第54話 合格発表

 * * *


 冬休みが終わり、また柊吾と朝の坂道を歩く日々が始まった。


 ここからは時の流れが早い。あっという間に共通テストが終わり、私立大の受験シーズンがやってくる。色恋どうたらしている場合ではない。


 朱莉は毎日予備校に詰めて、休日も机に向かいシャーペンを走らせる。一月終わりから二月初めにかけて、三つの大学を受験する。中頃にはたて続けに合否発表。そこで駄目なら後期試験の三月までなだれ込んでしまう。

 どうにか二月半ばで受験生を終えたい。長期戦はつらい。


 勉強漬けの傍らで。休憩のたびに、あ、ぁ、と声を出す。発声練習のようなものだ。


 今、喉がどんな状態か。息がどこに引っかかり、どう抜けていくか。柊吾とやってきた長年のボイストレーニングの足跡をたどり、どうにか地声を取り戻せないかとあれこれ試している。


 作り声に滞りがないなら、朱莉の日常にはなんの支障もない。家でも地声は使わないから、両親もおそらく気づいていない。支障が出ているのはたったひとり。隣家の千崎 乃愛こじらせ男子だけだ。


 恋と自覚して朱莉が心を整理すれば、彼のささやかな仕草に気づく余裕が生まれた。

 毎朝顔を合わせてすぐ。作り声でおはようと声をかける朱莉に、柊吾はほんのわずかだけ目を伏せる。

 彼の望むものが、それだけでわかる。





 二月四日。朱莉にとっての大本命、英星大学の入試を迎えた。悠にとっても同じく勝負の一日だ。


 玄関から顔を出した柊吾は、朱莉と悠よりずっとガチガチになっていて、弟妹それぞれの手にお守りを握らせた。


「え、っと。リラックス、して。うん、いつもどおりで、ぜんぜん、ぜんっぜん、うん! な!」

「兄ちゃん、もう家入って」

「そうね。柊ちゃんのほうがよっぽど危ういと思うわ」

「なんで! 俺この日のためにレプリカ火打ち石買ったのに!」


 すねた柊吾が、ふたりの上で怪しげな石をカンカンと打ち鳴らす。切り火で送り出される受験生が全国でどれほどいるだろう。そもそも火打ち石にレプリカも何もなかろうという点も相まって、いろいろおかしい。

 耐えかねた弟妹はぶふっと吹き出してから、兄に手を振って歩き出した。


「自分より緊張してる人間見ると逆に落ち着くの、なんだろうな」

「あれよ、十九話のリリーティア現象。柊ちゃんのせいで泣けた試しがない」


 ちらりと振り向くと、まだ門前で彼がこちらを見守っている。安心させられる結果になればと、受け取ったお守りを鞄にくくりつけた。



 火打ち石の効果かお守りのおかげか、自己採点では朱莉も悠もなかなか良い結果になった。とはいえ、お互い不安は大きい。極力受験の話はせずにひたすらその日を待つ。


 そして、迎えた二月十六日。


 Web上の合否発表画面に自分の受験番号を打ち込む。目を閉じ、緊張に硬くなる指でエンターキーを叩いて、深呼吸してからまぶたをこじ開けた。


 合格と。大きな文字が、朱莉の受験生活の終わりを告げた。安堵に息をついたところでスマホが震える。


「結衣?」

【あ、朱莉……どうだった?】

「合格してた」

【良かった! 私も】

「悠には?」

【まだ……これから連絡するんだけど……】


 悠にとって高い目標点なだけに、結衣からは尋ねづらいのだろう。朱莉がちらりと隣家側の窓を見ると、外から大声が飛んできた。


「朱莉ぃッ!」


 噂をすればの悠だ。


 慌てて窓を開けると、興奮に上気した悠がぶんぶんと手を振っている。


「まさかの俺、受かったんだけど!」

「嘘っ! 火打ち石すごすぎない!?」


 本人はまさかと言い、朱莉は嘘と返してしまう。それほどの挑戦を幼なじみが乗り越えた。我がこと以上に胸が熱くなる。ここに至るまでの悠の姿が一気に脳裏を巡っていった。


 勝手に滲む涙をはらって、朱莉はまだ通話状態のスマホに声をかける。


「結衣、聞こえた?」

【うん……うん、聞こえ、た】


 電話の向こうで、結衣が鼻をぐずっと言わせるのがわかる。向かいの窓には柊吾も顔を出して、悠の肩を叩いた。


「ほら、悠。いちばん報告するべき人に報告」


 そう言って悠にスマホを持たせるから、朱莉は急いで結衣との通話を切った。慌てた様子で窓を離れる悠を見送ってから、柊吾と顔を見合わせる。


「朱莉も、だね?」

「うん。なんとかなりました」

「おめでとうございます」


 ――朱莉が受験に専念できる環境はおじさんとおばさんと俺でちゃんと用意するから。


 宣言したとおりに。立派な隣家の兄は、今度も朱莉を守ってくれた。


 お礼にと、なんとか地声で返そうとする。けれどやっぱり、朱莉の体はそれを拒絶する。

 軽く首元に触れて、仕方なく作り声に切り替えた。


「ありがとうございます。柊ちゃんがサポートしてくれたおかげです」


 柊吾は何も言わず、朱莉をじっと見つめてきた。長年見慣れた顔なのに、あらためてそんな風に無言の間を作られると身構えてしまう。


 まるで観察されているような謎の十秒のあと、柊吾がやっと口を開く。


「ちょっと、そっち行っていい?」

「そっち……って、わたしの部屋?」

「うん。家、朱莉ひとりじゃないよね?」

「お母さんなら下にいるけど」


 軽くうなずきで応じた柊吾は窓を閉める。朱莉は慌てて窓を離れ、姿見の前で自分の全身を確かめた。


 あえて着替えるのはおかしい。今さら部屋着がどうだとか気にする仲でもない。


 ――美容室、行けば良かった。


 経緯は散々でも、あのときの切りっぱなしボブは朱莉を背伸びさせてくれた。

 せめてと、伸びきってしまった髪を手櫛で整える。顔周りの髪は少し残し、サイドを耳に掛けた。こうするといくぶん大人びて見える。俊也直伝の技だ。


 インターホンが鳴ったら、体にぴりっと静電気でも突き抜けたような心地になる。クリスマスのあの会議を越えた朱莉は、彼の訪問ひとつにこんなにも構えてしまう。


 ――どうしよう。すごく、緊張する。


 あわあわと落ち着かなくて、いっそ自分から出迎えてやれとドアに手をかける。ぐっと引いたら「うわっ」と柊吾の声がした。


「あっぶな。開くと思わなかった」


 壁に手をかけて踏みとどまった柊吾は、朱莉の顔を見て眉を下げた。


「来たらまずかった?」

「全然……大丈夫」

「そっか。良かった」


 いつものように朱莉の前髪をくしゃっと乱しながら頭をなでて、柊吾は部屋に入ってくる。


 朱莉がベッドに座ると、彼は真正面までやってきた。円いラグの端であぐらをかく。


「合格、あらためておめでとう」

「うん。ありがとう」

「それから、十八歳……おめでとう、朱莉」


 シンプルな祝いの言葉だった。そういえば今日は誕生日でもあるのだと、頭を受験生から切り替える。


 そうしたら、目の前の柊吾のことが急にはっきりと見えた。今しがたくれた言葉のそこかしこにあった、わずかな溜まり。息のとりかた。少しの声の揺れ。


 結衣には聞き上手だと褒められた。その朱莉の感覚がもっともがれるのは、柊吾の前かもしれない。一緒にこの声を育てた時間の分だけ、お互いの声と声で深く触れ合ってきた。


 ベッドを離れて、柊吾のとなりに正座する。きょとんとした柊吾が、体を九十度回して朱莉と向い合せになった。


 柊吾の顔をじっと見つめてから、朱莉は自分の胸元を二度、指先だけで軽く打った。


「たくさん、積もってる?」


 柊吾は目尻を下げて微笑みを浮かべた。その笑みはじんわりと深くなり、頬に軽くえくぼを見せてからゆっくりとうなずく。


「三年と三ヶ月分。一度には話しきれないぐらい、積もってる」

「そんなに?」

「俺の下手くそな話を根気よく聞いてくれるの、朱莉だけだから。それはもう積もった。だから俺と遊ぼ」

「明日? 水族館って言ってたっけ」

「うん。俺、明日は目一杯おしゃれして行こうと思います」


 なぜか胸を張って。あまり男性が使うイメージのなかったセリフを彼が言うものだから、朱莉は軽く吹き出した。


 すると、柊吾の左手が朱莉の頭にぽんと乗った。


「朱莉、成人なんだなぁ」

「全然実感湧かないけどね」

「大丈夫。それ二十二歳になっても湧かないから」


 それは大丈夫なのだろうか。ふひゃと地声で笑うと、柊吾が目を細める。


「ちょっと聞こえた」


 彼がとことん朱莉の地声を求めているのだと、そんな言葉で再認識する。今ここで、望む声を届けてあげられたらどんなに良かったか。


「構えずに声を使うから、笑ったときなんかは特に出やすいみたい」

「よしよし。じゃあ明日は俺がたくさん笑わせてあげよう」

「ほんと、乃愛ちゃんに一途ね」


 九年も最推しが変わらないことに感心して言うと、突然柊吾の手に両頬をふにっと潰された。


「ふぇ……にゃに?」


 アナウンサー声とアンバランスな口調で問うと、柊吾は朱莉の頬をふにふにと揺らした。


「朱莉は……変わらない?」

「にゃにが?」

「……いや。なんでもない。明日は九時に迎えに来るから、お部屋で待っててください」


 最後に朱莉の頬をつついて、柊吾はすっと立ち上がり部屋を出ていく。頬に触れた手の感触に呆けていた朱莉は、我に返るなり、彼を追いかけて部屋を飛び出した。


 気のせいじゃない。

 どうにもこうにも、彼の様子がおかしいのだ。


「柊ちゃん!」


 すでに半分ほど階段を下りていた柊吾は、朱莉を見上げて手を振る。


「すっごい楽しみ!」


 満面の笑みでそんなことを言って、彼はスキップでも踏みそうな軽やかさで玄関から出ていった。

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