第55話 水族館へ行こう
* * *
編み込みのハーフアップでお嬢さん風にした髪型。淡いベージュのロング丈シャツワンピースは腰をベルトで軽く締めて、ざっくりしたケーブルニットカーディガンを合わせる。
手ぶらにできるよう、小ぶりのショルダーバッグを斜めがけ。屋外に出るところもあるらしいから、軽めのコートを羽織って完成だ。
姿見の前でくるりと回る。
気合を入れすぎただろうかと、何度も全身を確かめる。けれど二度とない機会かもしれないから、少しでも見栄えのいい自分で行きたい。前髪を何度も指で整えて、編み込みをほんの少し崩して可愛げを足す。
インターホンが鳴った瞬間、朱莉は軽くその場で飛び上がった。階段を上がってくる足音に心臓を急かされる。ドアをコンッと叩かれたら緊張メーターが振り切れて、姿見のそばに揺れていたカーテンを掴んだ。
三度のノックを無視していたら、声をかけられた。
「朱莉? 入るよ。駄目そうなら止めて」
ゆっくりとドアを開けた柊吾は、カーテンを掴む朱莉を見て、これでもかと瞠目する。そして、ぱちんと破顔した。
「えーっ! 可愛い! ちょ、こっち来てごらん!」
「へぁ……む、無理」
「なんでぇ! どこもおかしくないって」
完全に足を床に縫われた朱莉をしばらく待って、柊吾のほうが寄ってきた。
本日の柊吾は、黒いカットソーにベージュのパンツ、ショールカラーのついたざっくり編みのケーブルニットカーディガンという出で立ち。
シンプルながら、ひとつひとつが上品。Vネックの胸元から首がスッキリと美しすぎるから、目のやり場に困って視線を泳がせた。奇しくもカーディガン合わせなリンクコーデになってしまっていて、それがまた朱莉の緊張を天井破りに突き上げていく。
目一杯おしゃれすると彼は話していた。おかげさまで朱莉の目が早くもいっぱいいっぱいである。
こちらの心の安全のために、今すぐ推しトレーナーに着替えてもらえないものか。朱莉が口をあうあうとさせていたら、柊吾はとなりに立ち、鏡に一緒に映り込んだ。
「ふむぅ……正直に言っておくれ」
「……なに?」
「深海魚柄シャツのほうが良かったことない?」
「そのままでいて」
「や、でも。十二種類の深海魚が全体に散りばめ――」
「そのままで、いて」
強めに押して答えたら、さらりと頭をなでられた。その手つきがいつもよりずっと丁寧だ。
「じゃあ、これで行くかぁ。この可愛い子、連れてっていーい?」
「……お願い、します」
「はい。お願いされます」
頭をなでる手にそのまま後押しされる形で、一緒に部屋を出る。ちょうどリビングから顔を出した友恵に、柊吾が会釈した。
「それじゃ一日、お預かりします。七時までに戻る予定で大丈夫ですか?」
「ばっちりよ」
友恵はうなずいて、朱莉に視線を移した。
「楽しんでおいで」
おずおずと朱莉がうなずくと、柊吾と友恵がアイコンタクトを交わして笑う。そんなことで背中あたりがそわそわする。今日は何かがおかしい。
門を出たら古澤家のガレージへ。以前の送迎の様に後部のドアに手をかけたら、柊吾が助手席のドアを開けた。
「こっち」
「えっ!?」
「毎回、寂しいの我慢してたんだよー。今日はちゃんと俺のとなりに座ってください」
ぶぅと文句を言われて、きゅっと身を硬くしながら助手席に乗り込む。運転席に座った柊吾が自分の鞄からレモンティーのペットボトルを取り出す。
「道中のおとも。一本しかないから、たまに俺にも分けてね」
「わ、かった」
いきなりのシェアボトル登場に、朱莉はぎこちなく返す。柊吾は鞄を後部座席に置いてから、少しトーンを下げて尋ねてきた。
「声、戻らないまま……かな?」
目を伏せてうなずいた。自分の中で何かが引っかかって、体が地声を否定している。その原因がわからないままだ。
「体調は?」
「大丈夫」
「じゃあ問題なし。出発しまーす!」
元気いっぱいにエンジンをかけたあと、柊吾は緊張に硬直気味の朱莉の頬をふにふにとつついてきた。
高速道路も利用して一時間と少し。
到着したのは懐かしの水族館。古澤家が引っ越してきて間もない頃に、みんなで訪れた場所だ。
入館して、ひとまずチケットを鞄にしまっていると、柊吾が館内のガイドマップを開いて左右に揺れる。
「さぁさぁ、どこから行くっ?」
はしゃぐ柊吾が揺らすマップを、同じく朱莉も揺れながら睨む。
「……どこ……」
真剣につぶやいたら、柊吾がにたぁっと笑う。
「な、何?」
「朱莉……ハリセンボン探してるでしょ」
ぽひゅっと顔から火を吹かせ、朱莉は両手を頬に押し付ける。
「どうしてわかっちゃうの!」
「朱莉のお気に入りぐらい、俺、ちゃんと覚えてますよぉ」
幼なじみなので、幼少期からの歴史をがっちり握られている。柊吾には四歳分のアドバンテージがあり、朱莉や悠より当時を鮮明に覚えている。あんなことで駄々をこねた、こんなことでケンカしたと、ふっと思い出話をされがちだ。朱莉からすれば、恥ずかしいことこの上ない。弟妹はこういうところが損なのだ。
褒めてと顔に書いてある二十二歳相手に、悔しいから反撃を試みる。
「柊ちゃんはアザラシでしょ」
一瞬きょとんと目を丸くした柊吾は、えくぼ付きの無邪気な笑顔で「良くできました」と朱莉を撃ち抜いた。まったく防御が追いつかない。
九年ぶりともなると、気分は初来館だ。
メインの大水槽は圧巻で、前方と左右、そして頭上まで広がる海は見る者を別世界へ連れて行く。色とりどりの青の中で、揺らめく光に目を奪われる。
正確には、揺らめく光に照らされながら、周囲の三倍ぐらいの陽気さではしゃぐ二十二歳に視線をみんな持っていかれている。
「朱莉! 上、上見てっ。エイのくちぃ!」
「なんか、顔っぽい?」
「思った! ちょっと可愛い気が……あ、向こう見て!」
柊吾が指さす先には、銀色に輝く魚群の渦がある。
「すごい量。綺麗」
小さな魚が群れを成し、大きな塊を形成する。統率の取れた泳ぎに見入っていたら、柊吾が「えっ」と声を上げる。
「あれ全部、イワシだって……フライにしたい」
「……ふっ」
幻想感を台無しにするひと言に、朱莉の口から声が転がり出た。構えずに使う声はやっぱりちゃんと地声だ。校内にいるときの癖で、口元に手のひらで蓋を作る。
柊吾はそんな朱莉の手を丁寧に口元から剥がした。
「緊張してる?」
当然ながら、彼には朱莉の心理状態なんてお見通しだ。主たる緊張の原因に言われて、返す言葉に詰まる。
「んじゃ、朱莉がもっと声出せるようにリラックスさせないとなぁ。どこが良いかなぁ」
そう言って、彼はガイドマップとにらめっこする。朱莉はようやく、このレジャーにおける柊吾の目的を察した。
――明日は俺がたくさん笑わせてあげよう。
つまり、柊吾はあいかわらずの乃愛待ち状態なのだ。
浮ついていた気持ちが冷静に着地を決めた。ひとり緊張して身構えて、馬鹿みたいじゃないかと。
ガイドマップを熱心に読み込む柊吾の頬に、ぶすっと指を突き刺す。
「ふぃっ!? なぜ攻撃を!? 俺なんかした!?」
「……べーつにぃー」
そういえば誘ってきた時点で、兄タカヤと妹コマリがどうとか言っていたのだった。困惑顔の柊吾に苦笑して、朱莉は前夜からの緊張を手放すことにした。
途中通りかかったフードコートで早めの昼食をとり、また館内を歩き回る。
筒状の水槽の中で直立不動になったアザラシをまじまじと眺め、ペンギンのよちよち歩きにこちらもよちよちしながら並走する。まだ子どもとわかるサイズ感のカワウソをきゃあきゃあと愛でる。イルカショーに歓喜の声を上げて、クラゲの漂いに癒やされる。
昼食前までは一端の悩める乙女ぶっていたはずなのに。緊張を手放したら、朱莉は水族館の強大な魅力に完全に落とされた。
「柊ちゃん! 砂吐いてる! これ何!」
「えー、待ってね……アカハチハゼ、か?」
「見て。ほら、見て。砂食べるー……吐くぅー!」
エラのあたりからカパカパと砂を吐く魚を、興味深々で眺める。
「砂の中の微生物とか食べるっぽい。おー、吐くね、熱心に吐きますねー……ぇ、あ、朱莉ぃ!」
柊吾がくいくいと朱莉のカーディガンを引っ張る。せっかく砂吐きを堪能していたのにいったい何だと顔を上げたら、小さな水槽に敷き詰められた深い砂から、にょろりと細長い魚がたくさん顔を出している。
「……チンアナゴ?」
「チンアナゴだよ……長い、長いよ朱莉」
「長い……そしてみんな同じ方向を向く……可愛い」
ふふっと笑って柊吾を見上げる。少々悔しいけれど彼の狙い通り。あらゆるところが魅力的すぎて、朱莉は都度声をたてて笑ってしまう。そのたびに柊吾も嬉しそうにするから、今日はこれで良いのだろう。
柊吾につられて朱莉もどんどん童心に返り、広げたマップを両手で持ったまま、ここはどこだ次はなんだと館内を進む。
「ね、柊ちゃん! 次こっちの――」
「朱莉!」
唐突に柊吾に肩を抱かれる。顔を上げたら、鼻先三十センチのところが壁だった。はしゃぐ十八歳の視野は狭くなるらしい。
「あーかーりーちゃーん」
「ハイ」
「これ、何回目?」
「……たぶん、三回ぐらい」
「五回目です。館内マップ禁止」
「えぇ……」
柊吾に取り上げられたマップを、恨めしく目で追いかけた。畳まれたマップが右に行けば右、左に行けば左。そうしてしばらく柊吾に遊ばれる。
「っ……く、っははははは!」
柊吾が大笑いで朱莉の肩に手を置いた。腹に手を当てて、時々引き笑いを挟みながら涙目にまでなる。
そういう顔はずるい。澄ました大人顔も頼れる兄の顔も散々見せておきながら。ここぞというところで、彼はこんな子どもみたいに無防備な顔をさらすのだ。
「柊ちゃん……」
「いや、ごめ……こんな笑うつもりなかったんだけど。堪んない、可愛い」
拗ねた朱莉の頬を柊吾の手がむにむにと揉んで、それからぐっと手を引かれる。
「ほら、向こうの大水槽」
柊吾が指さした先をふてくされながら見て、朱莉は目を真ん丸にした。
「は、はり……」
「うん、どうぞ」
「ハリセンボンー!」
逆に朱莉が柊吾を引っ張って、大きな水槽のいちばん端に駆け寄る。
ちいさなひれを忙しなく動かして、下からぷぷぷとハリセンボンが上がってくる。一定の高さまで上がり切ると休憩に入るのか、すぃぃと水に身を委ねて落ちてくる。そして底までたどり着くか着かないかのあたりから、またぷぷぷと上昇を再開する。
当時もこれを延々と眺めるのが好きだった。真ん丸なおとぼけ顔の変わらぬ愛らしさに、両目を縫い付けられてしまう。
「可愛い……可愛い……」
「その魅力、衰えなく?」
「推せる。可愛すぎる」
水槽にべたりと張り付きたいところだが、このゾーンは水槽手前にぐるりと柵がわりの手すりが設けてある。ちょうど腰の高さにくる手すりを握りしめ、やや前のめりでハリセンボンを眺める。
こんなに可愛いものが浮上と沈下を繰り返しているのに、あまり人が流れてこない。布教が足りないぞと水族館を責めていると、また柊吾に笑われてしまった。
こちらが童心に返ると、どうも柊吾は大人を発揮し始めるから良くない。そうなると、子ども扱いされている気分になるのだ。悔しいから、となりの柊吾の腰に体当たりを試みる。
そうしたら、傷跡のある彼の左手に、自分の右手がとんっとぶつかった。
そのささやかな刺激ひとつに呼ばれて。
朱莉の胸の内に、突き上げるような衝動が湧いた。
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