第68話 モヤモヤには料理と買い物

 * * *


 夜七時半。


 梅じゃこご飯。なすの焼き浸し。鶏と豚団子の甘酢炒め。ほうれん草の白和え。さつまいものレモン煮。ポテトサラダ。水菜のサラダ。いんげんの胡麻和え。にんじんとツナの炒めもの。根菜の味噌汁。


 丸い座卓の上はパンパンで、どうしてこうなったかと織音は首をかしげた。


 インターホンが鳴って「ふぁい」と返事をしたら、樹生が入ってくる。


「織音、鍵はちゃんと閉めときて何回言うた……ら」


 説教を手土産に奥まで入ってきた樹生は、口をぽかっと開けたまましばらく動きを止めた。


「え、祭?」

まつんない」

「誰か他に来よる?」

「来よらん」

「……織音、カム」


 樹生は手のひらを下に向け、指四本をくいくいっと動かして織音を呼ぶ。それから、座卓のそばであぐらをかく。織音は樹生の真正面に正座した。


「たいへん旨そう」

「ありがとーございます」

「ただ、オレの胃袋は果てなき宇宙やない。実は壁がある」

「存じておりまぁす」

「何かあったな? 言ぅてみ」

「食べながらでは駄目かね? 冷めるのだが」

「織音の飯は冷めても旨い。けど、何や気にしながら食うと味が落ちる。オレはできる限り旨い状態で食いたい」


 眼鏡を外して座卓の隅に置いた樹生が、あぐらに頬杖でこちらの顔をやや下からうかがってくる。織音は長いため息ののち、ラグに指でくるくると円を描いた。


「いろいろありましてぇ。元カレのご友人とぉ、トラウマ克服訓練することになりましてぇ」

「……ほん」

「ちょっとアレコレ考えながらご飯作ってたら、こうなっちゃったかなぁ?」

「今すぐ断われ、そんなもん」

「でもさー。元カレほど邪悪じゃなかったし、五年経って改心してるっぽい。それに、いつまでも樹生に頼るのは違うしなって」

「何がちゃうねん。頼ったらええやんけ」


 ラグの短い毛足をむぎゅうと握って、織音は軽くうつむいた。


「樹生はいつか、さーやちゃんとこ行くじゃん?」


 あぐらの膝に乗せていた樹生の手が、ぴくりと反応を見せた。


「それまでに、あたし。自立しないと」

「……せや、な」

「だったらやっぱり、これ良い機会だなって思う!」


 バッと顔を上げたら、樹生は静かな目でこちらを見ていた。


「たっつ?」

「オレのほうが、甘かったな」

「何が?」

「いや、ええ。織音の言うとおりや。無理せん程度に頑張り」


 膝をぽんぽんと叩かれて、織音はほっとして肩の力を抜いた。樹生が納得するぐらいだから、今日の選択は間違いではない。


「ただし、トラブルになりそうやったら相談してくれ。それぐらいの手出しはええやろ?」

「助けて樹生サマぁって言う!」

「よろしい。お話は以上! 腹減った!」

「食べよう!」


 樹生はあぐらのまま座卓にくりっと体を回して、ぱあっと目を輝かせた。


「出た! 三原さんちの梅じゃこめし!」

「ほんと好きなー、それ」

「最高やん。金取れるで」


 手狭な座卓に取り皿を置き、ふたりの息を合わせて「いただきます」と言う。

 樹生は食事中、幸せそうに目を細めることが多い。そんな顔を見ていたら、自分の手料理の味がワンランク上がった気がする。


 こんな生活をいつまで続けられるのだろうかと考える機会が、日に日に増えている。


 彩葉や美桜に樹生の話をしたら、『さーやちゃん』は心の広い彼女だねと言われる。

 樹生は友人だから、一緒に食卓を囲っても、髪をいじられても、ふたりでキッチンに立ってもおかしいことじゃないと思ってきた。周りからはそう見えないのだと突きつけられて、自分の性別を強く自覚する。織音は女で、樹生には彼女がいて、この毎日は有限なのだ。


 あと二年もすれば、お互い就職活動に奔走して。いずれ自分たちはここを離れ、もしかしたらそれきり、すれ違うこともなくなるのかもしれない。


「そだ……今日、さーやちゃんのチラシもらった」

「は!?」


 織音はローチェストの上にある鞄を開け、就活向けセミナーのチラシを取り出す。


「ほらほら! さーやちゃん!」


 樹生はチラシを眺め「なるほど?」とつぶやき、すぐさま興味なさそうに目をそらした。梅じゃこご飯を食べて、みそ汁をすする。


「就活て、早すぎん?」

「食いつくのそっちかい……これも自立した織音サマになるための活動の一環」

「そらまた殊勝な」


 織音はチラシに目を落として落胆した。オーバー五十の美魔女、土田つちだ 紗綾さあや講師は全く効果がなかった。顔写真の載っていないチラシでは盛り上がりにも欠ける。


 やっぱりこんなチラシぐらいじゃ、樹生は彼女の話をしてくれない。連絡を取っている素振りも見せないし、大阪にいる彼女に会いに行く気配もない。もっと惚気けてみせて欲しいのに、ともすれば彼女などいないかのように振舞うから困る。


 期待外れのチラシを鞄に戻し、織音も再び箸を持つ。

 

「さーやちゃんは、何さーや?」

「……おかじま」


 岡島、丘島とあれこれ漢字を当てはめると、樹生の彼女がおぼろげながら実体を持ち始める。よしよしと、織音はその姿をどうにか掴もうと試みる。


「写真とかないの?」

「そら、あるけど。オレは見せびらかさん主義」 

「ケチ」

「そんな見たいもんかぁ?」

「たっつが惚気けてくれたら、少しはやる気出るじゃん」

「さーやの写真で何のやる気が出んねん」


 くはっと笑って、樹生は甘酢炒めを取り皿によそう。


「美味しい?」

「めっちゃ旨い。織音ちゃんのこの器用さがなーんでヘアアレンジに発揮されへんのか、ほんまに不思議でならんよ」

「最初よりはマシになったでしょーが」


 織音がへそを曲げると、樹生はふいに真剣な目でこちらをじっと見つめてきた。


「……七十点」

「厳しいし!」

「崩しがな、もっとこう、こう……食って片付けたら指導する」

「熱心!」

「自立した織音サマになるんやろ? ほな練習あるのみや」

 

 自立とは崩し加減を極めることだった。今夜の指導は厳しそうだ。



 * * *



 蒼大との訓練は、いつも夕方。

 織音の最寄りまで蒼大が来るのでは、時間も交通費もかかりすぎる。蒼大はそれでいいと言うが織音は心苦しい。交渉の末に、織音が電車で二十五分の平土井ひらどい駅まで出向くことで落ち着いた。


 平土井駅は近隣でも大きな駅で、駅前に飲食店が並び、少し歩けばそこそこの規模のショッピングモールがある。ここまで一時間かけてやってくる蒼大を訓練だけで追い返すこともできず、カフェでお茶ぐらいはして帰る。


 六月の雨が上がる気を見せない第三週、蒼大は平日のうち三日も平土井へやってきた。


「三原さんの負担になるね。交通費、かかるだろ」

「それは、協力してもらってる側だから当然だし。かかるっていうなら中条さんのほうがかかってるじゃん」

「俺は好きでやってることだから……いい?」


 顔を合わせてまず、蒼大は織音に触れる。雨を良いことに傘で隠れて、髪に触れてカウントを取る。樹生とやってきた道をたどるように、今度は蒼大との特別を過ごす。


「一、二、さ――」

「っ、ごめん!」


 織音が一歩退くと、取り残された蒼大の袖に雨が染みを作る。今年の梅雨はずいぶん長い。


 鳥肌が立つのを見られたくなくて、じめじめと蒸し暑い中でも織音は長袖を着る。袖口を引っ張り念入りに腕を隠して、三秒と保たない自分を詫びる。


「謝ることない。そんな簡単なことじゃないって、ちゃんとわかったから」


 蒼大は織音を責めることなく、穏やかに微笑む。織音の正面に立つときは少しだけ背を丸めるように姿勢を悪くして、身長差でかかる圧を緩和しようと努めてくれる。


 五年前あの場で祐慎と一緒に笑っていたなんて嘘じゃないのか。そう思うぐらいに蒼大は善良だ。





 六月最終週に入るとようやく梅雨が明け、蒼大の袖を濡らす心配はなくなった。訓練は水曜日で通算六回目となったが、カウントは伸びそうにない。毎日顔を合わせるわけでもないから、当然ながら樹生のときのようにはいかない。


 いつもならこのあとカフェに立ち寄るのだが、今日は織音に外せない用がある。


「ごめんなさい。今から買い物に行きたくて」

「そこのイーヨンモール?」

「そう。もうすぐ友だちの誕生日だから」

「もしかして、おとなりの彼? 高砂さん、だっけ」


 織音がうなずくと、蒼大はしばらく考え込む素振りを見せたあと、意を決したように顔を上げた。


「ついてってもいい?」

「え!? 買い物に?」

「そう。親睦を深める意味合いで。この訓練、俺に慣れて信頼してもらうのがいちばん重要だと思うから。話ばかりしてるより、そういう時間も良いかもしれない」

「……それは、確かに」


 樹生のプレゼントを選ぶのに、蒼大を連れて行くのはいかがなものか。織音は眉間をきゅっと寄せてから、たふっと息をついた。友人のプレゼント選びに身構えすぎだ。


「じゃあ、ご意見もらえる?」

「もちろん」


 男性目線でないとわからないこともあるかもしれない。

 それに、誰かついていてくれると助かるのは確か。織音ひとりだと、やたらに道を尋ねられたり勧誘目的らしき声をかけられたりと、あまり落ち着かない。普段は樹生が魔除けになってくれている。


 そのあたりも少しずつ樹生離れしていかねばなるまい。織音は魔除け替わりに蒼大を連れ、イーヨンモールに向かうことにした。



 モール内で雑貨屋をいくつか巡りながら、蒼大とあれこれ会話する。話題はもちろん樹生のことだ。


「部屋に物を増やしたがらないから、かさ張るやつは駄目で。ほんとなら人類の理性を脅かす巨大クッションとか贈りたいんだけど」

「二度と立ち上がれなくなるやつね。あれは魔性だな。同じようなので枕になるサイズとかは?」


 蒼大が手近なところに積んであったビーズクッションを手に取る。


「使うかなぁ……それなら本格枕のほうが良いかも」

「けっこうガッツリしたもの贈りたい感じ?」

「今年はそんな気分」


 去年は樹生のリクエストで、薬用ハンドクリームとお高いお菓子という消え物だった。今年は何か、形に残るものを贈りたい。


 蒼大は予想の何倍も真剣にプレゼント選びに参戦してくれた。樹生の趣味や好きなものの傾向、普段着ている服のテイストなどを尋ねてきて、スマホをぽちぽちと指で叩きながらあれこれアイディアを出してくる。


「ハンカチとか、実用的なものは?」

「んー、もっと贈り物感が欲しい」

「良いボールペンとか?」

「使ってくれてるとこは見たい」

「となると、身につけるものか。装飾品……んー」


 蒼大をちらりと見る。顔ではなく、彼の耳だ。


「本当に、相談に乗ってくれる?」

「さっきから乗ってるつもりなんだけどな」

「男の人のピアスって、高い?」


 蒼大は左耳につけたピアスを指で押さえ、「あぁ」と笑った。


「確かに、使ってるところが目に見える贈り物か。値段はピンキリだけど、予算は?」

「一万円札一枚で戦える?」

「いっ!?」

「駄目? 追加する?」

「……いや。一枚出るなら、かなり選択肢ある」


 蒼大は何か言いたげな顔をしたものの、予算に合格をくれた。


「じゃあ、手頃なところから順に回ってみる?」

「そうする! 良かった。中条さんについてきてもらって正解だ」


 織音が笑うと、彼はまた複雑な顔をした。

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