第85話 いつかこの恋の先に

 * * *



 指先がまず捉えたのは、さらりとした長い髪。柔らかな温かさは頬。丸っこい耳に、とことん泣き尽くして腫れたまぶた。自分よりずっと小さな手。


 夜の中で、樹生は織音の寝息を確かめる。


 シングルベッドにふたりという狭さのおかげで、ささやかな息遣いを感じられる。常夜灯もなければスマホの音楽も聞いていないのに。こんな真っ暗で静かすぎる部屋で、夢も見ずに眠れていた。

 織音が風邪でダウンした夜もそうだった。彼女の寝息にはヒーリング効果があるに違いない。


 そろりと身を起こし、ヘッドボードに置いたスマホを手探りで掴んだ。表示された時計は午前三時。バックライトを頼りに、織音を起こさないようベッドを下りる。


 キッチンに向かい、水を一杯もらう。過剰に体から水分を放出したあとだから、ただの水道水がやたらに染み透る。


 水分補給してベッドに向かうと、「んっ」という小さな声がして、それから織音が飛び起きた。あまりに俊敏な動きにぎょっとして足を止め、闇に目を慣らしながら見守ってみる。彼女の寝ぼけ姿を目にするなんて初めてのことで、好奇心を抑えるのはなかなか難しい。


 織音はその場に座ったまま辺りを見回した。この暗い中、まともに見えているのかは謎だ。それから、ベッドの上をてしてしと叩いて回る。

 完全に寝ぼけているのだろう。小動物じみて可愛げがある動きを前に、どうにか笑いを堪える。

 そんなことをしていたら、彼女の小さな声が響いた。


「……たつ、き?」


 不安に震えるその声に、とことん馬鹿な自分を殴られる。暢気に笑っている場合か。

 一日三回のメッセージでは、意地っ張りな彼女の本当の顔が見えない。置いていかれる心細さを誰より知っていたはずの自分が、彼女の強さを過信した。


「おるよ。水飲んどっただけ」

「う、ん」


 ベッドに上がって華奢な肩に触れる。織音の右手はしっかりと樹生の服を掴んで、安心したように擦り寄ってきた。なかなかに理性を試される。


 一緒に横になって彼女の背中を擦りつつ、スマホをぽっと光らせる。俊也のLINEアカウントを選び、大阪から戻った報告と、相談事をひとつ打ち込んで送りつけた。


 ――となりに樹生がいてくれたら、勝手に幸せになるから。


 織音の誕生日。ふたりがかりだったけれど、ケーキに立てたろうそく二本をちゃんと吹き消した。だったらその願いは是が非でも叶える。


 顔を合わせて言葉を交わしてやっと気付けた。

 誰かの手に委ねるのではなく、自分のこの手で。感情という入り組んだ場所のいちばん深いところで、そんな強欲が静かに芽吹いていた。



 * * * 



 はて、と。しぱしぱ瞬きした。目の前に樹生の寝顔がある。

 現状を理解するのに十秒余りをかけてから、織音は昨夜の自分の醜態を思い出した。


 どこに溜め込んでいたのかという量の水を、ひと晩で両目から放流し尽くした。自分の中に池があればすっかり干上がって、魚が息も絶え絶えでびちびちと跳ねただろう。なんてひどいことを。


 ぶわっと熱くなる顔面の逃がしどころがなくて、樹生の胸にぼふっと埋まった。


「こら。なけなしの理性をいじめんな」


 叱る言葉とは裏腹に、きゅっと体を引き寄せられる。


「起きてるし! うぇぇ、恥ずかしい!」

「オレのがよっぽど恥ずぃとこ見せとるやろ」

「樹生はいいの。もっと心を全裸にしていけ!」

「朝っぱらから言葉選び尖っとんなぁ……触ってもよろしい?」

「ぅ……もう許可取らなくていい」


 苦笑した樹生が、織音の腫れぼったいまぶたをなでてくる。優しい指の動きひとつで、もう昨日までの自分たちとは違うのだとわかる。


「おはよぉさん」

「……お、はよぅ」


 照れに耐えつつ上目遣いで彼の顔をうかがったら、ひたいに唇で挨拶された。ひと晩でこの部屋が欧米化するなんて聞かされていない。



 起きてすぐの樹生は寝癖がぴこぴこと踊っていて、毎朝手間をかけておしゃれ魔神になっていることを知る。そんな樹生はベッドの上であぐらをかいて寝癖をなでつつ、スマホを耳に難しい顔で話しこんでいる。


 先に洗面所で着替えを済ませてからキッチンに立ったら、通話中のまま顔を上げた樹生に手招きされた。


「いや、けど……早期退去は違約金が……は? ええて。それやったら自分で……はい。兄貴様の言うとおりです。すんません、甘えます」


 何か叱られている様子の樹生に近寄る。彼はスマホ片手に織音のワンピースを軽く摘んで、視線だけで「初めて見るけど」と尋ねてきた。あいかわらず目敏い。服を変えようが髪を変えようが気づかないのが男子というものではないのか。


 なおも通話が続くようだから、織音はクローゼットを開けて買いたての服を次々と体に当てて披露してみる。初めこそ笑顔でうなずいていた樹生だったが、五着を超えたあたりから表情が険しくなってきた。


「ごめん、一回切るわ。今度そっちできっちり話するし……わかっとる、ちゃんと織音と一緒に顔出すから……ぉー、ありがとぉな」


 ため息混じりに通話を終えた樹生は、ベッドを離れてクローゼットをのぞき込んだ。


「どう見ても新品だらけやけど、いつぉた?」

「昨日買い込んだっ! あたし、こういうほうが好きっぽい。どう? どれが可愛い?」


 本日のナチュラル系ワンピースをふわりとさせながらターンしたら、樹生の腕の中にむぎゅっと閉じ込められた。


「のわぁっ!?」

「……なるほど。溜め込んだら料理か散財に走るんやな。よぉ覚えとく」

「何の話?」

「織音への理解がまた少し深まったなぁて話」

「えぇー、さっぱりわからぁん」


 鼓動をうるさくしながら困惑していると、背中をぽすぽすと軽く叩かれた。


「大丈夫。近々、織音のとなりに戻ってくる」

「ほ!?」


 驚いて顔を上げたらひたいが樹生のあごにクリーンヒットして、しばらくふたりで悶絶する羽目になった。





 朝食の後、樹生に髪をいじられながら、あらためて話を聞く。

 親戚が管理する物件とあって、そこそこの我儘が通ったらしい。当人の預かり知らぬところで高砂家が暗躍した結果、隣室は借り手のないまま。樹生の夏季休暇が終わるまで待ってもらえるよう話がついていた。

 現在借りている部屋の違約金に引っ越し費用まで俊也が出してくれるとかで、諸々の手続きが済めば樹生がとなりに戻ってくる。


「はい今日から、とはいかんけどな。この時期、エアコン無しは致命傷やろ」

「そんな急がなくて大丈夫だよ?」

「いや。お互いの心の健康のために最速で戻る」


 なぜかクローゼットを見据えつつ、樹生は真剣な顔でうなずいた。



 左サイドにバレッタをぱちんと留めてアレンジが完成する。いつもの樹生ならそれで手を離すところだが、今日は違う。許可取りのひと言を挟んでから、バックハグがやってきた。

 試しに彼の頬に手を伸ばしたら、猫みたいに擦りついてくる。かなりのスキンシップ好きという新たな一面を知る。


 樹生の右耳に触れて、ピアスがないことを確かめる。織音が贈ったピアスの他はもう必要ないからと、昨夜のうちに樹生が外した。

 銀色のピアスふたつは織音のローチェストにしまってある。長らく彼が抱えてきたものの一部だから、どうしても捨てて欲しくない。


 引っ掛かる物のなくなった右耳をよしよしとなでていたら、樹生のハグが少しだけ強くなる。


「なんか不安になった?」

「ちゃんと現実やろかて、な」

「疑っちゃう?」

「アホみたいやろ……ほんま、オレの相手すんの楽やないと思うわ。しっかりせぇやぁ、オレ」


 心の全裸計画は順調に発進したようだ。隠さず吐露された気持ちを受け取って、自分に何ができるかを考える。

 今だって、ピアスとバレッタを互いに持っている。そこにおそろいのクマを足したって、指輪を嵌めたって駄目なのだろう。彼の不安を解くには、目に見える形をいくら積み上げても意味がない。


「樹生、合鍵交換しよ」

「…………ほん?」


 バックハグを緩めてもらって、くるりと向い合せになる。


「いっぱい疑ったらいいと思う。でも、その時はあたしのとこに来て。何回でもあたしが口説き落とす。現実なんだってわかるようにするから」

「……織音、オレに甘すぎんか?」

「樹生だってあたしのこと甘やかしてきたじゃん。そろそろ交代しよ」


 彼が毎日髪に触れてくれたように。長い時間をかけて彼の心に触れ、十三年かけて組み上げてしまった不安を解けばいい。


「いつか疑う気なんか起きなくなるよ。織音サマにかかればぞーさもないっ!」

「……いまの造作、ひらがなやったやろ」


 ひひっと笑ったら、樹生がいつものハの字眉な笑顔を浮かべて「勝てんなぁ」とつぶやく。

 ヘーゼルの瞳をわずかに揺らした彼がおもむろに正座したから、慌てて織音も正座して背筋を伸ばす。大切な話が来るのだろうと、少し身構えた。


「まだ、約束にはできんけど。いつか、先のことまで考えれるようになりたいて思ってる」


 思わぬ言葉に、「ふぇ」と気の抜けた声が出た。樹生のひんやりとした指先が、織音の左手の薬指をつつく。


「せやから我慢はせんとってな。いるだけでええて言うとったけど、オレに望むことがあったら口に出して。一緒に考えさして欲しい」

「わ、わかった。我慢、苦手だし。何でも言う」


 今の樹生が持つ精一杯をぶつけられている。油断したら補給したての池の水がまぶたから放流されそうなほど、ひと言ひと言に威力がある。織音が唇を引き結んで真剣にうなずいたら、樹生はぴしっと居住まいを正した。


「それぐらい、織音のことを好いてます。誰より大事にしたい。大事にするから。手ぇかかるヤツやけど、どうか、となりにいてください」


 二十年で受けたことのないレベルの、誠実さと熱の籠もった告白を前に。

 泣きたいほどの喜びと、最上級の照れと愛しさと、緊張と。

 ありとあらゆる感情をこれでもかと動かされた結果。

 織音は――――キレた。


「待って! 絶っっっ対にあたしのほうが好きだから! 百倍でっかいから! そう簡単に勝てると思うな!」

「そこ、張り合うとこちゃうしな」

「だって樹生がっ! あたしのこと、すっごい好きみたいに言うからっ」

「みたい、やなくて。そう言うてる。伝わりきらん?」


 あわ、あわと唇をぱくつかせたら、樹生が織音の髪をなでてきた。探し続けた宝物にやっと手を伸ばすような喜びの色を、顔いっぱいに広げて。


 初めて見る表情だと思った途端、全身が震えた。

 痛覚など無いはずの髪から、甘い痺れが体中に拡散していく。両頬が燃えてしまう。耳が熱い。首筋も火照ってきた。けれどそのどれも不快じゃない。押し寄せる多幸感に全身を飲み込まれてしまった。

 あらためて樹生に落とされてしまうなんて、不意討ちにもほどがある。


「織音、どないした? 大丈夫か?」


 こちらの気も知らず、心配そうに樹生が顔をのぞき込んでくる。ヘーゼルの瞳を半眼で睨みつけ、織音は彼の胸に思い切り飛び込んだ。

 ゴチッとぶつけた鼻がほんのり痛む。日々筋トレに励む出来過ぎ魔神の体は少々お硬いのが難点だ。



 長い時間をかけてトラウマを解いてくれた大切な彼は、幸せをひどく怖がる人で。

 そんな彼に落とされてしまったからには、この先何度だって彼を落とす。そして何度でも、彼に落とされる。

 そうやって、恋はどんどん深くなって。臆病な彼と意地っ張りな自分で、きっといつか、自分たちなりの恋の先にたどり着く。



 大学二年、九月。


 元通りに配置された隣室のベッドに、すみっちょのぬいぐるみをぽんと置く。座卓にはすみっちょのキーケースを二種類並べて、どちらにするかじゃんけんで決める。


 今日の夜は梅じゃこご飯で、食後にはカフェオレとココアを用意する。



 今度は、互いに合鍵を預けて。この関係に新しい名前をつけて。

 織音と樹生はまた、おとなりさんを始める。



〈三章 恋とは落とされ落ちるもの 了


  ――そして

   

  降って、積もって、落ちて、恋―――完〉





◆◆◆



 じれじれとした三つの恋にお付き合いくださり、ありがとうございました。

 作者の書き足りない欲を満たす番外編置場が驚異的不定期にて稼働しております。


https://kakuyomu.jp/works/16818093073776823753


 三組六人の恋、いずれかでも、気に入っていただけるものがありましたら、彼らのその後やこぼれ話にも遊びにきていただけますと幸いです。

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降って、積もって、落ちて、恋 笹井風琉 @chichiibean

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