第67話 ふたり目の挑戦者

 * * *


 

 雨続きの六月の貴重な晴れ間、講義の終わりにチラシを配られた。就職活動向けのメイクアップセミナーである。卒業生である起業家が毎年学内で開催している人気のイベントらしい。先着順だが、メイクだけでなくヘアアレンジ講習も受けられる。


 短期学部生も一緒に受講する時間帯だったから、本年就職活動者をメインターゲットに配られたものだ。四年制で二年めの織音には就活などまだまだ先の話ながら、談話室でチラシをぼんやりと眺め、ふぅむと口を尖らせる。

 チラシを手に、彩葉いろはがテーブルの向かいに座った。


「織音。これ行くの?」

「あたし不器用だからさ。早めに学んだほうがいいかなとか……さすがに就活で毎度毎度となりのスタイリストの手をわずらわせるのは……ねぇ」


 織音が就活するというとこは、樹生だってそうなのだ。織音の準備に時間を割いてもらうわけにはいかない。

 もっとも、あの出来過ぎ魔神は最短速度で難なく就職を決めるのだろうが。


「そういやさ、織音。この講師、うちらの母世代よりちょい上ぐらいだけど、とんでもない美魔女なんだよ」


 彩葉がスマホ画面を見せてくる。


「これで五十越えてるって」

「うぇぇ、ほんとにぃ!?」


 織音は仰天して画面に見入る。ホームページの写真だから実物ままということはないだろうが、年齢を感じさせない美しさだ。


「えー、いいなぁ。これ参加したらあたしもこうなる?」


 織音がうっとりして言うと、彩葉は笑った。


「さすがにセミナー一回では無理じゃない?」

「でもきっかけには良いよねぇ」


 そんな話をしながら、早速織音はチラシ下部の参加申し込みに記入を始める。先日の手痛い合コン以降、出会いより自分磨きへとシフトチェンジした。これも何かの機会だろう。


「お?」


 講師の名前に目を止めて、にんまりと笑う。美魔女起業家は、その名を土田つちだ 紗綾さあやというらしい。見事な『さーやちゃん』ではないか。

 かれこれ二年半以上も友人をやっているのだから、そろそろ樹生がでろっでろに惚気けるところが見たい。一度ぐらいチーズフォンデュ並みに溶けて欲しいのだ。

 樹生をいじるネタにしてやろうと、申し込み用紙部分を切り取ってからチラシを鞄にしまった。


「ところで、ね。この間の残念食事会。中条さんっていたじゃない?」

「あぁ、頑張ってた人ね」

「あの人がさ、どうしても織音にあらためて謝罪したいって連絡してきたんだけど。どうしたい?」


 渋い顔で彩葉がスマホをテーブルに置いた。中条 蒼大そうたと彩葉のLINEトーク画面が表示されている。


「履歴遡んないでいいよ。ぐだぐだ謝ってきて私が罵倒しまくってるだけだから」

「えー、彩葉にときめくじゃん」

「そうでしょう。こう見えて中身はイケメンなのよ、私」


 これまで当たり障りのない会話しかしなかった彩葉と、こんな風に会話できるようになった。あんな残念な合コンにも意味はあったのだ。


 スマホ画面には、誠意の限りを尽くしたような文章が並んでいる。あの夜の蒼大の態度をもう一度思い浮かべたら、話を聞くぐらいはしてもいいのかもしれないと思った。


「良いよ。謝罪受けるだけなら」

「私も同席しようか?」

「大丈夫。昼間のイノハラコーヒーにしたら、おかしなことにはならないでしょ。ただし江幡えばたさん連れてきたら警察呼ぶって言っといて欲しい」

「了解。即通報するって送っとく」





 迎えた第二水曜日の午後三時過ぎ。

 雨の中、大学近くのイノハラコーヒーまで、わざわざ中条 蒼大はやってきた。ちょうど午後の講義が休講だったのだという。


 雨の日は不器用な織音の敵で、くるりんぱアレンジヘアの崩し具合がいまいち決まらない。こんな日にあまり見たくない顔を見るのだから、夜は樹生と一緒に食べる約束をしている。それぐらい手を打っておかないと、幸、不幸のバランスが悪い。


 蒼大は穏和さ四、申し訳なさ六ぐらいを混ぜ込んだ雰囲気で会釈をして、織音の正面に座った。


「お時間いただいて、ありがとうございます」

「敬語いらない」

「……ごめん」


 織音が店員に声を掛けると、蒼大はメニューも見ずにアイスコーヒーを注文した。続いて織音がカフェオレを頼み、店員は去っていく。


 少しの間を空けて、蒼大が口を開いた。


「この間は本当に、ごめん」

「食事会のことだけなら、中条さんは関係ない」


 頭を下げたがる蒼大を止める。けれど、蒼大は首を振ってなおも続けた。


「俺、昔は祐慎ゆうしんのイエスマンなとこあって。元々そんな陽キャじゃなかったし、どうにか祐慎に話合わせないとって感じで。言い訳がましいけど、ちゃんと謝りたいってずっと思ってたから」


 ここで五年前のことまで蒸し返されるのかと、織音は盛大にため息をつく。テーブルにカフェオレが届くが、口をつける気にもならない。


 店員がお辞儀して離れるのを待って、蒼大がまた口を開く。いつまで続くのかとうんざりしながら、忙しそうに組んでほぐれてを繰り返す彼の指を観察する。それぐらいしかやることがない。


「本当は……五年前。祐慎と付き合う前から三原さんのこと知ってて。明るくて物怖じしなくて、気持ちいい子だなって思ってた。だからこの間会えたとき、俺嬉しくて。けっこう舞い上がって」


 彼の指が動きを止めたら、話はおかしな方向に進んでいた。


「もう、印象は底の底だってわかってるけど。俺に機会をくれないかな」


 織音がまばたきしている間に、蒼大はまた頭を下げた。


「五年経って、あの頃より少しはマシな人間になったと思う。まずは俺のこと、知ってみて欲しい」


 何の罰ゲームだろうかと、下がったままの彼の頭を凝視する。


 ――舐められんと、食ってかかったれ。


 樹生のくれた言葉を思い出す。もういいやと、被っていた猫を引っがした。猫はぶにゃんと鳴いて走り去る。


「今度は、どんな賭け?」

「っ、違う! 賭けなんかじゃ」

「あれ以来、男の人が触ってくると鳥肌立つんだけど。何なら蕁麻疹まで出るけど?」


 束の間、言葉の咀嚼に失敗したような顔をして、蒼大はおずおずと尋ねてきた。


「この間のも?」

「そ。男の人相手なら誰でもああなるの、あたし」

「でも……迎えの、彼は? 触るどころか、その」

「樹生は別格だから。そこら辺の人と一緒にしないで。一年がかりであたしの体質改善に付き合ってくれたの」

「だったら、俺も一年かける」


 挑むような目を向けられて、一瞬織音のほうが怯んでしまう。飲まれるなと自分を叱り、膝の上でぎゅっと拳を握る。


「無理、でしょ。中条さんに樹生と同じことができると思えない」

「彼は、そんなに難しいことを?」


 難しいかと言われると、そんなことはない。ただ根気よく、織音の閉ざした扉を優しく開いていってくれた。


「俺が原因の一端なら、協力したい。何をすればいい?」

「髪に。一日、一回……触るだけ。少しずつ、あたしが耐えられるところまで」

「それだけ?」


 拍子抜けしたような確認に、織音は目を伏せた。言葉にすればシンプルだ。人が聞けばたったそれだけと思うような時間が、織音には特別だった。けれど、その特別感を表現する言葉をどうしても思いつけずに、ただうなずいて返した。

 

 ひどくもどかしい。簡単なことだと思われるのが悔しい。樹生のことを軽んじられたようで、胃のあたりをぐるぐるとへびが巡るような気持ち悪さがある。


「いま、試してみてもかまわない?」


 まるで、その程度なら自分にもできると。

 そう思われるのが嫌で仕方がない。


 だから織音はうなずいた。深呼吸を一回挟んで、まっすぐ蒼大の顔を見る。

 蒼大はゆっくりと手を伸ばして、織音の頬にかかる髪に触れた。


 間髪入れず、ぞふりと悪寒が抜けた。

 織音は咄嗟に体を仰け反らせ、ソファの背もたれに全体重を預ける。ぐっと奥歯を噛みしめながら、ぞくぞくと不快に疼く両腕で自分の体を抱きしめた。

 詰めた息をゆっくり震わせながら押し出して、肩を大きく上下させて呼吸を整える。そうして不快の波をどうにか乗りこなす。


 樹生のアレンジじゃなくて良かった。

 今日の髪は、不器用な織音が作ったくるりんぱだから。これならまだ許せる。樹生が仕上げてくれた髪だったら絶対に触られたくない。


「……ごめん」

 

 絞り出すようなかすれ声に顔を上げたら、後悔に切りつけられたような顔の蒼大と目が合った。


「謝って、何が変わるの」


 謝罪すら受けたくない。完全に気持ちにシャッターをおろし、鳥肌の立つ両腕をさすりながらそっぽを向いた。


「毎日通うのは無理だけど。本当に協力させて欲しい。原因である俺を堪えられたら、克服できるかもしれないだろ?」

「根本原因は江幡さんじゃん。中条さんはオマケでしょ」

「それでも、何もしないよりはいい。三原さんだって、ずっとこの間の彼だけってわけにはいかないだろ? だって、その……」


 言い淀まれて、半眼で睨む。少し怯んだ蒼大は、遠慮がちな声で続けた。


「彼氏とかじゃないんだって、あの後、ご友人から聞いたから」


 痛いところを突いてくれるものだ。織音自身もわかっている。いつまでも樹生を頼っているわけにはいかない。樹生には『さーやちゃん』がいて、いま織音が彼に頼っていられるのは、『さーやちゃん』の目の届かぬ場所にいるからだ。


「俺の恋愛感情は度外視でいい。三原さんの抵抗が少しでも軽くなるよう、俺にできることをしたい」


 五年前の蒼大のことは、正直にいって記憶にすら残っていない。耳障りな笑い声のどれかが彼だったということしかわからない。その程度しか知らない相手だ。


 だったら、構わないじゃないか。

 これが何かの賭けだろうが、騙すための布石だろうが、下心からの産物だろうが。初めから信用しなければ、何が起きても自分の痛手にはならない。


「いいよ。とりあえずLINE交換でお友だちからどーぞ。ギブアップしたくなったら教えて」


 全く期待していないと言ったも同然の織音に、蒼大が苦い笑みを浮かべる。けれど彼は何も言わず速やかにスマホを出して、LINEアカウントの交換に入った。


【 中条蒼大 >> よろしくお願いします 】


 織音は適当なお辞儀スタンプだけで返した。冷めきったカフェオレを一気に飲み干す。イノハラコーヒーのカフェオレは、織音好みの甘さではなかった。



 店を出て、挨拶のために向かい合わせで立つ。蒼大の背の高さに威圧感を感じて、織音はつばをこくっと飲み干した。


「……背、高いね」

「百七十七。まぁ高いほうだとは……怖い?」

「少し。あまり距離を詰めないでくれたらありがたいかも」


 樹生と六センチしか変わらないのに、ずいぶん違って見えるものだ。

 蒼大はうなずいて一歩下がった。そして、憂い混じりに口角をゆるく上げる。


「LINE、送るよ。訓練できるタイミングがあったら俺が出向くから」

「どうぞ。あんまりマメじゃないけど」

「もちろん、気が向いたときで。それから、俺が告白じみたことをしたのは、一度忘れて」


 お先にと駅へ走っていく蒼大を見送って、織音はしばらくその場で時間をつぶす。蒼大と織音なら電車は逆方向で、乗り合わせることはない。わかっていても、足が動かない。


 ただ、元凶のひとつと訓練することにしただけなのに。自分が不誠実なものになった気がした。

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