第57話 この声をあなたに贈る

 彼の腕の中で目を見開いた。肩にのしかかる顔を見ようとしたら、傷跡のある左手に頭をくっと押さえられる。自分を見ないでくれと、その手が訴えてくる。


「朱莉の声を俺だけに許してくれるなら。大丈夫って。朱莉の気持ちもきっと変わってないって」


 朱莉は強く食いしばっていた歯をゆるめ、握りしめていた手を開いた。そうやって自分の体の強張りを順に解いたら、柊吾の鼓動の速さが伝わってきた。

 

「三年間。朱莉の声にすがってきた……ほんと勝手なんだ、俺」


 どうしても柊吾の顔が見たくて、腕の中で身をよじる。けれど、逃がしたくないのだと彼の全身が追いすがってくる。


「何も伝えずに悩ませてきたのは俺だから。ほかの理由ならいくらでも聞く。あと四年待てって言うなら待つ。でも、こんなのは違う。地声がどうとか――そんなもののために待ってたわけじゃない!」


 強い感情を周りにほとんど見せない柊吾が、声を荒らげて全身で叫ぶ。同時に、朱莉の首元にぽつりと温かな雫が落ちてきた。

 ひとつきりのその雫が、抱えきれずに溢れた柊吾の不安だと気づく。


「声、聞こえなくて。朝だって、朱莉がこっち見なくなって。俺まだ朱莉に届くのかって……ごめん、そういうの、隠す余裕がもう……」

「朝……って」


 毎朝、彼の部屋の窓が開いた。

 それはいつも朱莉が門を開けるときに。ちょうど隣家の二階から、朱莉の姿が見えるだろうときに。


 毎日、毎日。互いに一分一秒とずれずに生活しているわけがないのに。

 三年もの間ほとんど欠かすことなく続いた朝のたった十秒。その時間を望んでいるのは自分だけだと、ずっと思ってきた。


「わたしだけじゃ、なかった?」

「違う。俺のほうがずっと朱莉を欲しがってる。一瞬でも会いたかった。毎日、朱莉を見てたかった。だって俺は――」


 声が途切れる。続く言葉を彼自身が怖れるように、躊躇いに吐息を震わせる。


 朱莉は指先で柊吾の胸を叩いた。そこに、彼の積もらせたものがあるはずだから。聞かせて欲しいと、自分たちはずっとそうしてきただろうと、指先で乞う。


 ぎっと奥歯を軋ませる音を、耳元で聞く。


「ずっと……ずっと先でいいから。朱莉と、家族になりたい」


 彼の中に積もった三年と三ヶ月を知る。願う言葉の終わりは、ほとんど息の音だけで贈られた。

 背中に回された腕は強く、朱莉を閉じ込めて離そうとしない。その力とは真逆に、柊吾の声は細くかすれる。


「何の約束もいらないから。こういう俺で……朱莉と一緒に、いてもいい?」


 自分が重荷になると言わんばかりに。どこまでも朱莉を優先して、彼が問いかけてくる。


 朱莉がゆっくりと胸を押したら、柊吾の腕がびくりと震えた。


 ようやく顔が見える。

 自由に身動きが取れるようにお互いの距離を開けてから、わずかに赤を滲ませた彼の目元に手を伸ばす。湿り気のある目尻を軽く指でなでたら、そんな朱莉の挙動ひとつにさえ彼は動揺を見せる。あれだけ完璧な兄をこなしてきた人が今、何もかもさらけ出して、朱莉の答えを怖がっている。


 ――わたしにも、ある。


 同じ三年三ヶ月を、朱莉も重ねてきた。深く深く積もらせて、何度も迷って、やっとその全てに名前をつけた。

 柊吾が話を聞かせてくれたら、次は朱莉の番だ。いつだって、自分たちはそうだった。


 初めに、言葉にしようとした。けれど、どんな言葉も違う気がして、代わりにこぼれ落ちたのは涙だった。


 柊吾の左手を掴まえる。この傷を讃えたいのだ、誇りたいのだと。両手ですくった彼の手を自分のひたいに押し当てる。緊張に冷え切った手に、朱莉の溜め込んだ熱を移す。

 そうしたら、柊吾の震えが止まった。けれど。


 ――足りない。


 その手を包んで、自分の胸元に引き寄せる。子ども心に美しいと思った手は、たくさんの傷を残して、何より愛おしいものになった。

 朱莉の想いを汲み取るように、柊吾が口を開こうとする。けれど。


 ――まだ、足りない。


 彼の声を、視線ひとつで止めた。まだ、自分の番なのだと。


 傷跡に唇で触れる。この傷が欲しいのだとこいねがう。

 それでも伝えきれないすべてを託すために、震える唇を開いた。


 どうしても渡したいものがある。


 ――声を。


 いっさいの調整を解いて、息を通して。

 体が拒絶するのなら、心に手伝わせる。強張って動かない喉に、気持ちで言い聞かせる。


 何を恐れることもないはずだと。

 九年前、彼が笑って教えてくれた『誰にも負けない素敵な声』だ。ここまで想って、守って、待ち続けてくれた人が。そんな柊吾が特別にしてくれた声を、誇らずにいられないだろうと自分に語りかける。


 届ける。

 朱莉にしか渡せない、柊吾でなければ受け取ってくれないとっておきの贈り物を。


「……ゅ……ちゃ、ん」


 喉を縛る鎖を砕く。

 零れ落ちた最初のかすれ声は、あとへ続くほど音になった。


 甲高く、独特の甘ったるさを持つ、この声は。

 世界一の宝物のように受け止めてくれる、たったひとりに。


 瞳を揺らした柊吾が、聴覚以外のすべてを閉じるようにまぶたを下ろす。彼のまつ毛のささやかな震えが、朱莉の声を後押ししてくれる。


「き、こえ、る?」

「……聞こえるよ」

「わたし、の声は……みんな、柊ちゃんに、あげ、るから」


 まだぎこちない声ひとつひとつに、積もらせてきたものを乗せて。ゆっくりと時間をかけて送り出すと、応えるように柊吾がまぶたを開いた。彼の左手はすっと朱莉の手の中から抜け出して、涙に濡れた頬に触れてくる。右手も追いかけてきて、冷えた朱莉の両頬を温めながら、親指で涙を拭ってくれる。


「だ、から。わたしに、柊ちゃんを……」


 ようやく戻った声を、止まらない涙が飲み込んでしまう。まだ伝えきれていないのにと、詰まる息を何度も吐いては唇を噛む。


 吐息が肌をかすめるほど近くに、柊吾が顔を寄せてきた。


「朱莉、ふたつでいい」


 彼の左手の人差し指が朱莉の口元を二度叩く。そうやって伺いでもたてるようにしてから、同じ指で軽く唇をなでてきた。


「許しをくれるなら。あとふたつだけ、朱莉の声が欲しい」


 お互いのひたいが触れ合う。

 朱莉は涙の狭間を掻い潜って、柊吾のねだった声ふたつを贈る。そこに、三年三ヶ月のすべてをこめて。


「……すき」


 優しく重ねる唇で、柊吾が返事をくれた。



 * * *



 夜七時の十分前、ふたりで仁科家の玄関を開けた。


 リビングからは、ぴこぴことおなじみの電子音が聞こえてくる。今夜はずいぶん父の帰りが早いのだなと思った。どうせまた、なんとかさんの服だか靴だかを集めるのに奔走しているのだ。


 それじゃあと柊吾の手を離そうとしたら、離れる前に一度強く握り直された。


 どうしてか、先に柊吾が家に上がる。慌てて朱莉も靴を脱いだときにはもう、柊吾はリビングのドアをノックしていた。


 友恵のどうぞという声を受けて、柊吾がドアを開ける。そして、いくらか緊張した面持ちの彼は、戸惑う朱莉を手招いた。


 リビングでは、やはり父、義之がラグに座り込んでゲームに精を出している。そんな義之が振り向いて、柊吾の顔を見てうなずいた。コントローラーを置いて、バチンとゲーム機の電源を落とす。あと十分が口癖の父らしからぬ行動に、朱莉はさらに戸惑いを深める。


 柊吾がラグに正座した。義之は嬉しそうに、キッチンに顔を向ける。


「友ちゃんもおいで」

「はいはい」


 友恵はすぐにやってきて、エプロンを外してから義之のとなりに正座した。自分だけが立っているのもおかしくて、朱莉は状況がわからないまま柊吾のすぐ後ろに座る。そうしたら、柊吾は「となり、来て」とラグをぽんぽんと叩いた。


 ますますわからない。

 おずおずと移動して、柊吾のとなりに正座した。


 笑顔の両親の前で、柊吾が一度深呼吸してから口を開く。


「あと四年待つのが最善とわかっています。それでも今の自分で、朱莉さんとお付き合いさせてください」


 そうして、柊吾は深々と頭を下げた。

 朱莉の目尻にじわりと涙がこみ上げてくる。口を引き結んでその熱さに耐え、彼と同じ姿勢を取る。


 義之の小さな笑い声が聞こえた。


「まったく、柊くんらしいなぁ。僕らの許可なんかいらないんだよ」


 義之は立ち上がり、リビングボードの引き出しを開けた。戻ってきて、手にした物を柊吾の前に置く。


 ラグの上に置かれたそれは、仁科家の鍵だった。


「柊くんのことだから使いはしないのだろうけど。それでも渡しておきたいんだ。受け取ってくれるかい?」

 

 鍵に伸ばした柊吾の指はかすかに震えていた。両手で丁寧に受け取って、もう一度頭を下げる。その隙に、朱莉は目尻を指で拭った。


 友恵がぱんっと手を叩く。


「まぁ、学生婚な私たちにそんな気を遣うことないのよ」

「え!?」


 朱莉が声を上げると、義之があわあわと友恵の腕を引っ張った。


「友ちゃん……僕の立場が」

「柊くんに頭下げられたら、黙っておけないわぁ」

「それは確かに僕も心苦しくあったけど。けどねぇ……」


 朱莉はぽかんとして柊吾と顔を見合わせたあと、そろって吹き出した。リビングに跳ねる声は子どものころの音色とは違って、けれど変わりなく優しく明るい。


「さ、さ。晩御飯にしましょ。久しぶりに柊くんもいるから、母さん頑張っちゃいました」


 テーブルを見たら、今日は柊吾の箸もしっかり並んでいる。


 朱莉はそっと柊吾の袖を引いた。


「悠はいいの?」

「今宵は早めに結衣ちゃんと外食済みだそうです。そろそろ帰ってくると思うよ」

「え、ずるい」


 朱莉がむっとすると、半眼の柊吾にじとりと見られた。


「前々からそこ引っ掛かってるんだけど。俺、結衣ちゃんに負けてない?」

「友だちは……別枠ということで」


 気まずく目を逸らしたら、ぽんと頭をなでられた。


「冗談だよ」


 少年じみた顔で笑った柊吾は、仁科家の鍵を丁寧に鞄にしまった。


 満足顔で伸びをしていた父が思い出したようにテレビを振り返って、力なく肩を落とす。


「あ……セーブ、してなかった」

「俺も一瞬、良いのかなって思いました」

「ベルさんちのジャラリと光るネックレスが……」

「ちなみにそれ、ベルさんちのつややかなバングルと、あやしく光るカフスが必要ですけど」

「……んへぇ……柊くん」

「はい。手伝いますね」


 友恵がすぐさま察知して、キッチンで声を張る。


「食べてからにしてね、ふたりとも」


 義之と柊吾のぴたりとそろった返事を聞きながら、朱莉は洗面所に向かう。すぐに、柊吾が後を追いかけてきた。廊下を一緒に歩くのなんて、三年よりもっとブランクがある。


 ふっと柊吾が笑い声をこぼすから、朱莉は首をかしげてとなりを見上げた。


「あ……こういうの、久しぶりだなぁと思ってさ」

「わたしもちょうど思ってた」


 洗面所の三面鏡にふたり並んで映ると懐かしさがあって、けれど三年前とはふたりとも違っている。鏡の中の柊吾に笑いかけたら、朱莉の頬を涙が滑り落ちていった。



 当たり前のようにそばにあったものが、手の届かないものになって。それぞれに時間を過ごし、互いの心には溢れるほどの想いを積もらせた。


 その先で。

 これから新しい当たり前をふたりで積み重ねていこうと、涙混じりに笑いあって。


 高校三年、二月十七日。

 朱莉と柊吾は、三年と三ヶ月離していた手を、もう一度かたくつなぎ合わせた。



〈二章 恋は静かに積もるもの  了〉

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