第7話 彼氏の特権

 * * *


 追試が終わると、そのまま教室で採点を待たされる。この追試が通過点数を越えなかった場合、通知表に多大なダメージが出るという噂は聞いている。今のところ、悠はそこまで悲惨な結果になったことが無い。


「ほい、古澤ー」


 強面こわもての山村先生におどけた口調で呼ばれ、嫌な予感をさせながら答案を受け取りに行く。


 今日の追試は、これまでの追試とはわけが違う。

 初デートをかけた勝負なのだ。


 ショアァァァッという織音の勝鬨かちどきが廊下から飛んでくる中、悠は自身の答案を受け取った。


「ま、良かろ。本番一発でこれぐらい狙えるように、期末も頑張れ」


 ぽこんと落ちたねぎらいの言葉に、おそるおそる点数を見る。

 追試合格の七十点ラインを大きく越えて、八十二点。


「……やっ……」


 柄にもなく大声を上げそうになって、山村先生に笑われる。


「ほら、早く帰れ」


 しっしっと追い立てられ、鞄に答案を突っ込んで会釈してから教室を出た。


「あ。こざーくん、どうだった?」


 勉強会以降、織音は気安く声をかけてくるようになった。悠としても、結衣の大切な友人という認識なので取っつきやすい。

 悠が指で丸を作ると、彼女はにゅふっと奇怪な笑みを浮かべる。


「んじゃあデートじゃぁん?」

「なんで知ってんの」

「真っ赤なゆいこが教えてくれたのよー」


 ――なんだそれ、可愛い。


 女子ネットワークが羨ましい。朱莉にしろ、織音にしろ、悠の知らない結衣の顔をいくつも見ているに違いない。


 まだ自分の前ではぎこちなさのある結衣の顔を思い浮かべ、悠は鞄からスマホを取り出した。テスト中切っていた電源を入れる。


 すると、悠がアプリを起動するより先に、LINE通知が一件飛び込んできた。


【 タツキ >> 変身中 】


 開くと、たったそれだけのメッセージ。

 首をかしげていると、時差をつけて、スマホが写真を受信した。


 写っているのは樹生の兄、俊也の美容室だ。悠にとってはすっかりなじみの店内の風景である。

 だが、セット椅子に座る後ろ姿に悠は目を剥く。


「は?」


 正直、この写真ひとつで自信があるかと言われるとノーだ。襟足ぎりぎりでバツンと切られた髪が、さらに自信を遠ざける。


「三原、さん……これって」


 確証を欲して、織音に写真を見せる。織音は「まっ」と上品に手を口元に添えた。


「ゆいこったら、いさぎよい」


 女子目線の確認が取れた途端、悠は廊下を走りだす。

 正面玄関口に下りて、靴箱から放り出したスニーカーの踵を潰しつつ足を突っ込む。さらにその踵を引っ張り上げながら、駆け足態勢に移行した。



 坂を一気に駆け下りて、線路沿いをひた走る。踏切に引っかかって軽く足踏みし、上がりだした遮断かんをくぐるように抜ける。

 勢いそのままに、美容院のドアをぐっと引いて飛び込んだ。

 

 俊也がおやっと眉を跳ね上げる。

 その前でドライヤーを当てられているのは、やっぱり結衣だ。カットクロスに包まれた彼女は、突然飛び込んできた悠の姿にきょとんと眼を丸くした。


 短い。

 今日の帰りまで、あご下五センチはあった髪。それが今や、あごのラインも首もすっかり見えるショートボブに。全体に丸っこいフォルムになっていた。


 俊也の足元に、切り落とされた彼女の髪がたまっている。木田と付き合った長さ分だけ耐えた彼女の努力が、追試の間にゴミと化した。


 悠は待合ソファでほくそ笑んでいる樹生に詰め寄り、そのままドンとソファに押し倒す。


「待って待って、床ドンする相手間違まちごぉてるて」

「間違ってない。樹生、おまえ何してくれてんの」

「別に脅しもすかしもしとれへんて! ちょっとお悩み解決できたらなぁ思てご提案しただけやんか」

「余計なことすんなって何回も言ったろ!」


 ドライヤーの音が止んで、俊也が「こらこら」と声をかけてくる。


「人の店でケンカしない」

「俊也さんも、なんで止めてくれないんですか」

「そりゃあ、ご本人の希望だから」


 ねぇと俊也が声をかけると、結衣がこくこくとせわしなくうなずく。


「タダって言われたから。やったぁと思って、勢いで」


 何の深刻さも、思いつめた様子もない。あっけらかんとして結衣にそう言われたら、悠の全身から力が抜けた。


「ずっと頑張って伸ばしてたのに」

「言うこと聞かないし、もういいかなって……似合わない?」


 ヘアオイルを両手に伸ばした俊也が、不安そうになった結衣の髪を整えていく。


「可愛い可愛い。同じオイルのミニサイズあげるから、家でもやってみて。ワンプッシュ両手に揉み込むみたいにして、こう。サイドは束感出るように摘まんでいく感じ。耳にかけても可愛いし」

「わー、オレンジのにおいがするー」

「香りはそんなに強くないから、学校でも大丈夫じゃないかな。ハンドオイルにもなります」


 顔周りの髪をふんわりとさせて、俊也がカットクロスを外す。


「顔ちいさいなぁ。頭のかたちもいいし、断然ショート向き。先々カラーもぜひご検討ください」

「あはは、いっぱい褒められた。ありがとうございます」


 セット椅子を下りる結衣の表情が底抜けに明るい。彼女の憂いを見事断ち切った俊也に、軽い嫉妬心を抱く。散々世話になっているから文句は言えないが、高砂家は俊也も樹生もけっこうな人たらしだ。


 悦な顔で笑う俊也が結衣をソファまで先導してきて、悠にぐっと詰め寄る。


「で、こざ君は僕の仕事にご不満が? 今から全部刈って帰る? 十分もあれば仕上げてあげるけども」

「すいません違います俊也さんに不満なんかひとつもありません」


 冗談とわかっていても、圧が強い。彼の腕にケチをつけるのはご法度だ。

 悠が必死で謝ると、そばで見ていた結衣がまた楽しそうに笑った。短くなった髪でそんな顔を見せられたら、悠の胸は愛しさに裂ける。この目に見えない裂傷相手では、いかな名医も手の施しようがない。


 俊也は悠の耳元でぽそぽそとささやく。


「まずすべきは、きみのお姫様の不安を払拭することだろ」

「はい、それです。すいませんでした」

「わかればよろしい」


 結衣にヘアオイルを渡した俊也は、悠と結衣の背中をまとめて押してドアに向かわせる。ふたりはそのまま店から追い出された。


「さ、閉店。気を付けて帰ってね」

「あ、あの! タダのお詫びにせめて掃除ぐらい手伝います」

「可愛い弟が手伝ってくれるから大丈夫。その代わり、佐伯さんの再来店に期待してます。こざ君も近いうちメンテな。予約入れといて」


 戸惑う結衣のとなりで、悠は俊也に会釈して樹生に軽く手を振った。

 それから、結衣の袖を引っ張って歩き出す。


「ほんとにいいのかな」

「俺も初回タダだったから平気」

「そういうシステム?」

「樹生の友達割みたいなもの。次からも学割は効くし、なんでも相談乗ってくれるし、俺はあそこオススメ」


 スマホを見ると十八時をとうに過ぎていて、さすがにとっぷりと暮れた。肌寒くないだろうかととなりを見ると、そこに結衣はいなかった。


 悠の五歩後ろで足を止めている。


「佐伯さん?」

「ロング派だった? 相談した方が良かった?」


 ――まずすべきは、きみのお姫様の不安を払拭することだろ。


 つくづく、俊也が大人で悔しい。

 結衣に近づくと、切れた髪が鼻の頭に乗っているのが目についた。指でちょいっとそれを払って、その指で頬にかかる髪を軽く掬う。


「何派でもない。似合ってる。可愛い」


 可愛いと誰にはばかることなく言える。これこそ、彼氏という肩書の持つ特権だ。どんなに言葉を尽くしても、心を尽くしてもいい。悠は今、そんな夢のような位置にいる。


 結衣が一瞬息を飲んで目をそらした。頬がふわっと赤くなるのが、暗がりでもわかる。

 俊也の見立ては腹が立つほど正しい。ショートヘアがよく似合う。彼女の首筋に触れたくなる。それも、指でなんかじゃ足りないほど。

 ヘアオイルのオレンジの香りが鼻をくすぐる。罪深い仕込みに試されるのはおのれの理性。襲いかかる柑橘類の誘惑を、悠は鋼の意志でねじ伏せる。


「すごく可愛い」

「ああああありがとう! じゅうぶん、じゅうぶんです!」


 近づく悠の胸を、結衣が焦りながらぐいっと押した。そんな反応がたまらなくて、声を出して笑ってしまう。


「私で遊んでるね!?」

「少々」


 どれもこれも本気だとは、口が裂けても言えない。自分の感情の重量が桁外れなことは、正しく自覚している。


「そのご様子なら、追試はばっちり?」


 少しふくれっ面な結衣の問いに、得意満面でうなずいた。


「土曜日、どこ行きたい?」

「ご褒美なんだから、古澤くんが決めるべきだと思います」

「むっ……そうきたか」

「きますとも」


 ふむ、と悠は考える。脳内には、人たらし兄弟がさんざん悠に詰め込んできた近隣情報が溢れている。

 潤沢な引き出しからまず出すべきはどれかと考え、これと定めたものを引っ張り出した。


「……クマ、食べに行こうか」

「…………ジビエ?」

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