第40話 弟妹愛は海より深く

 * * *


 土曜日。

 予備校内模試のあとも、朱莉は自習室で閉館時間いっぱいまで粘ってから帰る。こうすれば、柊吾のバイト時間を調整してもらわずに済む。ここまでしてもらって受験に失敗するわけにもいかず、朱莉は毎日必死で机に向かっている。


 今週は藤矢からのLINEコールがパタリと止んで心安らかだ。父が学校を介して掛け合ってくれた効果が早くも出ている。おかげで集中力も格段に上がった。


「仁科さん、このまま粘れば志望校ランク上げてもいけそうだよ?」


 帰り際、チューターにそんな声をかけられて、適当に笑って流す。

 玄関ロビーで柊吾の到着を待っていたら、悠がとなりに並んだ。


「朱莉、志望校変えるの?」

「私立なら距離的に英星まで。あとは国公立どうしようかなぁってところ。結衣もそんなこと言ってたわ」

「……知ってる」

「志望校合わせたりはしないのね」

「俺に合わせたら、結衣さんが降りてくることになるから。お互いできる範囲で上狙う」

「いいね、そういうの。寄りかかってなくて」

「そんな大層なものでもないよ。朱莉が贔屓目に見てるだけ」

「そうかしら」


 つくづく、良い恋の手本のように思えるふたりだ。

 うまく支え合いながら、それでいてちゃんと自分で立っている。今まさに推しに寄りかかっている朱莉には到底できない。


「ま、頑張れ。応援してるわよ」

「おう。頑張ります」


 表に古澤家の車が停まる。後部座席にふたりで素早く乗り込むと、急くように車は走り出した。


 予備校帰りは気楽でいい。悠が一緒に乗ってくれるし、時間も短い。登下校は朱莉しか乗り込まないせいで息が詰まってしまう。


 初めこそ助手席にいた朱莉だが、三日ほどで後ろのシートの住民になった。あまりに近くて心臓に悪いので、今は柊吾の真後ろに落ち着いている。


 十分ほどで古澤家に到着し、車はそのままガレージに入る。


「今日もありがとう」


 毎日必ず礼は伝えて、朱莉は仁科家に向かう。それがいつもの流れなのだが。


「あ、朱莉。ちょっと時間ちょうだい」


 今夜は柊吾に呼び止められた。悠はさっさと家に入ってしまい、朱莉は柊吾とふたりで車の側に立つ。


「あのね。ちょーっと助けて欲しいことがあって」

「うん? 珍しいね」

「五択までは自力でしぼったんだけど、こっから決められなくてさーぁ」


 と、朱莉にスマホ画面を見せる。順にスライドしていくのはメンズのヘアスタイル画像だ。


「どれが似合いそう?」

「似合いそうって……柊ちゃんに?」

「もちろん。この辺無難かなと思ったんだけど、なーんか悠とかぶって面白くないしさ。もうちょっと攻めたのも選んでるうちによくわからなくなった」

「……切るんだ」

「うん、ダサいって言われてしまったので」


 誰に言われたのかとは聞けなかった。柊吾がここ二年ほど変えなかった髪型を誰かのために変えようとしているのが、やたらに心臓を殴ってくる。そんな鍛え用のないところを狙わないで欲しい。殴るならせめて手の甲ぐらいで。できれば殴らない方向で。


 大事な人がいるのだろう。朱莉がこんなに推しているのだから。大学なんて環境で、周りが彼を放っておかない。


 五択のヘアスタイルを順に確かめ、戻って進んでを繰り返す。


「どれもあんまり?」

「きっとどれもありだと思うけど……」


 推しに好みを押し付けるのはいかがなものか。

 ためらった末に、朱莉は自分のスマホを取り出した。フォルダにしまっておいた画像を呼び出して表示する。


「こういうのは?」


 藤矢に出会った日に樹生から教わった検索ワードでヒットさせた一枚だ。これを持っていたところでなんにもならないのに、ひと月近くもフォルダの中にしまっておいた。


「なぜ……こんな万端の備えを。つまり朱莉ちゃんも俺のことダサいって思ってたってことぉ!?」

「そんなはずないじゃない! ただ、似合いそうだなって、たまたま保存しただけ。そんな深読みするなら見せません」

「わー! ごめんごめん! 嬉しくてちょっと慎重になっちゃっただけだってぇ!」


 柊吾はカメラを起動して、朱莉のスマホ画面をカシャリと収める。


「へー! こういうのかぁー。俺似合うかな。似合うと良いなぁ、朱莉のおすすめ」

「柊ちゃん……はしゃぎすぎ」

「はしゃぐでしょ。家族が自分のために探してくれたものって嬉しくない?」

「それは。嬉しいかも」

「ね!」


 くしゃっと朱莉の前髪を乱すなで方をして、えくぼをうっすら作って柊吾が笑う。その笑顔を独り占めする誰かがいる。当然だ。推しは生身の人間なのだから。


 推しのことを愛でるなら、推しが選んだ大切な誰かのことも愛でよ。それこそが真の推し事だ。


 この夜、朱莉は自分の推し事流儀を何度も再確認してから眠りについた。



 * * *



 二十歳を迎えてすぐに俊也に連れて行かれた居酒屋は、柊吾の行きつけになった。酌み交わす相手はいつも俊也だ。柊吾も悠のことをとやかく言えない。鎖国こそしていないが、学内で広い交友を築いてもいない。


 飲むのはいつも日曜の夜。翌日が俊也の定休日だし、古澤家には必ず母がいる。柊吾が安心して家を空けられるのは日曜ぐらいだった。けれど、そろそろ緩めてもいいのではないか。最近の悠を見ているとそう思う。



 先に来ていた俊也が、半個室の座敷でよぉと手を挙げる。軽く会釈して向かいに座った。


「学祭お疲れ。都美が一生の思い出になったって喜んでた」

「……人を脅しておいて、よく言う」


 カクテル系からひとつオーダーして、あとは料理を適当に。

 おしぼりと突き出しをもらう。俊也のほうはオーダー済みだったレモンサワーを受け取った。もう乾杯を気遣うような遠慮のいる仲ではないので、俊也は断わりなく一杯目に口を付けた。


「で? やる気出るオーダーしてくれるじゃないか。ほんと古澤兄弟は楽しませてくれるよね」

「悠のアレはいつも何て頼んでるんですか」

「えーとね。かっこよく、女子が取っ付きにくく、威嚇できて、でも教師に叱られない程度。で、校内一かっこよく」


 くはっ、と笑ったところで、同じくレモンサワーが届いた。


「でも、変わったね。前ほど目元隠さなくなったし、良い傾向じゃないか」

「結衣ちゃん様々なんですよ」

「あの子も良い子だよなぁ。樹生の学校生活が充実してて羨ましいったらない。高校生ってあんな楽しそうだっけ?」


 で、と俊也は頬杖をついた。片手でスマホをタップして、昨日柊吾が送っておいたスタイル写真を表示させる。


「兄は兄でまた思い切ったのを。ここまでいったら襟足消えるし耳完全に出るけどいいの?」

「こだわって伸ばしてたわけじゃないんで。ただ、俺に似合います?」

「そこは大丈夫でしょ。まさに、柊にお任せオーダーされたらこの系統で攻めるのになぁと思ってたようなやつ」

「ハイブリーチの緑じゃなくて?」

「さすがに冗談。だいたい柊が悪い。地味め、地味め、パッとしない社会人風。毎回枯れた大学生作らされる俺の身にもなって欲しいよ」

「全力で応えてくれる俊也さんが好きですよ」

「やめて、彼女ひとすじの僕をクラっとさせるな」


 ころころとグラスの氷を鳴らし、レモンサワーをふた口あおった。そこで料理が運ばれてきて、お互い箸を持つ。


「見立てたのは? 弟?」

「妹です」

「古澤家、妹いたっけ」

「隣家にいるんですよ」

「あー、樹生の友だちの中で僕がまだ会ってない子だ。えー……あかりんちゃん!」


 言いやすいのか言いづらいのかわからない、微妙なラインの呼称にぶふっと笑う。澄まし顔の朱莉がそう呼ばれていると想像したら、なかなかギャップが楽しい。


「写真ないの?」

「あー……りますね。猫耳ついてますけど」


 文化祭のときにここぞとばかりに仕入れた朱莉の写真を表示する。

 俊也はほぅと目を細めた。


「つまり、この子と並んでバランス取れるようにってことか。それでカラー無しなわけだ」


 レモンサワーを喉に引っ掛けた。ごふふとむせて、慌てておしぼりで口を押さえる。


「うわー、柊でもそんな反応することあんだね」

「俊也さんの発想が斜め上過ぎただけですよ!」

「違うの? かけらも?」


 枝豆チーズをひと切れ持っていきながら、俊也が笑う。柊吾はおしぼりを離して、あらためてレモンサワーに口をつけた。


「ストーカー撃退の一環みたいなものです。ほんと、誤解なきよう」

「えー、こんな写真後生大事に持ってんのに?」

「家族写真持って何が悪いんですか。悠の写真だって何十枚と入ってますよ。見ます? 最高に可愛い弟コレクション」


 じとりと睨みつけると、ひっひと笑われた。


「はいはい。妹な」

「そうです」

「ちなみにこの可愛い猫さん、いつ成人なさるの?」

「ノーコメント。妹の安全のために明かせません」


 ぶすっとそっぽを向いたら、べしべしと背中を叩かれた。完全に子ども扱いされている。腹立たしさにグラスを煽ったら、すでに空だった。逃場がなくて、溜めた息を吐くしかない。


「そんなに妹、妹って念入りに吹聴するもん?」

「ちゃんと俺の立ち位置を周りに理解してもらわないと厄介ですから」

「慎重すぎない? 普通にご近所さんでいいんじゃないの」

「駄目です。朱莉は中学時代あれだけ騒がれた悠の、同級生で、異性で、となりに住んでるんです」


 俊也はからかいの表情を消した。空になったグラスをテーブルの隅に寄せて、メニューを広げる。


「なるほど。中学生って振り切れるとえげつないことするよな」

「俺、なんにも見えてなかったんです。悠のことも、朱莉のことも。そのくせ、兄貴面して。俺がちゃんと線引いてやるべきところを間違えてたんです」


 柊吾は呼び出しボタンを押して、俊也にメニューを渡す。やってきた店員に俊也がささっと追加オーダーを通し、メニューを畳んで片付けた。


「当時……十九か。立派に兄貴だったんじゃないの?」

「どうでしょう。今も悠は俊也さんにばーっかり愚痴こぼしてるみたいですし?」

「樹生がいるから余計に入り浸ってるんだよなぁ。人生相談所でも兼業しようか」

「いつも弟がすいません」

「愉快でいいよ。客がいる時はちゃんとわきまえてくれてる。年齢以上にしっかりしてるよ、あの子らは。柊ももう少し気抜いていいんじゃないの?」


 俊也は新たに運ばれてきたグラスを掲げ、柊吾の前で揺らした。柊吾もグラスを手にし、カンッと音をたててぶつける。


「まー、そんな大事な猫ちゃんのこれからを守ってやれるように。僕が柊くんを最強の彼氏に仕上げてしんぜよう」

「お願いですから、兄に仕上げてください」

「はいはい。今はね」

「……俊也さん。いい加減にしてくださいよ」

「意固地になると余計勘ぐりたくなるぞ、若者」


 柊吾が「あー」と濁った声をもらすと、俊也が陽気にけらっけらと笑った。


 誰も彼も自分の弟妹愛を疑ってかかるから、三次元はつくづく面倒なのだ。

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