第66話 甘やかされる夜
* * *
目を覚ましたら、頭がずんと重かった。ベッドのヘッドボードに、柔らかな明るさのライトが置いてある。ほんのりオレンジがかったその灯りに照らされるのは、どう見ても自分の部屋ではない。クローゼットの位置が織音の部屋と逆で、物が少ないぶんだけこちらのほうが広く感じる。
部屋の主はどうしたかと思えば、ラグに転がっていた。薄いタオルケットを掛けて、樹生はすすぅと寝息をたてている。
次いで、だぼっとしたTシャツを着ている自分に気づいた。下はゆったりしたリラックスパンツで、ウエストの紐をしっかり締め、余った裾を三つ折りにしてある。明らかに樹生の服だ。
まとめ髪は樹生が解いてくれたのだろう。アイロンでの巻きとアレンジのクセが残る髪が、自由気ままにふわふわと波打っている。
髪と同じくふわふわした頭で、ベッドを下りて樹生に近づいた。
「……ん、起きた?」
ぼんやりとした声とともに、樹生が寝返りをうつ。織音のほうへ顔を向けて、柔らかに息だけで笑った。
その顔を見たら、罪悪感が一気に吹き出す。
「ごめん……」
「いや。出かける前、ちょい熱いなとは思たんや。あんとき測るなりしたったら良かったな」
不調に気付かなかった自分が悪いのに。まるで自分の落ち度のように樹生が言うから、織音は首を横に振った。
「覚えてないんだけど。服、汚した?」
「盛大に水こぼしよったから着替えさした。どうしても……いろいろ視界には入った。悪い」
「いいよ、そんなの」
さすがに恥ずかしさはある。けれどそれを飲み込んで織音が笑ってみせたら、樹生も深く踏み込むことなく微笑を返してくれる。
「勝手に部屋入るんも、どうか思てな。とりあえずこっちで寝かした」
「ご、めん。枕とか汚れたかも……あたし、化粧落としてないのに……」
「オレが勝手したんやから、ええんやて。カバーの替えぐらいあるしな。ほんで、調子どない? 病院いわく普通に風邪やろてことやったし、動けそうやったら部屋戻るか?」
押し黙っていると、樹生が体を起こしてその場に座った。軽く寝癖のついた自身の頭をなでつけて、あくびをひとつ。そして、まだ眠そうな顔で微笑んだ。
「好きにしたらええよ。オレのことは気にせんと」
「……触って欲しい」
汗で湿って、到底綺麗とは言えない。けれど樹生はうなずいて、ゆっくりと織音の髪をなでてくれた。
「蕁麻疹までいっとんの、初めて見たわ」
「元カレ、全っ然無理だった。すっごい出た」
「一生克服せんでええやろ。想像の三倍邪悪やったで。あれでほんまに二十歳越えとんのか」
「ねー。うひぃーってなった。うー……全身洗いたい。気持ち悪い」
「……シャワーだけやったら、ええか。織音の部屋行こ」
樹生は立ち上がり、自室の鍵と織音の鞄を持った。それから織音に手を差し伸べてくる。
「立てるか」
「ありがとー」
掴んだ手はやっぱり、今の織音がいちばん安心できる手だった。
メイクを落とし、シャワーを浴びて念入りに髪を洗い流す。
ついでに歯も磨いてから奥の居室に向かうと、樹生が自前のドライヤーを準備して待っていた。
「ドライヤーぐらい、こっちにもあるのに」
「プロ仕様譲ってもらったやつでな、威力がちゃう。一回使うと手放せん」
織音が座卓の前に座ると、樹生が慣れた手付きで櫛を通す。洗い流さないタイプのトリートメントを両手に広げ、丁寧になじませていく。これも待っている間に自室から持ってきたのだろう。
「おもてなしがすごいのだが?」
「今日はどこまでも織音を甘やかしたろ思ぉて」
ドライヤーの風にあおられていたら、織音の頬をぬるい水気が滑って落ちた。慌てて手のひらで擦ってごまかしてみるが、頭をくしゃりとなでるような樹生の動きで、いま落としたひと筋がバレてしまったとわかる。
「合コン、もう行かなーい」
カチリとドライヤーが止まり、樹生が織音の頬を指一本でつついてきた。とことん織音の髪に触れ慣れている樹生だが、肌を狙って触れてくるのは結構レアだ。これは困らせているかもしれないと思うが、落ちていく思考が止まらない。
「別にデートしたいわけでもキスしたいわけでも、ベッドにダイブしたくもない。彼氏など要らぬ。友だちのほうがいい」
またドライヤーが温風を吹かす。ほこほこと温められながら、むずむずとする鼻を軽くすすった。
「それでも、欲しいと思たんやろ?」
「だってぇ……ゆいこもあかりんも、可愛いんだもん」
「まぁ、あそこまで幸せ全開やと羨ましなるわなぁ」
「なった。いーなーって思ったぁ」
「ほな合コンにこだわらんと、他で頑張ったらどや」
膝を抱えてうつむいたら、樹生の指が頭のあちこちをかすめていく。その動きを感じていたら満たされて、それ以上必要なものはないように思えてくる。
「たっつー」
「ほん?」
「いつか大阪行く?」
「とりあえず、今年は行かんかな」
「そっか」
だったら今年いっぱいは無理しなくていい。樹生といる時間のほうがずっと楽しくて、ずっとずっと大切だ。
膝を抱えたままウトウトと船を漕ぎ始めたら、ドライヤーが止まった。丹念に櫛を通してから、樹生の手が織音の頭をなでた。
「ほい。寝るんやったらオレが出てってからベッドで寝ぃ」
「……ん」
ずりずりと這うようにベッドへ向かうと「こらこら」と止められた。
「鍵閉めてから寝れ」
「……鍵そこ」
ローチェストの上を指さしたら、盛大にため息をつかれた。
「渡してどないすんねん。オレが出てから……て」
樹生の声が途切れた。
いつか、『さーやちゃん』に謝らないといけない。織音の手が勝手に、樹生の指を捕まえているから。
彼と目は合わせず、ぼんやりと窓の外を見つめ。自分はいったい何をやっているんだと思いながら、彼のひやりとした指一本を握りしめる。
今日の悔しさからか、熱のせいなのか。あるいは不調からくる心細さか。すんと鼻をすすって、樹生の指をくっと引っ張る。
「……わかった。オレが閉めとくから、とにかくベッド入りぃ」
樹生が折れてくれたから、ようやく織音はベッドに上がる。横になるとすぐさま布団をかけられた。
「とにかく、今日は寝れ。調子悪いときにいらんこと考えんな」
樹生は床に座り込む。ベッドに腕を乗せて、織音を見守るかのように頬杖をついた。あんまり甘やかされるから、弱音が溢れてしまう。
「樹生」
「ほん?」
「あたし、そんなに駄目かなぁ」
五年たってなお、あんな風に異性から軽んじられるような存在なのか。悔しいやら情けないやらで、きゅっと唇を噛む。
樹生の手が、織音の体を布団の上からぽんぽんと叩く。
「今すぐ忘れてまえ。あんなクズに織音の良さはわかって要らん」
無敵の専属スタイリストはメンタルケアまで完璧で、織音は思わず吹き出した。
「もうな。初めっから強気の織音で行け。舐められんと食ってかかったれ。意地っ張りなとこも警戒バリバリで壁厚いとこも全部初手から見せたれや」
「そんなの絶対ウケないじゃんかぁ」
「おるから。そういう織音のことがええて思うやつ、絶対おる」
きっぱりと言いきったその根拠は何だと枕の上で笑ったら、樹生が安心したように目を細める。
「ほれ、寝れ。まだ熱あるんやから」
「……寝るまでいて欲しいー」
「ええよ。ちゃんとおるから、目ぇ閉じ」
「治ったら、たっつに、ココア……淹れる、し」
「そら楽しみやわ」
貴重な友人にぐずぐずに甘やかされて、織音はもう一度深い眠りに落ちていった。
まだ薄暗い中、今度はしっかりと目を覚ます。五月終わりとはいえ明け方はほんのり肌寒く、肩を軽く震わせた。体はずいぶん楽になった。
ふと視線を移したら、見慣れたマロンブラウンの頭がベッドに乗っていた。よくよく見れば、自分の手が樹生の手をしっかと握りしめている。
カァッと顔面を熱くして手を離し、ベッドから下りた。くたりとベッドに寄りかかって眠る友人をどうしたものかと、離したばかりの手をつついてみる。
すると、樹生の手にぱしっと手首を掴まれた。びくりとして彼の顔をうかがうが、ヘーゼルの目はしっかりと閉じたままだ。
「……たつ……たーつき?」
おそるおそる呼びかけると、まぶたがひくりと動く。まつ毛が震えて、じんわりと目が開いていく。半分も開かないまぶたの奥にあるヘーゼルの瞳がぽやっとこちらを見て、軽く首をかしげた。
「……ぉと?」
「うん。生きてる?」
「なんか、さむぃ」
「じゃんねぇ? ごめんよぉ」
ふるふると体を震わせた樹生が、むぎゅっと織音に抱きついてきた。
「あったか……」
「樹生、気を確かに! 織音サマだよ、さーやちゃんじゃないかんね!?」
途端、樹生の両目がパッと開き、ぐっと両肩を掴んで離された。
「……っぁー……寝ぼけた」
「あたしが忘れたらセーフだ! さーやちゃんには心で詫びておく!」
「そぉして……」
ぷしゅんとくしゃみをひとつ。
樹生は立ち上がって、玄関に向かってふらふら歩いていく。
「たっつ。大丈夫かや?」
「戻って……寝る」
「そ、そか……ありがとね」
サンダルを引っ掛けてくぁっとあくびをした樹生は、また半開きに戻った目で織音を見た。
そして、おもむろに頭をくしゃっとなでてきた。
「……合コンなんか、あてにせんでも。織音やったら大丈夫やて」
「ぅん?」
「ええ子や。可愛らしぃよ。大丈夫だいじょーぶ」
ぽかんと口を開けた織音を置いて、樹生はふにゃふにゃとあくびを噛み潰しながら出ていった。
どうやら完璧に寝ぼけている。心配になって外廊下をのぞいたら、樹生は自室の前を行き過ぎて「んぁ?」と言いながら引き返してきた。
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