第52話 もうひとりの父と
* * *
二十二歳のクリスマスの夜を、こうやって過ごすことになるとは思わなかった。
ぴこぴこと電子音が響く、仁科家のリビングである。
今夜、朱莉は泊まりでクリスマスパーティーで、仁科家は夫婦水入らずのはずなのに。ジロジロアルマジロのスリーピーススーツを仕立てたい義之にどうしてもと呼ばれて、柊吾は仁科家を訪れている。
レトロ感溢れるドット絵の仕立て屋が、画面の中で倒れて魂を吐き出した。
「きたぁ! 丸まる金ボタン出た! これで最後かい!?」
「はい、素材集め完了です。あとは裁断の祭壇まで持って帰って、ゲーム内時間で二十日、仕立てコマンド繰り返したら完成します」
「やっとだよ! ありがとうねぇ柊くん」
義之が感無量と天井を仰ぐ横で、柊吾も達成感を抱きながらコントローラーを置いた。
ちらりとテーブルを見たら、いつの間にやらビールがスタンバイしている。それも缶でなく、瓶。
――あれ、飲まされる感じ?
なじみの仁科家なのに、少々落ち着かない。わざわざ朱莉がいない日に呼ばれた理由も想像がつく。
これが最後の訪問になるのだろうと、手のひらで懐かしのラグの感触を確かめた。
「柊くん。お酒好きかい?」
「まぁまぁ飲めるほうだと思います」
「じゃあちょっと付き合ってくれるかな」
いよいよかと、ラグを離れテーブルに移動する。
席につくなり、義之は柊吾のグラスにビールを注ぎ始めた。
「あ、俺が……」
「良いんだ。きみが二十歳になったら一緒に飲むのが夢でね。ずいぶん遅くなってしまったけど」
酌を交代して、乾杯とグラスを当てる。自分の父親とはこんな風に過ごしたことがないから、ビールの味に気恥ずかしさが混じる。
「柊くん。ひとつ、大事な話をしたいんだ」
そんな前置きをもらって、ふっと息をついた。柊吾は先に覚悟を決めて、テーブルにひたいをつく寸前まで頭を下げる。
「朱莉の気持ちを荒らすような真似をして、申し訳ありませんでした」
先月の都美との一件だけじゃない。本来距離を取るべき柊吾が、安全のためとはいえ朱莉に関わりすぎた。
あれから藤矢が接触してくる気配はない。自由登校になるまでの一ヶ月。あとは彼女の友人たちに任せても問題ない。
三年ぶりに朱莉のとなりで過ごせた。幸せでなかったといえば嘘になる。知らず知らずにブレーキを踏みそこねて、この大事な時期に朱莉の気持ちを乱した。
柊吾の役目は、これで終わりだ。
「年明けからは付き添いを止めます。もう大丈夫だと思いますから」
そう言って顔を上げたら、義之はいやいやと両手を振る。
「そんな話じゃないんだよ。今日は僕がきみに謝りたくて呼んだんだ」
予想外の言葉に瞬きしていたら、空いた分だけグラスにまたビールを注ぎ足された。
「三年前。僕ら、その気持ちは恋じゃなく憧れだよって、朱莉のことを否定してしまってね」
「……あの夜、ですか?」
「そう。病院から戻ったすぐ後。中学生があんなに加熱するって知って怖気づいたんだ。それで朱莉に、もう少し待って欲しいと思ってしまって。しかも、それが柊くんのためだなんて酷い言い訳まで用意した」
グラスをもったまま、しばらく呆けてしまう。
「そんな顔をされるのも無理はないなぁ。僕らは大きく間違えた。あれから朱莉を迷子にしてしまったし、柊くんにも申し訳ないことをした」
「いえ……でも、そうか。それで朱莉、あんなに」
ようやくわかった気がした。あの日を境に、朱莉の表情が変わった理由が。口端をゆるく持ち上げるだけの、控えめな笑みに変わった意味が。
憧れを幼さと。
恋を大人らしさと読み変えて。
破顔一笑といつか柊吾が見とれたものを捨てて、彼女は駆け足で大人になろうとした。
「少し時間を置きなさいと。そう言うだけで良かったのにね」
苦笑いの義之に、柊吾も笑って首を横に振る。
「俺のためでもあったんですよね」
「あー、柊くんはやっぱり
ははっと気持ちの良い笑いで答えられた。
悠のこと、両親のこと。そして、自分が朱莉を貶める材料として使われたこと。十九歳の柊吾はあのとき、限界に近いところにいた。そういう柊吾のために、義之は朱莉を一度離そうとしてくれた。
テーブルに肘を立て、傷跡にひたいを押し付けてふっと息を吐く。
「父も、そうだったんでしょうか」
「古澤さんは、なんて?」
「四歳差をわきまえずに、朱莉の未来を摘む気かって。そんなことを言われました」
「そうか……それで柊くん、いっさい朱莉に関わらなくなったのか」
「ごもっともで、反論できませんでした。今回も俺が手出しするべきじゃないのはわかってたんです。朱莉はまだ十七歳なのに」
永遠に埋まらない四歳差が許されるとしたら、社会に出てからだと思った。朱莉が二十二歳になるまで待てば、ようやく関わる資格を得るのだと。
LINeを極力断って。隣家側の窓には厚いカーテンを引いて。
自分の欲深な両目から彼女を守れるように。朱莉が世界を広げていく姿を離れた場所から見守る一方で、籠に閉じ込めてしまえたらどんなにいいかとカーテンを握りしめる。
「僕らは嬉しかったよ。柊くんが来てくれて。今も、変わらずにいてくれることを知って」
「……ぁ、その」
はたと気づいて、手のひらで口元を覆い隠す。さっきから彼女の実父を相手に、自分の行き過ぎた好意をさらけ出してしまっている。余裕がなくなっている証拠だ。
ボディガードだと建前を用意して、いかにも兄という顔で毎朝彼女のとなりを歩く。ばったり出会った彼女の後輩相手に冷静さを欠く始末。
ブレーキが効かない。今の自分は朱莉にとって毒にしかならない。
軽く会釈して、グラスをずずっと引き寄せた。グラスについた水滴が垂れて、未練がましくテーブルに跡を引く。
「あと四年、正しく距離を取ります」
言った直後、さらに本音を上積みしたことに気付いて顔面が燃えていく。四年経ったら朱莉を狙いに行くと言っているようなものだ。酒に誘われて暴露しすぎた。出入り禁止を今すぐ言い渡されて当然の発言を重ねている。
けれど、そんな柊吾に義之は大笑いしてビールをあおった。
「二十二年も聞き分けのいい兄を頑張ってきたんだから、少しぐらい意のままを通してみたらどうだい?」
グラスを手から滑らせそうになった。
「……え?」
柊吾がようやく声ひとつを返したら、そっと鍵を開けるように、大切な人の父が微笑みを向けてくれる。
「受験が終わったら、あの子も十八歳だ。成人の基準が変わるなんて、昔は想像もしなかったねぇ」
もしかすると実父よりも深く、父のように感じてきたかもしれない。中学時分には柊吾のことを本気で叱ってくれたこともある。
そんな人が、特大の許しをくれようとしている。
「あの子にかけてしまった呪いをどう解いたものか、僕らではわからなくてね。柊くんなら解けるんじゃないかなんて……勝手なことばかり思ってしまうなぁ、僕らは」
自責を多分に含んで口元に弧を描く義之に、柊吾はゆっくりと首を振って返した。
「……それは大丈夫です。今の朱莉には、強い味方がたくさんいます」
今ごろ、朱莉はパーティーの真っ最中だ。あれだけ荒れた状態の朱莉を、彼女の友人たちが放って置くはずがない。たとえ今夜叶わずとも、いつか朱莉は自力で迷子から抜け出してくる。
そのときに。
彼女にとって、自分はもう必要ないのかもしれないけれど。
――受験が終わったら。もう一度だけ。
柊吾は義之に向かって、深く頭を下げた。
「さっきのお言葉は、ありがたく頂戴します」
「そうかい。柊くんに必要なものだったなら、僕も嬉しいよ」
向かいで義之も同じ姿勢を取るのが、視界の隅に見えた。
お互い心地よく笑みを交わして、ビールを空にする。
「ところでもうひとつ大事な話があってね」
「なんでしょう?」
テーブルの端にグラスを追いやった義之は、指を組んで真剣な顔をした。
「ジルさんダッの休日のためのインバネスコートが見つからないんだよ」
「……ジルさんダッの祝日のシューズと誕生日のベストと何でもない日のハット、そろってます?」
「三つかぁ……今夜中に手に入る?」
「悠が帰ってくるまでなら、ベストぐらいですね」
「じゃあ、それだけでも」
いそいそとゲームをセッティングする義之を追って、柊吾はダイニングテーブルからラグに移動した。キッチンでは、いつの間にか入ってきた友恵が、呆れ顔で小言をもらしている。
柔らかなラグの上で、レトロ調な電子音楽を聞く。友恵がキッチンでカチャカチャと皿を鳴らし、となりの義之があれやこれやと尋ねてくる。
仁科家は今も変わらず、柊吾の好きな音で溢れている。
ただ、今夜は。
何よりいちばん好きな声が、どれほど耳を澄ましても聞こえないけれど。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます