第53話 約束をひとつ

 * * *


 クリスマスは夜遅くまで騒いで、翌日は三人で受験生らしく勉強したり、昼には織音のスペシャルオムライスを堪能したり。


 午後二時を回った頃、昨夜恋デビューしたばかりの朱莉に、いきなりの右ストレートが飛んできた。


【 古澤 柊吾 >> 俊也さんとこ来たついでに迎えに行くよ 】


 ごとんと派手な音をたてて、スマホを座卓に落とす。卒倒寸前の朱莉は友人たちに支えられ、腫れぼったいまぶたにタオルやら何やらを当てられた。さながらインターバル中のボクサーだ。



 そうして、午後四時を過ぎた向瀬駅の改札前に朱莉はひとり立っていた。一緒に待とうとしてくれる結衣を丁重に送り出したあと、何度も手鏡を見てひとりため息をつく。顔面コンディションがすこぶる悪い。


 何度見ても変わるものでなく、手鏡を鞄に押し込んでぼんやり改札を眺める。日曜夕方の混み合う改札を流れ出る人の中に、約二ヶ月ぶりの顔を見つけた。藤矢 涼平である。


 藤矢のほうもすぐにこちらに気付いたらしく、表情を曇らせた。朱莉が軽く会釈すると、向こうも同じようにしてから急ぎ足で去っていく。


 自分だって、彼とそう変わらないのかもしれない。すでに望みを断たれていると知りながら、この恋をどうするか決めかねているのだから。


 そんなことを思いながら藤矢の背中を見続けていたら、きゅっと肩を掴まれた。その左手の傷で相手はすぐにわかる。


「何かされた?」


 人混みに消えていく藤矢を鋭く見据えながら、柊吾が尋ねてくる。


「ただ目が合っただけ。こじらせたら、わたしもあんな風になるのかなと思って見てた」

「あれは特殊ケースだからね!?」


 慌てたような柊吾の声に、朱莉は藤矢から視線を外す。となりを見上げたら、髪がすっきりした柊吾と視線がぶつかった。彼の眉が少し下がって、朱莉の腫れたまぶたを軽くなでてくる。


「朱莉にも、こじらせそうなものがある?」

「……うん。だから気をつけようと思ったの」

「気をつけなくても、ならないよ。朱莉は大丈夫」


 フッた側に慰められてもなと、複雑な心境で目を伏せた。それから気を取り直してまた柊吾を見上げる。


「柊ちゃんはその髪型キープの方向なのね。また伸ばさないの?」

「ダサいだのおじさんだの言われたから、もうやめとく」

「サークルの人とかに?」

「藤矢くん」


 思わぬ名前が飛び出したから、朱莉は藤矢の消えた南通路を振り返った。


「なかなか無礼千万だよね。彼は」

「……ダサくないのに」


 朱莉が口をへの字にして戻ると、柊吾が顔をのぞき込んできた。


「前と今と。どっちの柊吾くんが、より素敵?」

「どっちも」

「あえて。どっちか」


 そんなことを言わせないで欲しい。顔面が熱いなと思いながら、朱莉はしぶしぶ答える。


「……今」

「じゃあ、このままキープだな」


 なんだかご機嫌になった柊吾は、朱莉の背中を押してから改札へ向かう。人の流れを避けながら朱莉は彼についていく。その背中は、目の前にありながら遠い。



 ちょうどよくホームに入ってきた電車に乗りこむ。曜日と時間の関係でそこそこに混んでいて、ドア近くで柊吾が開けてくれたスペースに朱莉はすぽりと収まった。


 つま先は当たるし、顔も近い。混雑した車内だから、彼はいちいち軽く腰を折ってささやきで会話する。片思いを開始した身には毒が強すぎる。


「勉強は順調? 英星は余裕そうって悠から聞いたけど」

「……受けないかもしれない」

「えっ!?」


 大きく声を張った柊吾は慌ててばふっと口を押さえ、軽く咳払いしてからまたささやきに戻した。


「どうして?」

「もう少し、地元離れてみても良いのかなって」

「行きたい大学がある?」

「そういうわけじゃないけど」


 都美の一件で気づいた。同じ大学に通えば、柊吾の交友関係や、この先彼が選ぶ女性を目の当たりにするなんて可能性がある。


 しかも自分の志望動機に柊吾が絡んでいることも、片思い認定とともに自覚した。あまりにも不純だ。



 中尾寺駅について電車を降りるなり、柊吾は朱莉を手招きしてホームの片隅に移動した。


「受けよう」

「え、英星?」

「うん。嫌なわけじゃなくて、どうしても行きたい大学なんかもないんでしょ? 学費面で私立はやめろって言われたとかもない?」

「ない……けど」

「じゃあ、受けて」


 なぜ柊吾に受験校をねだられているのか。朱莉が首をかしげると、彼は拗ねた顔で目をそらした。


「俺、楽しみにしてたのに」

「何を?」

「悠と朱莉と大学生やるの! 俺だけふたりと一緒に学校通ったことない!」


 ぽかんとして、完全に拗ねた兄を見る。


「柊ちゃん……院、行くのって」

「だからあと二年待ちたかったんだって。俺もカワタに寄り道したいし、ちょっとファミレス行こうぜとかしたい。あと、裏道に美味いコロッケ食える肉屋もあって」

「ああ、あそこ美味しいわよね。織音に教えてもらったわ」

「すでに行ってるし! もぉぉ、俺も誘ってよ!」


 地団駄でも踏みそうな勢いの兄が可笑しくて堪えきれない。朱莉が口元を隠しながら弾んだ息を転がすと、ますます柊吾は力説して拗ねる。何かのアニメで出た下校風景がどうとか、小説の描写がどうとか。誰かと一緒に登下校することへの憧れを、多分にこじらせている。


「朱莉も受けるって悠から聞いたから。院試、頑張ったのに」

「不純……」

「俺にとっては純!」


 キッと言い返されて、朱莉は降参した。


「……わかりました。受けます」

「絶対?」

「絶対。ちゃんと願書出します」

「願書の控え、LINeで送ってね?」

「そこまで!?」


 じとっと半眼で見られて、うっと言葉に詰まる。そうとう拗ねてしまったらしい。


「落ちても怒らないでよ」

「……ちゃんと全力出してね?」

「もちろんです。ほら、勉強しに帰るわよ」


 朱莉が歩き出すと、柊吾はととっと駆けてとなりに並んだ。


「朱莉ちゃん、朱莉ちゃん」

「はーい。まだ何かあるの?」

「合格発表、確か二月半ばだったと思うんだけど」

「十六日。誕生日とかぶせてくるとか神様が残酷すぎるわ」

「じゃあさ。合格したら、次の日俺と遊ぼ」

「うん? マイクロなら、わたしさっぱりだしお父さんとやったほうが」

「そういうのじゃなくて」


 柊吾は朱莉の正面に回り込んで、きらきらした眼力を浴びせかけてくる。今日の柊吾はどことなく、いつもより少年感が強い。すこぶる眩しいので、今すぐサングラスが欲しい。


「合格祝い。俺、水族館行きたい」

「あ、悠もってこと?」

「悠は合格したら結衣ちゃんと祝うでしょ。だから朱莉は俺と祝って。俺の院試の合格祝い、誰もやってくれなかったし」

「兄妹でお祝いに水族館とか……しなくない?」

「あるの! 『俺の青春ラプソディは崩壊している』のタカヤとコマリは行ってた!」


 どうせ、コマリは千崎 乃愛なのだろう。

 朱莉がうなずくと、柊吾はその場でぐっと拳を握ってえくぼを見せた。少年の心を忘れない二十二歳は、恋のスタートを切ったばかりの朱莉の行く手にどんどん障害を設置していく。


 人の気も知らないで、と。

 はしゃぐ二十二歳の背中にグーを一発ぶつけてみたりする。それすらご機嫌に受け止めるから、弟妹愛をこじらせた兄は本当にたちが悪い。


「あ、それからさ。年明けからの登校なんだけど。時間変える?」

「変えない、けど……柊ちゃん、藤矢くんのことなら本当にもう大丈夫そうよ」


 さっき駅で顔を合わせた様子からして、今後何かが起きるとは思えない。やけどの件は向こうに何かしらの警告が渡っている。こちらの手元にはあのときの診断書もある。


 これ以上、柊吾に守ってもらう必要はない。

 気恥ずかしくて、苦しくて、それ以上に嬉しくてたまらなかった朝の時間もこれで終わりだ。


「長らくお世話になってしまったけど。無事、解決しました」

「そっか。でも俺、朝時間のバイト続けるから一緒に行くし」


 人のセンチメンタルをおもちゃのハンマーで木っ端微塵にするような、ケロリとしたひと言だった。


「ほんとに良いの! 解決したから!」

「それはそれとして。うちのバイト先、モーニングのシフト入ると朝手当つくんだよね。四月からはまた忙しいだろうし、今のうちに稼いどきたい」

「えぇ……」


 朱莉がうめくと、柊吾は軽い足取りで距離を詰めて首をかしげる。切ったばかりの彼の髪がふわりと流れる。少年らしさを過剰に添加したしょんぼり顔で、彼は問う。


「俺と歩くの、朱莉は嫌い? 迷惑?」


 無理だった。恋する高校生は二秒で敗北した。


「じゃあ、一月もよろしくお願いします」

「やった!」


 寒気を吹き飛ばすような彼の喜色に、胸は痛いほど騒ぐ。


 けれど、その痛みが昨日までと違うことに気づく。耐えがたいほどの苦しさはずっと和らいで、温かな熱と、その奥にじりじりとした焦燥がある。


 彼に抱く一喜一憂に、恋という名がついた。ようやく柊吾を好きだと言えるのが、こんなに嬉しいことだとは思わなかった。


 ――受験が終わったら。もう一度だけ。


 そのとき、きちんと向き合う。そんな権利を、やっと手に入れたから。

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