第84話 ふたりでしか出せない答え
* * *
夕方四時を少し回った頃、今日の二件目が届いた。初の動画である。
懐かしい景色に油断していたら、唐突にコロッケのさっくりした音に襲われる。かと思ったら織音の三十八点の数学が流れていく。含み笑いで眺めていたら、呪いでも唱えていそうな姉が出てきて終わった。
今日は向瀬にいたのだろうか。樹生はスマホを置いてカレンダーを眺め、唐突に織音の夏の予定を思い出した。
最後の二日間は、日本最大のテーマパークに行くと話していた。前泊して、朝から並ぶとかなんとか。
つまり、もう今日が出発日だ。そんなことに気づくなり、足踏みしている自分に苛立ってテーブルに平手で八つ当たりなどしてみる。
同時に、テーブルに置いていたスマホが震えた。
あまりのタイミングの良さにぎょっとして画面を見るなり、スマホを取り落としそうになる。両手にあわあわとスマホを踊らせてから、通話ボタンをタップして耳に当てた。
「っはい!?」
【いったい何やってるんですか!】
ゴッと耳を突く怒鳴り声に、一瞬スマホを離す。
「え、中条さん、ですよね?」
【お久しぶりです……じゃなくて! 勝負してないで恋愛してください!】
「はいぃ!?」
一度しか会っていない蒼大に、なぜ開口一番怒鳴られているのか。樹生の混乱が伝わったのか、蒼大が通話口の向こうで深呼吸した。
【俺、フラれたんですよ】
フラれたんですよ。
フラ、レ、タン、ですよ。
一瞬、ハワイ語か何かかと思った。
「日本語でお願いしてええです?」
【これ以上の翻訳はできかねます。本当に知らなかったんですか。七月半ばですよ? もう八月終わるんですよ!】
「いやいやいや! 知りませんし! だいたい中条さん、織音と八月中も
【全くです! さっき『ねこだまり』でばったり会いましたが。ご友人がたは俺のこと何も知らなかったみたいで気まずいし、逃げるように帰られるし、何なんですか俺は!】
「帰ったて……え、アパートにですか?」
【そうですが! あー、もう!】
ごほんっ、と大きな咳払いで仕切り直した蒼大が、気勢をいくらか落ち着かせて切り出した。
【いいですか、高砂さん。ギブアップしたのは俺です】
「は?」
【三原さんとはどう頑張っても付き合えません】
「はぁ?」
樹生が間抜けな声を出すと、勢いをぐっとゆるめた蒼大がかすかに笑った。
【友人が彼氏より百倍大事で、彼氏は作らずに、ハムスターに『カレシ』って名付けるそうです】
頭の中で、ハムスターがカラカラとホイールを回す。
百倍だの、作らないだの。いやいや何の話だと、笑い飛ばそうとしてもうまくいかない。織音なら言いかねない。
【言ってたじゃないですか。走り出したら止まらないから。喧嘩したら長丁場になるって】
「そう、です。織音はそういうやつで。せやから、なんか意地になっとるだけで!」
【意地が硬すぎて俺ではお手上げです。うまく止められる人がお留守だから、諸々、お知らせしました。それだけです】
「それだけ、て……」
【あとは……応援してます。では】
言うだけ言って、あっさりと通話を切られる。
旅行に行くはずなのに、なぜアパートに帰ったのかとか。どうして蒼大に応援されているのだろうとか。
無音になったスマホを下ろすこともできずに待機していたら、耳元で新たにブブブと振動音が鳴った。
「っぁ! 今度は何や!」
悪態をついて画面を見たら、朱莉からのLINeメッセージを受信した。
送られてきたのは、写真一枚きり。『ねこだまり』で撮ったものだろう。レトロな内装のカフェで、窓の外をじっと見つめる織音の横顔が写っている。
高校二年の秋に出会ってから、毎日のように顔を合わせてきた。樹生の中には、いつもいたずらっ子のように笑う彼女がいる。三年弱の中で、泣き顔は二度しか見たことがない。彼女の大事な友人のことと、すみっちょの映画でのことだ。
そんな織音が、画面の中にいる。
泣き出しそうに眉を下げて、唇をきゅっと引き結んで窓の外を見つめている。
洗濯物の山から自分の服を選別して鞄に押し込む。煩わしい眼鏡をケースに収め、私物をまとめてどんどん鞄に詰めていく。
スマホの充電ケーブルを回収しようとして、足の小指を
――樹生の抱えてるものをちゃんと渡してから答え出して欲しいって。
希少な友人が持ってきた頼みが、何度も頭の中に響く。どうすべきか決まらないまま。それでもボディバッグを頭から通し、強引な荷造りで歪に膨れた鞄を掴んだ。
樹生がリビングを出ると同時に、伊澄が玄関に入ってきた。
「なぁー、キャンセル出たから今のうちに何か食えるもん……」
言葉を切った伊澄はこちらの全身をしげしげと眺めてきた。それから、進路を塞ぐように玄関ドアに背中を預け、腕を組む。
「ほな、今から訊くこと全部答えたら帰したる」
「ええぇ……」
樹生の不平を無視して、伊澄はにたぁと笑って続けた。
「母親のことは、もうええんか?」
「まぁ。会うてみたら、どうでも良かったです」
「鬼イケから何頼まれたん」
「っえ!? ぃや……織音に、思てること全部話せて」
「で、そのお願い無視して、何を長々と夏休みエンジョイしとったんや」
「そ……れは……」
笑みをすっと消した伊澄が、答えを待たずに踏み込んでくる。
「毎日あんだけジタバタしとって、それでも動かんかったくせに、今さら何やねん。この先お嬢さんに手ぇ離されるのが怖いんやろ。ほな、このまま大阪に残っとれ」
「……でき、ません」
「おまえハズレなんやろ。お嬢さんの幸せのために、もっとエエ男に譲ったれ。ヘタレはここで大人しく指くわえとれや!」
「できへんのです!」
張り上げた声はひどく滑稽で。
掛けられる言葉は至極もっともで。
「わかってます。オレはどこまでもハズレで。戻ったところで、まだ何の答えも用意できてへん」
今、戻れば。
自分が彼女に何をぶつけるかわからない。
「けど……織音が。いま、笑えてないんやったら」
その理由ひとつに、樹生はきつく拳を握りしめた。伏せていた顔を上げ、伊澄に真っ向から視線をぶつける。
「このまま逃げ切って終わりには、できません。帰らしてください」
息の詰まるほどの沈黙と、射抜くような伊澄の視線にじっと晒されて。
何十秒と向き合った末、伊澄からぺちぺちと拍手を贈られた。
「ええやん。理屈こねるより、気持ちひとつで動くほうがよっぽど正解や」
「……はぃ?」
何を認められたのかわからず戸惑っていると、腕組みを解いた伊澄が軽く樹生の胸を叩く。
「ほな、ハズレ物件やけどいかがですかぁて、答え合わせしてこい」
「答え、合わせ?」
「そうや。全部晒して、顔見て声聞いて、ちゃんと採点してもらえ。そもそも、ひとりで出せる答えやない。横着すんな」
伊澄は道を開けるように壁にもたれ、ぐしゃっと樹生の頭を雑になでた。
「そのピアスな。タツキのこと、よぉ見てくれてる人がくれたんやなて、すぐわかった」
「ぅえっ!?」
しばし、ぐしゃぐしゃと人の髪を好き放題かき混ぜて。伊澄はまた唐突に手を離し、樹生の両肩をぱんぱんと軽く打つ。
そうして伊澄が浮かべたのは、五年前には見ることのなかった穏やかな微笑だった。
「大丈夫や。おまえ、あの頃よりええ顔しとる」
「……伊澄、さん」
「ケンカする覚悟でな。一回ぐらい、本気でぶつかってこい」
「は、い……」
「あとは、周り頼ることも覚えや。以上、出発してよろし」
「はい……お世話になりました」
きちっと頭を下げ、玄関ドアに手をかける。すると、景気づけみたいに背中をバシッと叩かれた。
「ったぁッ!」
「気ぃ向いたら報告ぐらいせぇよ」
五年前は、絶対に戻ってくるなと言われた。そのとき樹生は何も答えずに、兄に手を引かれて無言でここを去った。
わずかでも、この五年のうちに自分は変われたのだろうか。
「また、来てええですか」
「おぅ。いつでも来い。ただし、今度はちゃんと連絡してからな」
約束のような言葉を交わして、樹生は伊澄の家を出る。
一気に階段を駆け下り、エントランスを出て三階を見上げる。ベランダから伊澄が頭を出して、のんびりと手を振っていた。
* * *
買い込んだ服の整理を終えて、織音はようやくひと息ついた。座卓にスマホを置いて、今日の三件目にふさわしい写真を探す。樹生の反応を想像しながらの選定作業はいつも楽しい。
あれこれと写真を見比べていたらインターホンが鳴った。一瞬肩を跳ねさせて時計を見ると、夜九時を越えたところ。人が訪ねてくるような時間はとうに過ぎている。少し緊張して、壁付けの室内機のもとに向かう。
エントランスホールからの呼び出しを報せる緑のランプが点灯している。こくりと喉を鳴らしてから、こわごわと通話ボタンを押す。
「はい?」
スピーカーはしばらく黙ったあと、男声を返してきた。
【なんで、おんの?】
なじみのある関西なまりに、束の間呼吸を持っていかれた。
「そりゃ、夜だから。ハウスする」
【いや。ダメ元で来たオレもオレやけど。旅行は】
「中止ぃ」
【なんで?】
「大事な勝負中だから」
少し間が空いて、いくらか低くなった声が短く要求を投げてくる。
【開けて】
乞われるままにエントランスのオートロックを解除して、織音は慌てて通話を切る。
そして、その場でぴょこっと跳んだ。
やはり動画の力は偉大だった。
幾度となく彼にさらしてきた素顔も、ラフな部屋着も今夜ばかりは悔しい。せめて髪だけはサイドにまとめてシュシュで結ぶ。
ご機嫌で玄関ドアに飛びついて、はたと気付く。
織音の勝利条件はLINeへの返信だ。この状況はまだ、勝ちも負けもつけられないのではないか。
「え、どっち……?」
困惑しながら解錠する。ほとんど同時に、ドアが外から開かれた。
視界に飛び込んで来たのは、一ヶ月ぶりに会う樹生のどうにも難しい表情である。これはまだ勝っていないなと確信した。
「お帰りぃ、でいい?」
どうにか平静を装って笑ったら、樹生は答えなくドアを閉めて珍しく鍵をかけた。スニーカーを雑に脱ぎ散らかし、織音を押し退けて居室へ進む。どさりと重い音をたて、ローチェストの前に大きな鞄とボディバッグを下ろした。体ごとこちらを向けば、静かな瞳が織音を正面で見据える。
到底、談笑する雰囲気ではない。
「旅行取りやめてまでオレのこと優先すんのは、あかんやろ」
「あたしがそうしたかったんだから、別に良くない?」
「なんも良くない。オレなんかのために貴重な休み潰すなや」
「オレ……なんか?」
あんまりな言葉選びに、織音は眉をひそめた。樹生の声はいつもより素っ気なくて、それも心をざわつかせる。もっと楽しく出迎えることを想像していたのに、期待外れもいいところだ。
「なんでそんな言い方すんの? 非行少年時代のせい? そんなの大学生にもなったらゴロゴロいるじゃん」
「今と比べんな。中学時点で比べてくれ」
冷たい声が吐き捨てるように言った途端、体の深いところで何かが千切れた気がした。少し遅れて、頭にブワッと熱気が上がる。堪忍袋というものは本当にあるらしい。
「やっと来たと思ったら、まだそこ!? くっだらない!」
「くだらん、て……あのなぁ! オレにとっては」
「知らぁんっ! あたしは高砂 樹生を待ってんの。岡嶋 樹生で止まってんなら出てけ!」
声を張り上げて玄関を指さしたら、一瞬呆けた樹生がギリッと奥歯を噛み鳴らした。
「同じことやろが。地続きで全部オレや。名前ひとつで都合よぉ切り捨てれたらオレかてもっと楽に生きとるわ!」
「誰が捨てろって言った!? 岡嶋くんを十三年やったあとの高砂くんに用があるって言っただけじゃん! それとも何、先に岡嶋くんを攻略してくれってこと? 上等だわ、過去からここに連れてくればぁっ!?」
ひと息に怒鳴ったら、樹生が一瞬息を飲んだ。かと思えば、彼はすっと温度を下げるように静かな目をして、織音に向かって大股で近寄ってくる。
「そうか。答え合わせ、な」
「う、ん?」
「見せたことないのに、わからんよな」
「……何が?」
「ええよ。それで、織音が……わかってくれるんやったら」
低いささやきの直後。
織音の口に、樹生が乱暴に食らいついてきた。
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