第9話 天高く、水かぶる秋

 * * *


 市内中学合同大会は毎年九月の土曜日に開催される。

 たいそうな名前がついているが、バレー、バスケなどのメジャーな運動部が出場するスポーツ大会だ。該当種目の部員は強制参加になる。

 当然、合唱部の結衣には関係のないイベントだった。


 では中学三年の九月、結衣がなぜその大会に関わったかといえば、二学期に体育委員を引き当てた素晴らしいくじ運のせいである。大きなイベントが絡む時期に限って、結衣はそういうものを引き当てる。


 あの秋、まだ暑さの残る晴天の土曜日に、結衣は運営手伝いとして市民体育館にいた。





「こざーわくーんっ!」


 黄色い声という表現は、可愛らしすぎて実態にそぐわない。集団で発すれば試合進行の妨げになるほどに耳をつんざき、うねりまでも持ちあわせる音の塊。ちょうど用具倉庫を出てきた結衣が、何か事故でも起きたのかと慌てたほどだ。


 体育館の出入り口に群がる女子生徒たちは皆、東第二中学の制服を着ている。運動部でも運営手伝いでもない彼女らのお目当ては、同じ東二中のイケメンバスケ部員だった。短髪で整った顔、長身と、確かに集団の中でも目を引く男子だ。

 騒ぐ声を聞いているうちに、古澤 悠という彼のフルネームを知った。


 はじめはキャアキャアと騒がしくしていただけだった声が増長する。出口寄りのコートに移動しろだの、視線を寄越せだの、迷惑な要求が飛ぶようになる。


 体育館内の他の部員は、見た目にもわかりやすいほど苛立っていた。


 各校から集まった体育委員は生徒らに何度も注意し、退出をうながす。けれど事態は動かず、このままでは雪崩を起こしそうで、誰かが教師を呼びに走った。


 騒ぎを起こす集団とは案外賢いもので、誰かが必ず教師の不在に目を光らせている。間もなくこの騒ぎも時間切れになると悟った最前列が、一気に暴走を加速させた。


「せーのっ! 古澤くーん!」


 呼び掛けにつられたように、悠が顔を上げた。いっせいにスマホが向けられる。カシャというシャッター音がいくつも響いた。こんなところで堂々とスマホを使うような生徒に、遠慮とか配慮なんて心はない。


 悠は審判係の生徒に手を上げて試合を止めた。手にしたボールを険悪顔のチームメイトに預け、周りに頭を下げながらコートを出る。


 そこで彼は、その場に居合わせた全ての部員に謝るように、もう一度深く頭を下げた。


 体育館内が水を打ったように静まりかえる中、結衣のすぐそばで、女子生徒がスマホを掲げていた。


 ――……動画?


 謝罪する姿を。それも、なにひとつ彼の責などない謝罪を。記録におさめようとしている。


 気がついたら、結衣は女子生徒の腕にしがみつき、スマホを奪い取っていた。


「は、何すんの!」

「そっちこそ何考えてるわけ!?」


 逆上する彼女に掴みかかられながら、結衣は動画を消去した。


「こんなの、立派な盗撮じゃんか!」


 彼女の顔がカッと赤くなる。


「みんな迷惑してます。出てってください」

「写真撮ってるだけでしょ!」

「だけ、じゃない!」


 スマホをドンと彼女の胸に押し付けた。結衣よりはるかに胸部の発達が健やかで、それがまた腹立たしい。


「普通の中学生だよ!? こんな風にガシャガシャ写真撮られて喜ぶって本気で思ってんの!?」


 叫んだ瞬間、結衣は顔面にバシャンと水を浴びた。

 次いで足元に転がってきたのは、空っぽの特大防火バケツだ。


「……ぁ」


 ふたりがかりで防火水をぶちまけた女子生徒らが、引きつった顔で一歩足を引く。

 彼女の視線をたどり、結衣はとなりに顔を向けた。


 結衣のすぐそばで、仲裁すべく腕を付き出したままの水濡れイケメンが仕上がっている。


「……ご、めん。まさかの巻き込み事故、かな?」

「や。謝るべきは、俺のほう……なので」


 濡れネズミがふたりで呆然と向かい合っていると、離れていた教師陣がようやく駆けつけた。


 騒がしかったギャラリーは外へと誘導されていき、体育委員がモップを持って来る。濡れネズミがいては片付かないので、結衣と悠は体育館前のコンクリートステップに誘導される。


 結衣は「そうだ」と振り向いて、体育館内に向けてぶんぶんと手を振る。


「お騒がせしました! みなさんどうぞごゆっくり……って、ごゆっくり試合はしないね?」


 結衣としては狙ったつもりはなかったのだが、館内にほどほどの笑いが起こる。これはこれで良いかと安堵して体育館を出た。


 先に出ていた悠がジャージを脱いで水気をぎゅっと搾っている。制服の結衣は同じことをするわけにもいかず、張り付いて不快な長袖を肘まで押し上げた。


 すると結衣の肩に、悠のジャージがかけられた。


「わ?」

「あの……その、ブラウスが……」


 顔をそらした悠の言葉で、我が身を見下ろす。ずぶ濡れのブラウスは体にぴたりと貼り付いて、インナーのラインがくっきり浮いてしまっている。


「わぁぁお見苦しい! すぐ! すぐ返します! ごめんね」

「だから、謝るのはこっちで――」


 悠の言葉が終わる前に、見知らぬ先生に呼ばれる。競技用プールに併設されたシャワーを借りることになり、タオルとポリ袋、それから、どこかの部の有志が提供してくれた体操服とジャージを渡された。




 

 シャワーを浴びて着替えを済ませ、濡れた制服は袋に放り込む。

 悠のジャージもきちんと洗って返したいところだが、他校生相手では返す手段に困る。せめてシャワーで一度すすぎ、ぎゅっと搾っておいた。


 プールを出ると、すでに支度を終えた悠がぽつんと立っていた。


「良かった。居なかったらジャージ誰に預けようかと思ってた」


 結衣がジャージを渡すと、悠は持っていたポリ袋にそれを詰めた。

 そして、勢いよく頭を下げる。

 コートを出たときと同じ、直角定規がフィットしそうな深いお辞儀だ。


「ごめん」


 頭を上げた彼の表情は、疲れ切っているように見える。


「古澤くんが謝ることなんて、何もなかったよ」

「俺が上手くみんなを帰せたら、こんな目に合わせなかった」

「そんなそんな。芸能人じゃあるまいし」


 すぱんと彼の言葉を断ち切って、結衣は努めて明るく答えてみせた。

 こんなものが彼の日常なら、学校生活はかなり苦しいものだと容易に想像できる。今日だけで何度も深く頭を下げる彼の姿が、結衣にはやるせない。


「あんなの、一般人にどうにかできるレベルじゃないと思う。普通の中学生じゃ無理だよ。まず先生の怠慢だよね」

「さっきもそれ聞いたけど。俺のこと、普通の中学生って……」

「え、違った!?」


 もしや、何か間違えただろうか。

 驚いて目の前の悠を上から下まで観察するが、すこぶる顔がいいことしか結衣にはわからない。

 少しの沈黙を挟み、ふーむと結衣はうなる。


「成績がすごくてらっしゃる? 全国上位?」

「や……中の上ぐらい」

「帰国子女とか、ハーフとかクォーターとか?」

「日本人×日本人。三代遡っても日本人」

「どこかの理事長の親戚とか、大会社の跡取り?」

「い、いや……普通の……会社員×会社員の子。変わってるとしたら、親が海外多くて留守がちってことぐらい」

「じゃあ、サーカス並みに身体が柔らかい!」

「むしろかたい!」


 結衣の頭で思いつく、中学生規模で話題になりそうな人物背景をいくら並べても外れてしまう。自分の発想の乏しさにがっかりしながら、結衣は降参した。


「普通、では?」

「すごく、普通……」


 悠は結衣の顔をまじまじと見て、それからふはっと吹き出した。


「ふ、ごめ……うん。俺、普通だ」


 はははっと笑う彼は、悠ならぬ春な笑顔で腹を押さえた。楽しそうに笑う彼を前に、どうしていいかわからず、結衣はタオルで頭をくしゃくしゃと拭いて手櫛を雑に通す。


 ひとしきり笑いに苦しめられていた悠が、ようやく顔を上げた。そこには晴れた空みたいな笑みがある。そうやって笑うと少し幼くて、可愛らしい。


「ありがとう」

「何かわからないけど、元気になったなら良かったです」


 いい笑顔だなぁと、つられた結衣も笑顔で返しす。それじゃ、と別れを告げようとすると、結衣の手は悠に掴まれた。

 

「あの! 三年生、かな。高校って、決めてる?」

「え、と。向瀬高校」

「そっか……うん。ありがとう」


 最後のお礼がなんだったのかわからない。

 別れ際に見た彼は笑顔のまま、ずっと手を振っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る