第8話 地元探訪

 * * *


 俊也の助力を得て新たな自分に生まれ変わった結衣は、その夜、生まれ変わる気がさらさらない自分のクローゼットを空っぽにして絶望の淵に立った。


 ベッドに並べた服はあれもこれもオーバーサイズのだぼっとしたトップス。ボトムは見事にパンツばかり。それもキレイめとは言い難い。

 ユニセックスカジュアルに甘んじ続けた結衣の手持ちは、どれも初デート向きでないように思える。


 唯一持っていたスカートは春先の古着回収にドナドナされた。買って早々、デートすっぽかされ記念という呪物になってしまった代物だった。


 新たに買ったところで、それほど着ないのもわかっている。昔からスカートの担当はひな子で、結衣じゃない。

 結衣じゃない、が。


 LINeの通話ボタンを押し、耳に当てて待つこと数秒。


【はいはい?】

「朱莉しゃん、だずげでぇぇぇ!」


 ここで頑張らないのは、悠に失礼だ。





 そして、金曜日の放課後。

 結衣は朱莉に連れられ、見知らぬ駅に降り立った。


 学校のある向瀬駅から、山の手に向かう結衣とは逆方向。朱莉の家の方面は電車が進むほど都会化する。向瀬から駅六つ離れたこの駅前には、居酒屋やらファーストフード店やらが充実している。結衣の最寄りなら小型スーパーとコンビニがせいぜいだ。


「学校までけっこうかかるね」

「そう。だから、こっちの中学じゃ向瀬は人気薄なの。もうひとつ先に宮浜みやはま高校があるし。ほとんどそっちか、あとは私立か、かな」


 向瀬と宮浜はどちらも公立高校で、レベルに大きな差はない。同レベルなら当然近いところを選ぶ。しかも、駅前の利便性は断然宮浜が上だ。


 どうして悠も朱莉もわざわざ向瀬を選んだのか。向瀬にそんな良いところがあっただろうかと思いながら、駅から歩いて十五分少々。朱莉の家に到着した。


 そこで朱莉が、ニタリとした。


「良いことを教えてあげよう」


 すこぶる悪い笑みを浮かべ、なぜか朱莉は隣家の門前まで進む。そして結衣を手招きした。


 首をかしげなら招かれた方へ進む。無言で指さされた表札を見て、結衣はあんぐりと口を開けた。


 くっきりはっきり、行書体が『古澤』を主張している。これ以上ないほどの古澤である。


「え。ええ!?」

「おとなりさん。小学三年のときに、古澤家が越してきたの。そういう幼なじみ。不安にさせたくないから黙っとけって言われたんだけど、どう? 何か不安になる?」

「や、めちゃくちゃ面白いなって思ってる」

「結衣ならそうよね。古澤はいちいち身構えすぎ」

 

 そのときちょうど古澤家のドアが開いて、中から男性が顔を出した。


「あれ? 朱莉だ」

しゅうちゃん、今日大学休み?」

「午前だけ。悠ならまだ帰ってないよー」

「良いの良いの。ちょっと案内してただけ。を」


 朱莉の高い地声じごえが結衣の苗字を強調気味に告げると、男性は疾風のごとく門扉まで飛んで来た。


「佐伯さん! 結衣ちゃん! わー、初めまして、悠のお兄ちゃんの柊吾しゅうごです!」

「は、初めまして」


 掴んだ手をはげしく上下されて、結衣の頭までがくがくと揺れた。


 悠は静かに波が寄せるような微笑みを見せるが、柊吾には造波プールみたいな元気さがある。違いはあれど、さすが兄弟。兄もたいそうな美顔だ。

 そしてその美顔がアニメ名場面をドォンとプリントしたトレーナーを着ている。靴下にはゆるキャラが全面プリントされて、サンダルにも何かの名台詞らしきものが印字されている。視覚で得られる情報が過剰だ。


「え、どうしよう! 母も呼ぶ!? 絶対喜ぶけど」

「いきなり家族ぐるみはやめてあげなさい」

「はい」


 朱莉がピシャッと言うと、柊吾がスンッと大人しくなる。本当に長い付き合いなのだとうかがえるやり取りだ。


 それじゃと朱莉がどこか素っ気なく背を向け、結衣も会釈して朱莉を追いかけようとした。


「佐伯さん!」

「はいっ、なんでしょう!」

「古澤家一同、佐伯さんには大変感謝しております。どうか弟をよろしくお願いします!」

「え、えぁぁ!? はい、よろしく頑張ります」


 深々と頭を下げる柊吾に、結衣はおろおろと返事をした。朱莉が呆れたようにため息をついて、結衣の手を引っ張る。


「大げさなのよ。結衣、気にしないで」

「いやぁ、さすがに気になっちゃう」

「アニメと漫画と小説で生きてる人だから、いちいち芝居がかってるの。許してあげて」


 言葉のわりに、朱莉の表情が柔らかい。

 調整を一切かけない朱莉の地声は、結衣や織音の前で話すときよりさらに独特の癖があって愛らしい。朱莉にとってコンプレックスの塊だというその声を、柊吾の前では委縮せず使っている。それだけ、彼を信頼しているのだとわかる。


「仲良いんだね」

「……うん。良かったの」


 朱莉の少し湿ったような返事を聞いて、結衣は古澤家に目をやる。柊吾はまだ庭先でぶんぶんと手を振っていた。





 朱莉の部屋はさっぱりとしていて、大人びて見える。朱莉本人の印象そのままという雰囲気だ。


 開かれたクローゼットの中身も、程よい女子感で、結衣は人選に間違いがなかったと胸をなでおろす。織音だとフェミニン志向が強すぎて、結衣にはぐっと厳しくなる。


 ぽんぽんと朱莉が出してくる服を受け取っては、鏡の前で自分に当てる。はっきり言って、結衣自身にはどれが似合うのかわからない。


「私服スカートってさぁ。ショートでもおかしくないかなぁ」

「ないって。今の髪型、かなり可愛いよ?」

「ほんと!?」

「ほんとほんと。わたしも美容院乗り換えようかなって思ったぐらい……って、あった! これ! これあげる!」


 嬉々として出されたのは、落ち着いた紫のチェックスカートだ。くるぶし丈で、裾に向けて広がるボリュームのあるデザインになっている。


「女子過ぎない?」

「結衣は女子でしょ。それ、福袋生まれなんだけど従姉いとこには丈長くて、わたしは紫いまいちで、誰も着ないまま肥やしてんの。結衣がいけそうなら引き取ってくれたら助かる」

「うーん」


 煮えきらない結衣の体に、朱莉はシャツとビッグシルエットのパーカーをペタペタと当てがった。


「これなら結衣の手持ちであるんじゃない? あとはスポーツ系のバッグでもいいし、かわいい系でもいいし。ブーツもスニーカーも、キャップもベレーも活きる」

「天才じゃん!?」

「ほらきた!!」


 いぇいと手を合わせて、お互いけらけらと笑った。


 持ってきた紙袋にスカートを詰めながら、結衣はふと朱莉に尋ねる。


「あのさ。そんな昔っからおとなりさんなら、知ってたりする? 古澤くんがいつから……その、この佐伯めを」

「結衣、中三のときに古澤に会ったでしょ」

「良く知ってんね!」

「そりゃあもう。悠から暗唱できるぐらい聞かされましたから」


 さらりと名前呼びを出して、朱莉が幼なじみの顔をする。

 朱莉が言う中三というのは、二年前の秋、市内中学合同大会のことだ。その日、結衣は悠に出会った。一時間にも満たない、一度きりの邂逅だった。


「私、あのとき名乗ったかなぁ」

「名前を知ったのは高校の合格発表の日らしいよ。これ以上は朱莉さんからは言えません」

「えええケチぃ」

「先入観なしに素の自分で挑むって悠が言うんだもの。口出しできませーん」


 ふふん、と楽しげに言われて、結衣は口を尖らせる。

 日頃大人びた顔の朱莉が、今日はどこか年相応だ。友人のいつもと違う一面を新鮮に味わって、結衣はデート服を手に仁科家を出た。


 ――と、夕暮れの門前に悠が居た。まだ制服のまま、鞄も持って、いかにも今帰り着いたばかりのような格好だ。


「はい、ボディガード呼んどきました」

「なんと至れり尽くせりな」

「朱莉さんを讃えよ」


 結衣は朱莉に手を振り、さり気なく紙袋を後ろに下げつつ悠のもとに向かう。


「わざわざ、ありがとう」

「こっちのセリフ。地元一緒に歩けると思わなかったから、嬉しい」


 悠の浮かべる笑みは、やっぱり静かな波みたいだ。





 駅まで十五分。見知らぬ町を、今度は悠と並んで歩く。

 行きはあちこち眺める余裕があったのに、帰りは悠の顔ばかりを見上げた。まだまだ近距離では緊張してしまう。


「仁科ととなりってこと、黙っててごめん」

「んーん、びっくりしたし、笑っちゃったし。あとお兄さんに会った」

「ええ!?」


 悠はうわぁと顔を押さえた。


「楽しそうなお兄さんだったよ?」

「兄の人格がどうとかでなく、俺の知らないところで対面を果たしていたというのが、こう……こそばゆい」


 結衣にもふたつ下に弟がいる。想像すると確かに、そわそわとする感覚がわかる気がした。

 流れで家族構成の話になったり、一転して学校の話になったり。尽きない話題を取っ替え引っ替えして、コンビニの前を通り過ぎたときだった。


「……ハル?」


 知らない制服の男子生徒が驚いた顔で立っていた。

 穏やかだった悠の横顔がピリッと緊張を帯びる。男子生徒のほうは逆に、嬉しそうな、けれど申し訳なさが混じったような顔で近づいてきた。


「久しぶり。ハル、高校行ってから全然会わないからさ。びっくりした」

「……うん」

「そっちの子って、もしかして、ハルの――」 

「仁科の友だち。頼まれて駅まで送ってるとこ」

「そっか。仁科も元気してる?」

「変わりないよ。ごめん、もう行くから」

「あ、悪い。またな!」


 返事もせずに、悠は足を早めてコンビニを離れる。結衣が慌てて小走りに追いかけると、コンビニが見えなくなってからようやく悠の足が止まった。


「ごめん……友だちとか言って」


 背を向けたままの悠が、ぽそりと謝罪を口にする。彼が結衣の顔を見ずに話しかけてくるのは、これが初めてかもしれない。


「朱莉の友だちで合ってるし、朱莉が頼んだのも合ってるよ」

「そういうことじゃなくて」

「古澤くん」


 結衣が軽く袖を引っ張ると、やっと悠が振り向いた。互いの目が合ったら、結衣の中にまん丸く温かな感情がじんわりと広がっていく心地がする。


 結衣は十ヶ月、ものすごい頻度で目をそらされてきた。照れ屋の木田は、いざ付き合うと徹底して結衣を避けた。彼にとってあの交際になんの意味があったのかと首をかしげるほど、結衣は彼の前で、存在しないものになってきた。


 悠との時間はまだ二週間にも満たない。その短期間でもじゅうぶんに実感している。彼はいつも結衣をまっすぐ見てくれる。


 ――嬉しいなぁ。


 だから、そんな些細なことを気に病んで、目をそらさないで欲しい。


「謝ることなんてない。どうしても言いたくない相手っているものだし。それは普通だよ」

「……普通?」

「私にもいるもん。普通、普通」

 

 はっきりとそう言い切ったら、結衣の肩にぽすっと悠の頭が降りてきた。


「はわぁぁ! 古澤くん!?」

「一分。一分だけ許して」

「お、おお……数えましょうか?」

「そこはどうかざっくりで。できれば、ちょっと長めにオマケお願いします」


 甘えられている。何のスイッチを押してしまったのかわからず、結衣はあわあわと手を動かし、五秒数えたあたりでやっと手を下ろした。


 首に触れる柔らかい髪がくすぐったくて、少し身をよじる。そんな結衣の動きに、悠の身体がくっと強張った。


 ――大丈夫。嫌なんじゃないよ。


 結衣が背中をさすると、悠は緊張を解く。深く結衣に沈める場所を探すように、ひたいをすり付けてきた。

 長めの前髪がくしゃりと崩れる。そこで、彼のひたいにずいぶん目立つ傷跡があることに気づいた。


 中三の秋。結衣が見た彼にこんな傷はなかった。周りに厚い壁をわざわざ張るような振る舞いも、あの頃の彼はしていなかった。

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