第85話 恋は強欲
咄嗟に足を退いても、腰には彼の腕が回り、頭は痛いほどに引き寄せられる。薄く開いた織音の唇を舌がこじ開けてきた。好き放題に内側をなぶられて、息の継ぎかたがわからなくなる。苦しさに足を踏み鳴らすと、ようやく樹生が唇を離した。
経験値の足りない織音では立っているのがやっとだ。混乱している間に樹生に抱えられてしまい、うまく力の入らない足があっさりとラグを離れる。
「樹生、待って!」
「連れてこいて言うたやろ。会わせたる」
ベッドにぼすっと座らされ、肩をぐっと押される。背中からシーツに沈み、自分にまたがってくる樹生の顔を呆然と見上げた。
「オレかて織音の元カレと変わらん……いや、オレのほうがよっぽど」
いたわる気のない冷え切った視線も。こちらの右手首をベッドに押し付ける圧倒的な力も。
織音の知らない樹生がそこにいる。そんな姿をわざわざ見せつけてくる。
「ほら、早いとこギブアップしぃや」
「はあ!? 誰がっ――」
言い返そうとしたら、また荒く口を塞がれる。自由な左手で樹生の胸を叩くがびくともしない。彼の右手が織音の服の裾をめくって、腹部を這い上がってくる。いつもの優しい声がけもないまま、ひんやりとした指先は胸元まできて下着にかかる。
これまでお互いの間に築いてきたすべてを、根底から揺るがすようなことをされているのに。自分でも驚くほど、怖くない。ただ、胸の奥深くで破裂寸前に膨らんだ感情が痛い。
織音の肌を這う樹生の右手が、ずっと震えている。両まぶたを固く閉ざして、体中を緊張させて。この乱暴な振る舞いで、彼は自分自身を痛めつけながら、どうか嫌ってくれと訴えてくる。
ここまで不器用に好きだと叫ばれては堪ったものじゃない。
樹生の舌をぐっと噛む。彼が怯んだ隙をついて顔を左右に振り、一瞬の自由を勝ち取る。そのまま勢いよく首をもたげ、織音は目の前の唇に思い切り噛みついた。
「痛ッ!」
「待てって言ったら待て! 樹生がしんどいだけでしょうが、ばかぁッ!」
樹生の唇が切れて、織音の口には血の味が広がる。右手首の拘束が解けた隙に、すぐさま体を起こした。
傷を指先で確かめた樹生が、顔を歪めてその場に座り込む。織音はため息をついて、まだ震えている彼の両手をぽんぽんと叩いた。先に喧嘩腰になってしまったこちらも悪い。
冷静にと。先走りがちな怒りを鎮めて、極力穏やかに声をかける。
「もう、ちゃんと知ってるから。岡嶋くん込みで待ってた」
不安に揺れる瞳がこちらを向くから、強くうなずいて応じた。
「言いたいことあるから、来たんでしょ?」
静かに樹生の吐息を聞く。じっと目を合わせて待っていたら、やっと彼は口を開いた。
「美化しすぎなんや。オレに固執しすぎて周り見えてへんやろ」
「失礼な。ちゃんと見えてますぅ」
「見えてへんから百倍大事とか言えるんや。オレよりまっとうで、ちゃんと親に育てられて織音のこと大事にしてくれるヤツなんか山ほどおるやろが! どこに目ぇつけとんねん!」
「どこって、顔。ふたつもついてる」
叩きつけられた言葉にも、冷静さを無くさずに返した。狼狽えた樹生が目をそらすから、少し膝を詰めてみる。
「オレは、あかん」
「なんで?」
「いつか後悔させる。織音のしんどい思い出が増える。耐えられん」
もどかしそうに、樹生が片手で自身の顔を覆う。
同時に、織音は堪えきれずに微笑んだ。
――そんなに大事に思ってくれるの。
だったら勝ってみせる。信じさせる。織音が飲み込んできた恋の重さを、樹生は正しく知るべきだ。
――もう、伝えていいんでしょう。
織音はTシャツの裾を掴んでひと息に脱ぎ捨てた。薄いキャミソール姿で、ぐっと樹生に詰め寄る。
「後悔するか試せばいいよ」
「やめてくれ! 頼むからオレよりちゃんとしたヤツと」
「だったら、その人を連れてきて」
膝立ちになって、樹生の手をその顔から引っ剥がす。胸倉を掴んで引き寄せ、上から彼を睨みつけた。
「あたしにしか触れなくて。逃げ出すぐらいあたしを好きで。自力じゃ諦められないぐらい、あたしのこと欲しくて」
冷静さが限界を迎え、昂りで声がつっかえる。ごくりとつばを飲み込んで、大きく息を吸った。
納得いくまで挑めばいい。そうしたら彼は思い知る。どうしようもないほどの、この強欲を。
欲しい。絶対に落としたい。一緒にどこまでも落ちて欲しい。
「あたしが! 樹生より大事にしたいって思える男がいるなら今すぐ連れてこい! そしたら手ぇ離してやる!」
怒声で殴りつけたら、樹生のヘーゼルの瞳が揺れた。
瞬きをふたつして、その中心に織音を映して。
それから。
「……ふっ、はは」
彼は部屋中に豪快な笑い声を響かせて、腹を抱えて身を捩りながらベッドに倒れ込んだ。
あまりの爆笑ぶりに、織音のほうが動揺してしまう。
「笑うとこ!?」
「いや、もう……そんなん、織音の裁量ひとつやし」
「当然。あたしの恋なんだから。後悔するかどうかだって、あたしが勝手に決めんのよ」
「ごもっともやけど、あかん……腹痛い」
まだ笑いを引きずりながら、樹生は仰向けにころんと転がって大の字になる。そして「あぁー」と濁ったうめきをもらした。織音のキャミソールの肩紐が肘までずれて、ほつれた髪からシュシュがぽふりと落ちる。
「付き合ったとして。オレ、将来が見えんから。織音を幸せにできへんかもしれん」
「んぇ? あたしは絶対幸せになるけど?」
「……ほん?」
きょとんと瞬きした樹生の頬をつつく。
「だってあたし、ほっといても自力で幸せになるし。でも樹生が隣にいたら、もっと幸せになれるからさ。難しいこと考えてないで、一緒にご飯食べて、同じもの見て、息してれ」
「……そんだけ?」
「あとはー。全力で樹生を幸せにするから許可して」
「それ、めっちゃバランス悪ない?」
「なんで? 樹生を幸せにしたら、とことん幸せになれるでしょ。幸せ二重取りで……あれ? そっか、あたしのほうが得なのか!」
確かにバランスが悪いと気づいて、ひひっと笑う。すると、樹生が両手でぼふっと自身の顔を覆った。その下からくぐもった笑いがもれる。
「アホやなぁ。織音やったら他になんぼでも見つかんのに」
「だから、なんぼの中から樹生のこと選んだの。この織音サマの素晴らしい目でなっ!」
「…………あかん、完敗」
それきり、樹生が黙る。彼の唇がきつく引き結ばれたから、織音はとなりにうつ伏せで寝そべって頬杖をついた。
「見たい」
「絶っ対、嫌や」
「映画のときも見たじゃん」
「全然ちゃう……ダサい。恥ず過ぎる。見逃して」
「やだ。あたし強欲だから、笑ってない顔も全部あたしのものにする」
右手を引っ張ったら、観念したように樹生が力を抜いて顔半分を見せてくれる。彼の瞳は潤んで、目尻から耳元に幾筋も涙の渡った跡がある。
やがて左手も顔から離れて。眉をきつく寄せて。樹生は仰向けだった体を横に倒したあと、何度も躊躇ってから髪に触れてきた。
「織音。オレに、落ちて」
まだわかっていないのかと、彼の胸に体を寄せる。
「あたしはとっくに落ちてて、いま樹生があたしに落ちるの」
大きく見開いたヘーゼルの瞳が涙に溺れる。織音が彼のまぶたに口づけると、刺激に誘われるように雫がまたひとつ転がった。
「やば……止まらん」
「十三年分かなー。やったね、あたしがひとり占め」
きゅっと抱きついたら、樹生の手が織音の髪をひと房すくって自身の唇に当てた。唇はひたいに、まぶたに、頬に触れ、最後に口元にやってきたところで動きを止めてしまう。それだけで、彼の悔恨が痛いほど伝わってくる。
織音は樹生の唇に付けた傷を指でつついた。ひどいことをしたのはお互い様だ。織音のほうがよほど野性味溢れる一撃を見舞った。
食い尽くすような荒々しさが岡嶋 樹生なら、と。指で彼の口元をなぞってねだる。
「まだ高砂くんから、もらってないんだけどー?」
「……ええの?」
微笑みで応じたら、花びらでも食むように軽くついばまれた。何度かそうしてから、壊れ物に触れるみたいにゆっくりと唇を重ねてくる。温かく吐息を触れ合わせて、重ねた唇は少し震えて。最後に一度だけ、挨拶みたいに舌先が唇を叩いて離れる。
眉間の奥深くをじんと熱くさせる優しさを寄越したあと、彼は小さく息をついた。きゅっと織音を抱きしめて、軽く鼻をすすりつつ体を離す。彼がその場にあぐらをかくから、織音も体を起こして座った。
樹生は深々と頭を下げた。織音から視線を外したまま、ずり落ちていたキャミソールの肩紐を引き上げてくる。
「服、着てください」
織音は自分の現状を見下ろした。しばらく考えて、そうかと思い至る。これは樹生のトラウマを刺激する状況なのかもしれない。
「肌触りすぎたら気分悪い? キス、しんどい?」
「や。いまは、そういうことやなくて」
「じゃあ、肌出してるのが苦手か。ノースリーブとか無理?」
「ちゃう。ちゃうから、速やかに着てほしい」
低くもごとごとした返答に織音は頭を悩ませ、こてっと首を傾げた。
「触りたくないから着ろってことだよね?」
「逆やっ!」
バッと顔をあげて声を張った樹生は、眉をハの字にしたり口をぐっと結んだりと忙しく表情を変える。やがて、彼はうつむき気味で、自身の髪をくしゃりとかき乱した。
「こんな流れでとか、無い。いつか、織音が本気でそうしたいて思たときにやり直さして。今日のこと吹っ飛ぶぐらい大事にするから」
大勘違いだった。織音の頬がカッと燃える。
その間に、樹生はベッドの端に引っ掛かっていたTシャツを掴まえて差し出してきた。
「速やかに。目の毒」
織音がもそもそとTシャツを頭からかぶると、樹生はせっせと裾を引っ張った。彼はさらに、ベッドの隅に落ちていたシュシュを拾って、織音の髪を軽くまとめて結ぶ。
慣れ親しんだ指の冷たさに、胸中で安堵がふわりと膨らむ。知らぬ間に身構えていたのだと、織音はやっと自覚した。
「時間かかるかもよ。あたしも一応トラウマ持ちだし」
「かけて当然や。何も急ぐことやない」
しつけのできた高校生だった樹生は、待てが得意な二十歳になったらしい。少々冷めた口調で渡される彼らしい優しさに、織音はふっと息を零して笑った。
こんなときでもまとめ髪を入念にほぐす指が、完成と丸を作る。
そこで、きゅこる……と樹生の腹が主張した。
「晩ごはんは?」
「そんな余裕なかった……腹減った」
「とりあえず梅じゃこ食べる?」
こくりとうなずく素直な返事に笑って、ベッドを下りた。樹生もするするとついてきて、一緒に洗面所で手を洗い、一緒にキッチンに戻る。
冷やご飯を温めて、織音はじゃこを炒め、樹生は梅干しを刻む。
ボウルで混ぜたそのままを、樹生は大事そうに運んで座卓についた。手を合わせ、照れくさそうにしながらひと口。きゅっと眉を寄せて、こみ上げるものを堪えるように、またひと口。
樹生が唯一このレシピを覚えなかった意味が、そんな姿からわかる気がする。
「美味しい?」
「ん……織音の梅じゃこがいちばん旨い」
「明日もいかが?」
樹生が唇をゆるやかな弧にしてうなずいた。
相変わらず美味しそうに梅じゃこご飯を食べ干したあと、しばらくふたりで手を繋いだままぼんやりとして。
壁の時計を見上げた樹生がぽそっとつぶやいた。
「ぼちぼち、帰るわ」
「そっか」
もう十一時に近く、彼の帰る場所は徒歩三秒の隣室ではない。
鞄ふたつをもって、樹生がスニーカーのかかとを引っ張る。織音は彼のつむじをぷすっと指で押しながら尋ねた。
「遠い?」
「平土井の駅から十分ぐらい」
「イーヨンモールあって便利だ。あ、明日ってさ、予定ある?」
「バイト探しぐらいやなぁ。辞めてもたから」
「そかぁ。んじゃ、明日は忙しいかな」
「……織音」
呼ばれてやっと、樹生の服を掴んでいることに気づいた。
「ごめんっ、なんか持ってた!」
ひひっと笑ったのに、樹生から笑顔は返ってこなかった。織音の顔をじっと見つめて、静かな声で問いかけてくる。
「夏にホットもなんやけど。カフェオレ、飲まん?」
「……飲み、たい。明日……来る?」
「今。オレ、ココア飲みたい」
言うなり、樹生はスニーカーを脱いでボディバッグを片手で外した。
「ちょうど着替えもあるし」
「……ぅ、ん?」
「朝までおる」
言われた途端、織音は洗面所に駆け込んだ。
洗面台下の収納扉を開けてフェイスタオルを引っ張り出す。樹生の置き土産だった袋が一緒に飛び出して、中のヘアアクセサリーが洗面所の床に散った。
慌てて膝をつき片付けようとしたら、ぼたぼたと水滴が床を跳ねた。
「織音」
「ちょっと待って」
その場にへたり込んで、タオルを顔面に押し付ける。樹生の手が背中に触れるから、片手を挙げて「平気」と返す。
「悪かった」
「なにも悪くないし。気にしないで帰って」
「帰らん」
「んじゃ、向こうで四十秒待って。すぐ片付ける」
タオルから右手だけ外して、散らばってしまったヘアアクセサリーを集める。
そんな織音の手を、樹生の手が包みこんで止めた。
「見せて。もう、笑っとる顔だけでは満足できんから」
そんなずるいことを言われたら、意地を張れない。
どうしたって誕生日の夜と重なって、このまま彼を見送るのが怖くて堪らない。何度も明日の話をしてしまう。
「あたし。ろうそく二本、消した」
「……願い事、聞かして」
樹生の指が、織音の指の間に割入ってくる。
おそるおそる彼のほうへと振り向いたら、真っ直ぐなヘーゼルの瞳に迎えられた。
「明日のオレに、できることなんやろ?」
「っ……」
織音の怯えをみんなまとめて包むような、耳を撫でる声に誘われて。樹生の胸に、ぽすりと顔を埋めた。彼のTシャツに、雨に打たれたみたいな跡を作っていく。
「明日の朝、あたしの顔見て……おはようって、言って」
織音の背中に、樹生の両腕が回った。苦しいぐらい強く、その腕に閉じ込められた。
次から次へと涙が頬を滑り落ちて。どんなに歯を食いしばっても、震える息を隠すことはできなくて。
樹生がくれる、ごめんも、ありがとうも、ただいまも。うまく声を出せずに聞くばかりで、代わりに何度もうなずいて返した。
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