第56話 彼の望むもの

 今日を。今このときを。

 デートなのだと、言いたい。

 こんな特別な日を、ただの家族サービスだなんて思いたくない。


 だって、すぐそこにあるのに。

 彼の傷跡が。朱莉がクリスマスの夜に、自分こそが讃えたいのだと自覚したものが。


 柊吾は困るかもしれない。どこまでも兄のつもりで、地声が故障したままの妹を癒やすために連れてきてくれただけかもしれない。


 それでも、手に入れた恋と向き合いたい。

 受験が終わったら、もう一度。

 そのもう一度を試すなら、今、ここが良い。



 右手の小指ひとつを伸ばす。柊吾の小指にそっと乗せ、硬さのある指の感触を確かめる。

 ゆっくりと手すりの上を滑るようにして。朱莉の指はぎこちなく、どうにか彼の薬指までたどり着く。そうして、指の腹で傷跡をなでた。


 柊吾の左手が、ぴくりと動いたのがわかった。熱くなる頬を見られたくなくて、朱莉はぐっとうつむく。緊張に一度唇を噛んで、それからおずおずと口を開く。


「柊、ちゃん。あの……ね」


 呼びかけた途端、柊吾の手がすり抜ける。

 かと思えば、朱莉の右手がぎゅっと包まれた。手の甲で彼の傷跡を感じる。

 驚いて顔を上げたら、柊吾がこちらに視線を注いでふわりと微笑んでいた。


「こういう俺で、大丈夫?」


 何を言われたのか理解できなかった。おそるおそる体の向きを変え、真正面から柊吾を見上げる。


「こういうって……どう?」


 朱莉が繋がった手を引いたら、彼は「んー」と口元を悩ましげに歪めた。


「朱莉といるときの俺って、あまりにお子さまだからさ」

「少年の心を忘れない二十二歳だな、とは思ってるけど」

「やっぱり? 俺も困ってる。でもたぶん、こっちが俺の素の顔なんだ」


 それはそうだろう。素の顔だからこそ、彼は朱莉と悠の前で、どうにも締まらない愉快な姿ばかり見せるのだ。何を今さらと首をかしげたら、柊吾は自信なさげに目を伏せる。


「期待されてるのは、こういう俺じゃないかもしれないとか。そんなこと、いざとなったらいろいろ考えちゃって。だから今日、素の俺と一日過ごしてもらって、それから答えが聞きたかった」


 空いていた左手を、柊吾が迎えにくる。

 向かい合わせで両手を繋ぎ、一歩距離を詰めて。決意を固めるように、彼は一度うなずいた。

 

「朱莉のことが好きだよ。今日はデートのつもりでいる」


 ぽかんと唇を薄く開いたまま、朱莉は瞬きだけを繰り返す。

 柊吾は笑うことも恥じらうこともせず、ひたむきというほかない眼差しを朱莉に向けてきた。


「朱莉が言ってた『こじらせそうなもの』。俺であって欲しいって思ってる。本当は、三年前からずっと伝えたかった」


 夢なんじゃないかと、唇を震わせた。


 ――けれど。


「朱莉より欲しいものなんか、俺にはないんだ」


 想い出深い、第十九話。リリーティアのあのセリフをなぞるような、そんな柊吾の声を聞いた瞬間。

 朱莉の内側で、ガラスの砕けるような音がした。


 大水槽の青に照らされる柊吾を、呆然と見つめる。


 間違いなく、いちばん欲しかったものをもらった。

 喜んでいいはずだ。

 自分もそうだと。ずっと彼を想ってきたのだと、返せるはずだった。


「あ……の……」


 強烈な違和感が喉を締め付ける。息苦しさに耐えきれず、柊吾の手を振りほどいた。両手でワンピースの胸元を握りしめ、一歩後ずさる。


「朱……莉?」


 固くなった柊吾の声に、びくりと肩を震わせる。


「ぁ。違う、の。ごめ……な……」


 謝ろうとした声が吐息に飲まれてうまくいかない。替わりに、ごめんなさいと何度も胸の内で唱える。


 真摯な告白を明らかな拒絶で返した。素直に受け取ることができなかった。


 だって。

 今の自分では、千崎 乃愛の声を出せない。


 十月の終わり。叶いもしない夢を見た。浅はかにも賭けに出て、藤矢 涼平に叩きのめされた。藤矢は徹頭徹尾、朱莉の作り声しか求めていなかった。


 今度は逆だ。

 朱莉の作り声を聞くたび、柊吾がわずかに目を伏せる。今日だって、声は戻らないのかと最初にわざわざ確認を取ってきた。唯一地声に戻る笑い声だけが今、彼の目を柔らかく細めさせる。


 都美の前で、自ら説明もした。柊吾のリリーティアは朱莉の声帯であって、朱莉自身ではないのだと。


 わかっていたつもりだったのに。よりによって、いちばん大切にしてきた思い出の言葉に、現実を突きつけられた。


「朱莉」


 胸元を握りしめる朱莉の手に、柊吾が触れてきた。彼の指がぐっと割り込んできて、固くなった手をほどかれていく。


「深呼吸、できる?」


 言われるまま、胸を膨らませて息を吐き出す。危うく過呼吸に落ちるところだったのだと気づいた。


「……ごめんなさい。少し、驚いただけ」


 気を静めたら、作り声は滑らかに言葉を紡げた。こちらの顔をのぞき込む柊吾は安堵したように笑ってから、朱莉の頭をそっとなでた。くしゃりと掻き回すような兄の手じゃない。


「ちょっと散歩しよっか」


 そう言って彼は一度手を離し、あらためて朱莉に手を差し伸べてくる。

 けれど、その手を握り返すことが、朱莉にはどうしてもできなくて。

 やがて柊吾は寂しそうに微笑んで、差し伸べた手を下ろした。





 柊吾の背中を追いかけて館内を歩く。人で賑わう人気ゾーンを横目に、静けさを求めるように彼は進んでいく。階段を上り、先にある厚いガラスの引き戸を開けた。


 目の前に本物の海が広がる。

 こじんまりとした展望デッキには人の姿がなかった。

 平日、冬、ペンギンのえさやりタイムという条件下。展望デッキといえば聞こえはいいが、あるのは百円を入れて何十秒か楽しめる双眼鏡が一台きりだ。館内順路からも外れていて、わざわざ立ち寄る人のほうが珍しいのかもしれない。


 柊吾はデッキの端へ進むと、擦りガラスのフェンスに背中を預けてこちらに向き直った。穏やかな笑みを浮かべる柊吾から腕二本分の距離を取り、朱莉も足を止める。


「兄としか、思えない?」


 柊吾からの唐突な問いに、言葉を詰まらせた。ぎこちなく首を横に振る。逆だ。どうしたって兄と思えない。だからずっと苦しかった。


「そか……じゃあ、やっぱり都美のことでまだ引っ掛かってる?」

「ない、よ。ちゃんとわかってる。それに、あれから都美さんとLINEもしてるし、今度遊びに行く」

「えぇ……知らないとこで交流深めてるなぁ」


 はは、と声をたてて笑ったあと、柊吾は少しうつむいた。両手の指を組んで肩を落とす。


「今日の俺が駄目だった? 朱莉の期待と違った?」


 そんなはずないじゃないかと、勢いよく頭を振って否定した。期待と違うところなんて何ひとつない。彼自身が気にしている子どもみたいな顔にも、二十二歳の大人の顔にも。この数ヶ月、彼の全てに一喜一憂して、ずっと心を騒がせてきたのに。


「朱莉、無理なら無理でいいんだよ」

「違うの!」


 駄目なのは柊吾じゃない。自分だ。

 張り上げた作り声を落ち着かせるために、一度大きく深呼吸する。


「わたしに、時間をください」


 やっと手に入れた恋は、ひどく身勝手で浅ましい。

 作り声だけを追いかけてきた藤矢をあんなに否定しておきながら、この声だけでも柊吾に選ばれたいと思ってしまう。


 だったらせめて、柊吾を翳らせることのない自分になってから手を取りたい。選ばれるにふさわしい自分で、彼のとなりにいたい。


 アナウンサーめいた作り声を、少し上擦らせ気味に調整する。こうするとぐっと明るく聞こえる。この身勝手さと惨めさを、上手に覆い隠してやれる。


 柊吾を真っ直ぐに見つめて、朱莉は口元に弧を描いてみせた。


「柊ちゃんの大好きな声、絶対に取り戻すから」


 訝しげに眉を寄せた柊吾がフェンスを離れる。一歩こちらに近づいてくるから、朱莉も一歩下がった。


「ちゃんと柊ちゃんのリリーティアに戻るまで。それまで時間をください」

「朱莉、待って!」


 焦ったように声を張り、柊吾が一気に距離を詰めてくる。


「俺が欲しいのは乃愛じゃない。地声がどうとか、そんなこと関係ない」

「隠さなくて大丈夫。ちゃんとわかってるから」

「何も隠してない。朱莉の声なら、地声だろうと今の声だろうと、俺はかまわない」


 優しい言葉でなだめられた瞬間、朱莉の中で失意が怒りにガチンと切り替わった。


 毎朝、確かめてきた。朱莉が声を出すたびに、彼がそっと目を伏せるところを。その瞳が寂しそうに翳る一瞬を。

 そんなことも気付けないと思われた自分が惨めでたまらない。きつく拳を握りしめ、唇を震わせる。


「わたし、いつまでも子どもじゃない」

「子どもだなんて思ってないよ」

「だったら甘やかしてごまかそうとしないで!」

「そんなつもりない!」


 柊吾らしくない強い声の圧に怯んだら、両肩をぐっと掴まれた。


「朱莉、俺はね――」

「わかってるの! 柊ちゃんがずっとこの声にがっかりしてることぐらい知ってる!」


 朱莉が叫んだのと同時に。

 柊吾が息を飲んだ。

 大きく両目を見開いてから、彼の表情は見たこともないほど歪んでいった。図星だったとありありとわかる顔で、ゆっくりと彼がうなずく。


「……そうだよ……がっかり、した」


 その肯定は、全身を穿つほどに痛い。朱莉は唇を引き結び、柊吾を突き放そうとした。

 けれど。

 柊吾はそのまま朱莉を自分の胸に引き寄せた。抵抗する間もなく、彼の両腕が朱莉の背中に回り込んでくる。ぐっと強く抱きついてきた柊吾は、朱莉の右肩に顔をうずめた。


「だって。それだけが、俺の自信だった」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る