第84話 恋は強欲

 咄嗟に足を退いても、腰には彼の腕が回り、頭は痛いほどに引き寄せられる。薄く開いた織音の唇を舌がこじ開けてきた。好き放題に内側をなぶられて、息の継ぎかたがわからなくなる。苦しさに足を踏み鳴らすと、ようやく樹生が唇を離した。


 経験値の足りない織音では立っているのがやっとだ。腕を掴まれて、為すすべなく座卓のそばから引きずられていく。


「樹生、待って!」

「待たんよ。この期に及んで隠し通そうとか、我ながらズルすぎたわ」


 引き倒すようにベッドに座らされ、肩をぐっと押される。背中からシーツに沈み、自分にまたがってくる樹生の顔を呆然と見上げた。


「オレは、織音が思っとるような人間やない」


 いたわる気のない冷え切った視線も。こちらの右手首をベッドに押し付ける圧倒的な力も。

 織音の知らない樹生がそこにいる。そんな姿をわざわざ見せつけてくる。


 また、荒い口づけがくる。自由な左手で樹生の胸を叩くがびくともしない。彼の右手が織音の服の裾をめくって、腹部を這い上がってくる。いつもの優しい声がけもないまま、ひんやりとした指先は胸元まできて下着にかかる。


 体を這う右手がずっと震えている。両まぶたを固く閉ざして、体中を緊張させて。この乱暴な振る舞いで、彼は自分自身を痛めつけながら、どうか嫌ってくれと訴えてくる。

 ここまで不器用に好きだと叫ばれては堪ったものじゃない。


 樹生の舌をぐっと噛む。彼が怯んだ隙をついて顔を左右に振り、荒い口づけから逃れる。そのまま勢いよく首をもたげ、織音は目の前の唇に思い切り食らいついた。


「痛ッ!」

「待てって言ってんの! これ樹生がしんどいだけじゃんか!」


 樹生の唇が切れて、織音の口には血の味が広がる。右手首の拘束が解けた隙に、すぐさま体を起こした。


 傷を指先で確かめた樹生が、顔を歪めてその場に座り込む。織音はため息をついて、まだ震えている彼の両手をぽんぽんと叩いた。先に喧嘩腰になってしまったこちらも悪いのだ。

 冷静にと。先走りがちな怒りを鎮めて、極力穏やかに声をかける。


「言いかた、間違えた。ちゃんと岡嶋くん込みで樹生のこと見てる。あたし、これじゃ折れない」


 不安に揺れる瞳がこちらを向くから、強くうなずいて応じた。


「言葉で聞きたい。いま、何に困ってる?」


 静かに樹生の吐息を聞く。じっと目を合わせて待っていたら、やっと彼は口を開いた。


「逃げ出して、一ヶ月もおんなじとこでグルグル回って。そんなヤツの何がええんや。オレに固執しすぎて周り見えてへんことないか」

「失礼な。ちゃんと見えてますぅ」

「見えてへんから百倍大事とか言うんやろ。オレよりまっとうで、ちゃんと親に育てられて織音のこと大事にしてくれるヤツなんか山ほどおるやろ! どこに目ぇつけとんねん!」

「どこって、顔だわバカモノ。ふたつもついてるでしょ」


 叩きつけられた言葉にも、冷静さを無くさずに返した。狼狽えた樹生が目をそらすから、少し膝を詰めてみる。


「織音が……」

「うん。あたしが何だ?」

「いつか、後悔するんやないかて。また、しんどい思い出になるんやないかて。どうしても、それが……消えん」


 もどかしそうに、樹生が片手で自身の顔を覆う。同時に、織音はにんまりと唇で弧を描いた。肯定と否定に激しく振れる樹生の心の中に、ちゃんとある。彼は一ヶ月で恋を育ててきてくれた。


 それなら勝てる。絶対に。

 だって今、彼は言った。織音が後悔しなければこの恋を選べるのだと。

 

 織音はTシャツの裾を掴んでひと息に脱ぎ捨てた。薄いキャミソール姿で、ぐっと樹生に詰め寄る。


「これで証明んなる? 樹生が頑張れるんなら続ける。見て見て、鳥肌ひとつ立たん!」

「やめてくれ! 頼むからオレよりちゃんとしたヤツと」

「だったら、連れてきて」


 膝立ちになって、樹生の手をその顔から引っ剥がす。胸倉を掴んで引き寄せ、上から彼を睨みつけた。


「こんっなに、あたしのこと大事で。逃げ出すぐらいあたしのこと好きでっ……」


 冷静さが限界を迎え、昂りで声がつっかえる。ごくりとつばを飲み込んで、大きく息を吸った。


 納得いくまで試せばいい。そうしたら彼は思い知る。どうしようもないほどの、この強欲を。

 欲しい。絶対に落としたい。一緒にどこまでも落ちて欲しい。


「あたしが! 樹生より大事にしたいって思える男がいるなら今すぐ連れてこい! そしたら手ぇ離してやる!」


 怒声で殴りつけたら、樹生のヘーゼルの瞳が揺れた。

 瞬きをふたつして、その中心に織音を映して。

 それから。


「……ふっ、はは」


 彼は部屋中に豪快な笑い声を響かせて、腹を抱えて身を捩りながらベッドに倒れ込んだ。

 あまりの爆笑ぶりに、織音のほうが動揺してしまう。


「なんか、おかしいこと言った?」

「いや、もう……そんなん、織音の裁量ひとつやし」

「当然。あたしの恋なんだから、自分で宛先決めて何が悪いの。後悔するかどうかだって、あたしが勝手に決めんのよ」

「ごもっともやけど、あかん……腹痛い」


 まだ笑いを引きずりながら、樹生は仰向けにころんと転がって大の字になる。そして「あぁー」と濁ったうめきをもらした。織音のキャミソールの肩紐が肘までずれて、ほつれた髪からシュシュがぽふりと落ちる。


「オレ、先の約束なんか渡されへん」

「約束ぅ?」

「付き合った先。将来とか、そういう。織音のこと幸せにできるかわからん」

「なにそれ。頼んでないけど」

「……ほん?」


 きょとんと瞬きした樹生の頬をつつく。


「あたし、ほっといても勝手に幸せになるし。でも樹生が隣にいたら、もっと幸せってだけ。難しいこと考えてないで、一緒にご飯食べて、同じもの見て、息してれ」

「……そんだけ?」

「あと、全力で樹生を幸せにするから許可して」

「それ、めっちゃバランス悪ない?」

「なんで? 樹生を幸せにしたら、とことん幸せになれるでしょ。幸せ二重取りで……あれ? そっか、あたしのほうが得だ」


 確かにバランスが悪いと気づいて、ひひっと笑う。すると、樹生が両手でぼふっと自身の顔を覆った。その下からくぐもった笑いがもれる。


「アホやなぁ。織音やったら他になんぼでも見つかんのに」

「だから、なんぼの中から樹生のこと選んだの。その織音サマの素晴らしい目でなっ!」

「…………あかーん、完敗」


 長いため息をこぼしたきり、樹生が黙る。その唇がきつく引き結ばれたから、織音はとなりにうつ伏せで寝そべって頬杖をついた。


「顔見せて」

「絶対、嫌や」

「映画行ったときも見たじゃん」

「全然ちゃう……こんなん、オレ知らん。ダサい。恥ず過ぎる。見逃して」

「やだ。あたし強欲だから、笑ってない顔も全部あたしのものにする」


 右手を引っ張ったら、観念したように樹生が力を抜いて顔半分を見せてくれる。彼の瞳は潤んで、目尻から耳元に幾筋も涙の渡った跡がある。


 やがて左手も顔から離れて。眉をきつく寄せて。樹生は仰向けだった体を横に倒したあと、何度も躊躇ってから髪に触れてきた。


「織音。オレに、落ちて」


 まだわかっていないのかと、彼の胸に体を寄せる。


「あたしはとっくに落ちてて、ここで樹生があたしに落ちるの」


 大きく見開いたヘーゼルの瞳が涙に溺れる。あまりに綺麗だから、織音は彼のまぶたに口づけた。刺激に誘われるように、雫がひとつ転がった。


「あかん……止まらん、これ」

「二十年分なんじゃない? いいじゃん、あたしがひとり占めとか最高だ」


 きゅっと抱きついたら、樹生の手が織音の髪をひと房すくって自身の唇に当てた。唇はひたいに、まぶたに、頬に触れ、最後に口元にやってきたところで動きを止めてしまう。それだけで、彼の悔恨が痛いほど伝わってくる。


 織音は樹生の唇に付けた傷を指でつついた。ひどいことをしたのはお互い様だ。織音のほうがよほど野性味溢れる一撃を見舞っている。


 食い尽くすような荒々しさが岡嶋 樹生なら、と。指で彼の口元をなぞってねだる。


「まだ高砂くんから、もらってない」

「……いる?」


 微笑みで応じたら、花びらでも食むように軽くついばまれた。何度かそうしてから、壊れ物に触れるみたいにゆっくりと唇を重ねてくる。温かく吐息を触れ合わせて、重ねた唇は少し震えて。最後に一度だけ、挨拶みたいに舌先を叩いて離れる。

 眉間の奥深くをじんと熱くさせる優しさを寄越したあと、彼は小さく息をついた。


「織音。頼み聞いて」

「いいよ」


 ここから先は全く知らない世界だから、少しぎこちなくうなずく。キャミソールは自分で脱ぐべきかと裾に手をかけたら、樹生がきゅっと織音を抱きしめたあと、軽く鼻をすすりつつ体を離した。彼がその場に正座するから、織音も体を起こして座る。


 樹生は深々と頭を下げてきた。ついでに、ずり落ちていたキャミソールの肩紐を直される。


「服、着てください」


 拍子抜けである。


「あれぇ、そそらない?」

「逆や。せやから速やかに着て」

「……遠慮?」

「ちゃう。いつか、ちゃんとやり直す。今日のこと消し飛ぶぐらい大事にするから」


 さすがに、強気一辺倒の織音だって照れる。カッと頬を燃やしている間に、樹生はベッドの端に引っ掛かっていたTシャツを掴まえて差し出してきた。


「速やかに。目の毒」

「……はぁい」


 もそもそとTシャツを頭からかぶると、樹生がせっせと裾を引っ張った。彼はさらに、ベッドの隅に落ちていたシュシュを拾って、織音の髪を軽くまとめて結ぶ。

 そこで、きゅこる……と樹生の腹が主張した。


「晩ごはんは?」

「なんも食ってません」

「とりあえず梅じゃこ食べる?」


 こくりとうなずく素直な返事に笑って、ベッドを下りた。樹生もするするとついてきて、一緒に洗面所で手を洗い、一緒にキッチンに戻る。


 冷やご飯を温めて、織音はじゃこを炒め、樹生は梅干しを刻む。

 ボウルで混ぜたそのままを、樹生は大事そうに運んで座卓についた。手を合わせ、照れくさそうにしながらひと口。きゅっと眉を寄せて、こみ上げるものを堪えるように、またひと口。


「美味しい?」

「ん……織音の梅じゃこがいちばん旨い」

「明日もいかが?」


 樹生が唇をゆるやかな弧にしてうなずいた。


 相変わらず美味しそうに梅じゃこご飯を食べ干したあと、しばらくふたりでぼんやりとして。

 壁の時計を見上げた樹生がぽそっとつぶやいた。


「ぼちぼち、帰る」

「あ、そうか」


 もう十一時に近く、彼の帰る場所は徒歩三秒の隣室ではない。





 鞄ふたつをもって、樹生がスニーカーのかかとを引っ張る。織音は彼のつむじをぷすっと指で押しながら尋ねた。


「遠い?」

「平土井の駅から十分ぐらい」

「そ、か。イーヨンモールあって便利だ」

「……織音」


 呼ばれてやっと、樹生の服を掴んでいることに気づいた。


「ごめんっ、なんか持ってた!」


 ひひっと笑ったのに、樹生から笑顔は返ってこなかった。織音の顔をじっと見つめて、静かな声で問いかけてくる。


「夏にホットもなんやけど。カフェオレ、飲まん?」

「……飲み、たい。明日来る?」

「今。オレ、ココア飲みたい」


 言うなり、樹生はスニーカーを脱いでボディバッグを片手で外した。


「ちょうど着替えもあるし」

「……ぅ、ん?」

「朝までおる」


 言われた途端、織音は洗面所に駆け込んだ。

 洗面台下の収納扉を開けてフェイスタオルを引っ張り出す。樹生の置き土産だった袋が一緒に飛び出して、中のヘアアクセサリーが洗面所の床に散った。

 慌てて膝をつき片付けようとしたら、ぼたぼたと水滴が床を跳ねた。


「織音」

「ちょっと、待って」


 その場にへたり込んで、タオルを顔面に押し付ける。樹生の手が背中に触れるから、片手を挙げて「平気」と返す。


「悪かった」

「なにも悪くないし。気にしないで帰って」 

「帰らん」

「んじゃ、向こうで四十秒待って。すぐ片付けるし」


 タオルから右手だけ外して、散らばってしまったヘアアクセサリーを集める。

 そんな織音の手を、樹生の手が包みこんで止めた。


「見せて。もう、笑っとる顔だけでは満足できんから」


 そんなずるいことを言われたら、意地を張れない。

 どうしたって誕生日の夜と重なって、このまま彼を見送るのが怖くて堪らないから。


 樹生の胸に、ぽすりと顔を埋めた。彼のTシャツに、雨に打たれたみたいな跡を作っていく。次から次へと涙が頬を滑り落ちて、どんなに歯を食いしばってもみっともない声がもれる。


 樹生がくれる、ただいまも、ごめんも、ありがとうも。うまく声を出せずに聞くばかりで、代わりに何度もうなずいて返した。

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