顔の消えた悠に何もしてやれない兄ながら、せめて家の灯りを消すことだけはないように。
志望校はレベルを下げて、遠方の国立ではなく地元の私立大を選ぶ。相変わらず忙しさを理由に悠の話ひとつ聞いてやろうとしない両親に、学費ぐらいは出せという文句も兼ねて。
大学に行く傍ら、余裕のある日には中学を訪ねる。大学生になったことで制服時代より中学側も聞く耳を持ってくれたようだが、悠の状況が目覚ましく好転することはなかった。
中学三年になった朱莉が登校するのを、たまに窓からのぞいてみる。いつの間にかまた少し、大人の顔をするようになった。
ある時ふいに朱莉がこちらを見上げたから、急いで窓を開けてみた。朱莉がふわりと頬を緩めるのが二階からでもよく見えた。
新しい環境での日々は忙しくて、あっという間に時間が流れていく。このまま何も変えられずに一年を終えるかと思ったら、悠に奇跡みたいな出会いが降ってきた。
「柊! 俺、向瀬受けたい! 何したらいい!?」
「え……ぃ、今からか! 大丈夫、間に合う。持ってな。とりあえず塾! 今夜は母さん捕まえよう!」
無謀とも思える挑戦は、悠をまた春にした。
やっとトンネルを抜けたことにほっとして、柊吾は受験前以来すっかりご無沙汰だった深夜アニメに手を伸ばす。もちろん、視聴はキャストで決める。
動画配信サイトに飛んで、ヘッドホンを装着する。
千崎 乃愛がメインキャラのアイドルものがあると聞いていたので、早速そのあたりから。
一年半も間を空けたら、デジタル映像技術が飛躍していた。オープニング映像にたっぷり圧倒されたあと、乃愛が演じるキャラクターの第一声を待つ。
そして、柊吾はおのれの耳を疑った。
慌ててネット検索をかけて、キャスト一覧を呼び出す。演じているのは間違いなく千崎 乃愛だ。
この一年半の間に、柊吾の最推しに異変が起きている。
演技づけのためかと思ったが、他の作品を視てもやはりその印象は変わらない。愛らしさはあれど、ちょっとしたクセや伸び感が、以前の乃愛と違う。
急病、不調、声変わったなど、思いつく検索ワードを打ち込むがヒットしない。SNSの発言すら引っかからない。乃愛の声がこんなに変調していることに、世の中が気づいていないのだ。全国の乃愛ファンたちはいったい何をやっているのだと、拳をふるふると震わせた。
物は試しにと、『誰が為の異世界開拓期』の配信一覧を開いてみる。もちろん選ぶのは殿堂入りの第十九話。後半パートまでざっくりと再生カーソルを動かして、あのセリフを待つ。
『わたくしには、おにいさまより欲しいものなど、ないのです……』
その瞬間、ガチンと鍵が嵌まったような感覚に襲われた。
呆然として画面を見つめていたら、隣家の窓が開く音が聞こえてくる。慌てて窓を開けたら、ちょうど朱莉がこちらを見ていた。
「あ、わ……いると思わなかった。こんにちは」
「朱莉……」
「……どうしたの、柊ちゃん。変な顔して」
「なんか、喋って」
「なんかって何?」
「なんでもいいから。何か」
朱莉はぷひゃっと吹き出した。大人びた顔を一瞬で幼くして、少し口元を隠しながら。そんな仕草に成長がにじむ。
「乃愛ちゃん不足なんでしょ。もぅ、しょうがないなぁ柊ちゃんは」
地声の朱莉が、受験勉強は大変だねなんて話をする。なんでもいいと柊吾が言ったから。本当になんでもない、今日という日がどんなだったかをその声で語る。
「――って、わたし、どこまで喋ればいいの?」
「うん……大丈夫。足りた」
「ほんとに? じゃあ次は柊ちゃん」
「え?」
「柊ちゃんも何か喋って」
「や、俺は……今日は大丈夫」
「そっか。でも柊ちゃんの心に積もってしまったら、また聞かせてね」
手を振った朱莉が窓を閉める。柊吾も窓を閉めて、そのままカーテンを握る手を滑らせながらしゃがみこんだ。
誰が見ているわけでもないのに、片手で口元を覆い隠す。顔面がひどく熱い。今自分がどんな顔をしているかぐらい、鏡がなくともわかる。
変わったのは千崎 乃愛じゃない。自分だ。
――いつから?
乃愛の声に似ているから、朱莉の声をねだったんじゃない。
朱莉の声に似ているから、乃愛を追いかけている。
自分にだけ許された、愛らしく高く甘やかなあの声を。大人びた朱莉の中に隠してある本物を。
――こんなの、もう。
幼い頃、年上のお姉さんが欲しかった。自分を理解してくれて、他愛ない話も聞いてくれて甘やかしてくれる、そんな人が欲しかった。
誰もいない家は静かなのに、秒針ひとつが冷たくうるさくて。
仁科家は異世界で。誰かのたてる音はうるさいのに優しくて、そんな中にはいつも朱莉がいる。
その朱莉は、話し下手な柊吾の話をじっと聞いて目を輝かせる。柊吾の大事なものを同じように大事にしてくれる。内に積もった誰にも渡せないものを、聞かせて欲しいと、いつの間にかとなりにいて笑っている。
悠のような、降ってきた奇跡みたいなものじゃなくて。
ずっと、静かに静かに、自分の中に積もっていって。これ以上入らないほどに積もって溢れた。
それが、古澤 柊吾の恋だった。
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