第49話 彼と小さな妹の話

 * * *


 弟の頑張りをねぎらうために買ってきたケーキを冷蔵庫に入れて、できる限り音を立てずドアを閉める。


 悠はいよいよ受験が迫り、毎日遅くまで予備校に通い詰めている。母はこれ幸いと残業に励み、このところ、柊吾が帰るといつも家は静かだ。


 そんな家では、板張りの軋みが耳につく。自分の呼吸や喉の上下動。時計の秒針。窓のかたつき、ささやかなはずの家鳴り。そういうものがやたらに拡張される。


 ひとりだとわかるこの音の群れは好きじゃない。


 自室に入ってぼんやりしていたら、スマホに朱莉の父、義之からのLINEメッセージが飛んできた。


 内容を確かめるなり、ふっと口角が上がった。


 ジロジロアルマジロのスリーピーススーツを今夜こそ仕立てたい、とのこと。相変わらずマイクロに苦戦しているらしい。


 窓から様子を見ると、仁科家のリビングの灯りが見える。


 鳴りっぱなしのテレビに、ゲームの電子音と混ざる人の声。土鍋を囲んでの談笑、たこ焼きを回すのに失敗した叫び。リビングのラグに転がって聞く、誰かの柔らかな寝息。


 隣家に溢れるそういうものが、柊吾の好きな音だ。



 * * *



 柊吾の両親は、昔からワーカーホリックな傾向にあった。海外出張や短期赴任が多い父と、深夜におよぶ残業が常態化した母。おかげで金銭面で何かを我慢した経験はない。関わる時間が少ないなりに、ちゃんとした人間に育ててくれたとも思っている。

 ただ、テレビで流れてくるような家族団らんの光景は稀で、そこには祖母しかいなかった。

 

 そんな両親が一戸建てを買うというから、たいそう驚いた。

 箱だけ用意してどうするのかと。


 もっと家にいてやれというのが口癖の祖母が煩わしかったようで、新しい家は祖父母が頻繁には来られない場所になった。これからは自分が悠をみてやらないとと、中学に上がる柊吾は気負った。


 新しい家には、他の物件にはないオプションがついていた。絵に描いたような家族団らんである。

 創作物の世界にしかないと思っていた光景を古澤兄弟に見せたのは、隣家――仁科家だった。




 柊吾は姉が欲しかった。自分を理解してくれて、他愛ない話も聞いてくれて甘やかしてくれる、うんと年上のお姉さん。当時ハマっていたラブコメアニメに出てくる『隣家の姉』がそんな感じだった。


 新たな隣家には、弟と同い年の女の子しかいない。転居に少しばかりの夢を抱いたから、そんな事前情報にがっかりした。現実は上手くいかない。


 けれどその女の子が、『隣家の姉』と同じ声で喋りだしたりするものだから、脳は重大なバグを起こした。相手は小学三年生。けれど目を閉じれば憧れの『隣家の姉』。窓から落っこちそうにもなるというもの。


 とはいえ、現実と創作の切り分けはきっちりつける主義なので、隣家に謝罪に行く頃には冷静さを取り戻していた。


 自分の声はおかしくないのかと、不安げに柊吾の袖を掴む女の子はひな鳥みたいで。弟も可愛いが、妹も悪くないものだ。会う前から一方的にがっかりして申し訳なかったと思った。



 悠が学童保育に馴染めなくなり、そこに救いの手を差し伸べてくれたのは仁科家の母、友恵だった。いかに発端が朱莉のことで、夕食の金銭面のこともしっかり話をつけているとはいえ、祖母を突っぱねておいてあっさり他人の善意に甘える自分の母に呆れた。それでいて、柊吾もその善意にずぶずぶと甘えた。


 家事を手伝おうとして手を止められたのは初めてだったのだ。


「柊くん、宿題は?」

「ありますけど、たいした量じゃないので」

「でも先にやらなきゃ。そっちが柊くんのお仕事。テーブル使っていいから片付けちゃって」


 仁科家は異世界だ。

 兄である柊吾が、自分を優先しても許される。


 ホットプレートもたこ焼き器も土鍋も、クリスマスツリーもパーティゲームもある。

 煎餅は湿気る前に食べ尽くせるし、大きいサイズの炭酸飲料は、気が抜けきる前に空にできる。


 そんな異世界に、いつも朱莉はいた。


 善意に甘えるのだから、朱莉に優しくするのは当然の義務だと思っていた。素直な朱莉は悠と同じく可愛かったし、主張が少ないから面倒を見るのも楽だ。おまけに千崎 乃愛ボイスというご褒美までついてくる。


 柊吾の与えるものに何でもハマり、気がつけば柊吾の部屋の片隅でじっと座って小説を読んでいる。朱莉をとおして知ったのは布教の喜びである。推し活は尊い。


「朱莉ちゃん、楽しい?」


 ふと尋ねてみた。朱莉は目をぱちりと瞬いて、小説で口元を隠しながら目尻を柔らかく下げた。


「うん」


 破顔一笑とはこういうものだったかと、ひととき目を奪われてしまった。


「そっか」


 学校でも彼女がこんな笑顔でいられたらどんなにいいか。これが妹萌えというジャンルかと、その奥深さに感銘を受けた。



 布教は楽しい。素人知識を振りかざすボイトレも楽しい。隣家の少女は、柊吾の趣味の貴重な理解者だった。だから当たり前のように、彼女は柊吾の守るべきものになった。



 朱莉のランドセル事件のときは、いわゆる中二病に罹患していた頃で。理論武装している自分がかっこいいとか、大人が守らなかった朱莉を自分が守ってやったのだという優越感で満たされた。


 そして、友恵に懇々と諭された。


「正論を凶器にしては駄目なの。心の傷は見えない分だけ厄介だし、良かれとやったつもりで余計にこじれてしまうこともあるからね」

「……はい、ごめんなさい」

「だけどやっぱり、ありがとう。私たちがやらなきゃいけないことを代わりに柊くんにさせてしまって、ごめんね」


 大人は朱莉を放っておいたわけじゃない。まして仁科家の両親が、平気で朱莉の現状を放置していたはずがないのに。


 大砲を外野から撃ち込むだけなら誰だってできる。そのあと反撃が来るとしたら、それはみんな朱莉の上に降ってくる。今回は運が良かっただけだ。


 やってやったなどと、思い上がっていた自分が恥ずかしくなった。羞恥に耐えかねてふて寝に逃げていたら、朱莉がこそこそと部屋に入ってきた。


「わたくしには……おにいさまより欲しいものなど、ないのです……」


 自分の欲望で大砲を撃ち、妹分の初恋ハンターになってしまった。狩りたいのはいじめっ子だったのに、柊吾の照準はポンコツだった。


 だったらせめて、朱莉の初恋にふさわしい立派な兄になってやらないと。そうして柊吾は『良き兄』とは何なのかを常々考えるようになった。




 向瀬高校に入学してすぐ、柊吾の元に、やんわりとしたモテ期が到来した。お付き合いなどということもやってみようとした。

 結果、誰も自分の好きなものに興味を持ってくれないことに気づいてしまう。


「古澤くん、何読んでるの」


 そう言われて本の表紙を見せる。


「ふーん……あ、ところでさ――」


 ここで柊吾は引っかかる。柊吾が手にしているライトノベルがイメージを損ねたのか、話の取っ掛かりになれば本の内容はどうでも良かったのか。柊吾は尋ねられたからにはこの本を掘り下げる気満々なのだが、相手はそうでもない。


 三次元の女性は、どうやらスイーツや可愛い文具やドラマに音楽なんかの話がしたくて、それはそれで興味深く聞き入った。けれど、こちらのしたい話はどうしてもつまらないらしい。


 話はすぐにブツ切れになって、気まずく散っていく。


「なんか、思ったのと違うね」

「古澤くんてもっと知的なのかと思った」


 高校でもやっぱり柊吾は残念なイケメンになった。


 夕方の自室で、シャーペンをくるっくると回しながら頭を抱える。


「女子……難しい」

「柊ちゃん、お悩み?」

「んー。俺、話し下手べたなのかなぁと思って」

「そんなことないよ!?」


 朱莉は驚いた顔で、手にしていた本をそっと座卓に置いてから、机のそばに寄ってきた。朱莉は人の大事なものをとても優しく扱う。読みかけのページを開いたまま本を伏せるところなど見たことがない。


「なんかね。俺が話すとみんなつまんなさそうなんだよ」

「どんなふう?」


 小学生にこんな相談をするのもどうかと思いながら、いくつか実例を挙げてみた。朱莉はふんふんとうなずいたあと、にこりと笑った。


「みんな、速いんだね。柊ちゃんはゆっくりだから」

「……朱莉、もうちょっと詳しく」

「なんていうか、柊ちゃんは話す前にちょっと溜めるでしょ? 言葉を選ぶ? あ、推敲!」

「あー。なんかわかったぞ。文章練ってから出すから遅いのか」

「そう。でも、みんなは浮かんだままをどんどん出すから、柊ちゃんが話す前に話題が変わっちゃうんじゃないかな」


 床に座り込んで手振りをつけながら話す朱莉に吸い寄せられた。椅子から離れ、その椅子を壁に追いやって柊吾も床に座る。小学六年生になった妹を、ひょっとしてこの子は天才なのではと兄馬鹿脳で見つめた。


「でもさ。朱莉は? 俺、朱莉とは話せてるよね?」

「柊ちゃんや悠のことなら、少しはわかるから。考えてるなら待つし、止まってたら、わたしがもう少し話すし。今じゃないんだなって思ったらまた今度」


 うんうんと自己確認みたいなうなずきのあと、朱莉はぐっと拳を握った。


「だから、なんでも思ったことをすぐ口にしてみたらいいのかも。やってみよっか!」

「今から、ここで?」

「うん。わたしの声にしてくれてるみたいに、練習。それに柊ちゃん、学校では聞く人してるんでしょう? きっと話したいことがたくさん心に積もってると思うから。なんでも聞くよ」


 どうぞと両手のひらを見せられて、さっそくその気になった。せっかくなら、学校でできなかった愛読書語りでもと思ったのに、口をついてでたのは全く別の話だった。


「今日、さ。英語の授業中に――」


 朱莉にする話としては下も下。小学生にはまったく面白みのない話題だ。けれど、朱莉はずっと興味深そうな顔で話しを聞いてくれて、柊吾は一時間もなんてことのない自分の一日を語った。


 結果から言えば、やっぱり柊吾は話し下手で、朱莉はとことん聞き上手だった。一年が終わる頃にはもうすっかり諦めて、ペースの合う友人が数人いればそれでいいと開き直るに至った。


 学校で無理して誰かと語らずとも、家に帰れば最強の妹が自分の話を聞いてくれるから。持つべきものは彼女じゃない。妹だ。

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