第51話 正しさを選んだ夜

 大学一年、十一月二十一日。

 夜、朱莉がおよそ一年ぶりに柊吾の部屋に来た。


「あれ? 特大リリーティアがいない」

「まー、さすがに柊吾くんも大学生ですし。等身大ポスターはそろそろね」

「そうなの……大人になってしまったね。もう乃愛ちゃんからも……は、さすがにないか、柊ちゃんだもん」


 とっくに卒業していたらしく、とは言えず。曖昧に笑って流す。


「大学って忙しい? 蔵書があまり増えてないみたい」

「悠のことがあったから、活字からはちょっと離れてたね。息抜きに聞ける音楽方向が伸びた」

「アニメのタイアップばかりとみた」

「失礼な。音楽だけはけっこう幅広なんですよー、俺」


 起動しっぱなしのノートパソコンを開いて、朱莉を手招きする。音楽ファイルの詰まったフォルダをクリックし、ヘッドフォンを朱莉の耳に装着しようとした。


 耳に掛かる彼女の髪をよけようと、軽く手で触れた途端。


 世界が、何もかも切り替わった。


「柊ちゃん?」


 きょとんとした朱莉の表情に、すべての感覚を塗り替えられていく。


 いつもの妹扱いができない。

 彼女の頭の鉢辺りに添えた手を、するりと下ろしていく。こめかみから耳の後ろへ、髪を流して耳にかける。そのまま毛先まで手を沿わせた。肩近くでゴールにたどり着いてしまい、けれど、どうしても名残惜しい。人差し指一本で未練がましく毛先をピンと跳ね上げる。


 緊張と戸惑いと恥じらいと。そんなものを混ぜ合わせたような朱莉の頬を、指でつついて笑った。


 いくら精神年齢に男女差があるらしいとはいえ、あまりにも気づくのが遅い。先にここまでたどり着いていた朱莉に、今さら置いていかれたような気分を味わう。


「あんね、朱莉」

「うん?」

「俺、ね――」


 玄関が荒々しい音を立てて開いたのは、その時だった。





 救急診療受付前の小さなロビーに向かおうとしたら、自販機コーナーのほうからぽそぽそと話し声が聞こえてくる。近づいてみたら、両家の父親が難しい顔で話し込んでいた。


「そう、でしたか……」

「妻が言うには、朱莉のゴミ箱にも破り捨てたものがまだまだあったとかで。中学生というのを甘く見ていたなぁと、思い知らされましたね」


 病院へ向かう車内で、悠がたどたどしく、中学二年からの自分に起きたことを語った。その中で、朱莉にまで手紙がと、悠はそんなことをつぶやいていた。


「おじさん。俺も、見せてもらっていいですか」

「柊くん! 手は!」

「大丈夫です。それより、その手紙。朱莉に来たものですよね」

「いや……これは」

「見せてください」


 義之はずいぶんためらってから、柊吾に手紙を寄越した。


「いいかい。柊くんには、何の非もないからね。こちらもそう思っているから」


 そう念押しされてから、柊吾は手紙を開く。

 それは朱莉の声を罵るとともに、不純な行為で年上の男から金を受け取っていると言わんばかりの、到底口にできない言葉で埋め尽くされた手紙だった。


 ああ、自分のことかと。理解するのに少し時間がかかった。


 手紙を畳んで義之に返す。その流れで、柊吾は深く腰を折った。


「申し訳ありません。俺の配慮が足りませんでした」

「柊くん。本当に、僕らはきみに非があるなんてかけらも思っていないよ」


 義之が柊吾の肩を掴んで、体を起こすように促してくる。けれど、柊吾はどうしても顔を上げることができなかった。


 こんな形で。まさか自分が彼女を傷つけるための凶器として使われていようなど、想像すらしなかった。




 憔悴しきった悠が階段を上がっていく。母がその悠に付き添っていくのを見守りながら、腹の奥は焼けそうだった。どうしてもっと早く、母は弟に手を伸ばしてくれなかったのか。このままでは母に罵声を浴びせかけそうで、柊吾はリビングに退避した。


「柊吾。朱莉ちゃんと距離を取れ」


 入るなり、藪から棒に父の声が飛んできた。


「……なに?」

「朱莉ちゃんのために、おまえがちゃんとしなさい」

「何が朱莉のため? ちゃんとって何」


 自分の十九年で。

 記憶にある限りでは初めて、父に噛みついた。父は一瞬驚いた表情を見せたあと、首を振ってため息をついた。


「朱莉ちゃんの年で、憧れと恋の区別なんかつかない。そんな時期におまえが近くに居すぎると、正しく自分の気持ちを判断できなくなる」

「父さんに俺と朱莉の何がわかるの。どれだけ俺たちのこと見た?」


 今まで散々自分たちを放っておいて。なぜ今になって、何もかも理解しているような顔で父はここにいるのか。


「今さら父さんが俺に口出すの? 俺、何度も電話したよな。父さんにも母さんにも。悠の様子がおかしいんだって。学校にもっとちゃんと話聞いてくれって」

「それは申し訳なかったと思っている。先生がたから話を聞いた限りでは、この程度のことでここまでになるとは思わなかった」

「この程度じゃないんだよ! 大人から見たら些細なことかもしれなくても悠や朱莉には――」

「だからだ。柊吾」


 水をかけるみたいに、父が柊吾を遮る。


「思い知った。中学生がどれだけ難しいか。だから、朱莉ちゃんのために離れなさい。あの子らにとって、四歳の差は大きすぎる」

「年齢差が、何?」

「高校生と小学生。大学生と中学生。四歳差があると、どうしたって肩書がふたつ離れる。ましておまえは朱莉ちゃんを小学三年生から知っているんだ。大人になって出会う四歳差と違って、勝手な邪推を受けやすくなる。事実、朱莉ちゃんは今そんなものを周囲から受けている」


 直視するのも耐え難い手紙が脳裏をよぎる。父の述べる事実に、頭から体の先端まで冷え切っていく。


「朱莉ちゃんにはまだ、これから広がっていくたくさんの可能性がある。大事だと思うなら、おまえが手を離してやりなさい。彼女の可能性を摘み取るような真似はするな」


 口を開いて、けれど言い返すことができなかった。


 彼女の小学校三年から中学三年まで、柊吾は朱莉を独り占めしてきた。あまりにも、朱莉のそばに居すぎたから。




 上着を掴んで外に出たら、十一月の夜は冷たかった。

 LINEを送ったらすぐに、朱莉が仁科家の玄関から飛び出してきた。


 ――綺麗になった。


 六年前、震えるひな鳥みたいだと思った隣家の小さな女の子は、とうに巣立つときを過ぎていた。

 父の言うとおり、彼女にはまだ見ぬたくさんの可能性がある。認めるしかなかった。


 朱莉を突き放すような言葉をいくつもかけながら。不安げだった顔が強張っていくのを見つめながら。

 柊吾が思い出すのは、夕暮れの中で秘密を明かすように渡された五年生の朱莉の声だった。


 抱きしめたら、どうしたって自分より小さくて、彼女が成長の半ばなのだと嫌でも実感させられる。

 心底から弟をうらやましいと思った。たった四年あとに生まれただけで、悠は朱莉と同じに時間を刻んでいける。自分は違う。同じ校内で過ごすことも、通学路をともに歩くこともできない。


「朱莉ちゃん。俺、良いお兄ちゃんでしたでしょ」

「もちろん、ですとも。世界一のお兄ちゃんです」

「じゃぁ、ご褒美にアレください。十九話のリリーティア」


 びくりと震えた彼女の体を、せめて夜の冷気からだけでも守れるように深く包んで。彼女の初恋を正しく終わらせるために、柊吾はとっておきの声をねだる。


 朱莉にならわかる。これだけで柊吾の言わんとすることを理解する。そんな時間を、自分たちは一緒に積み重ねてきた。


「朱莉。お願い、聞かせて」

「……わたくしには……」


 酷な求めに、朱莉の声が震えて応えた。


「柊ちゃんより、欲しいものなど……ないのです」


 あのセリフに柊吾の名前をはめ込んで。朱莉の恋を渡された。


 ――俺だって、そうだよ。


 両腕に力をこめた。

 彼女の声を体の奥深く、誰にも触れられないところで、繰り返し、繰り返し反響させた。そこに、今日渡したかった想い全ても一緒に閉じ込めて、しっかりと鍵をかけた。



 これが正しい選択だと何度も自分に言い聞かせ。

 十一月二十一日が終わる前に、柊吾は朱莉から手を離した。

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