第10話 デート日和

 * * *


 いつスマホが震えてもいいように、両手で持つ。

 流れる景色を車窓から眺め、時々スマホに目を落とす。通知がないか確かめたら、景色を見る。

 けれどまたすぐに、スマホを叩く。


 木田とのデートは実現しなかった。木田は前日の夜更かしがたたって、約束の三時間後に起床のLINEを送ってきた。通り雨が降ってずぶ濡れになった結衣のすっぽかされ記念日を、雨上がりの虹が祝福した。空気の読めない大気光学現象に何度も悪態をついて、すれ違う小学生に不審な顔をされたものだ。


 そんな結衣にとっては、これが初デートだ。実現すればの話だが。


 またスマホをにらんで、なんの通知もないかと息をつく。彼氏を疑いまくっている可愛げのない彼女である。


 結衣の最寄り駅から、駅四つで学校のある向瀬につく。今日はそこから電車を乗り過ごして、さらに駅を九つ。終点駅にあるショッピングモールに、クマを食べに行く。そう、クマを。


 通学定期範囲外を乗り続けること駅六つで、朱莉たちの最寄り駅につく。

 さすがに週末とあって、一気に電車が混んできた。緊張のあまり立ちっぱなしだったことを後悔しながら、人の流れに押されて手すりを離れていく。


 掴まる場所を探してあたふたしていると、くっと手首を掴まれた。


「こっち」


 悠だ。

 少し息を切らした彼は、結衣を手すりのそばに誘導した。


「けっこう混んでるな。大丈夫?」

「……ほんとに来た」


 結衣の言葉に悠はきょとんと目を丸くして、それからぱちんと破顔した。


「もちろん来るよ。這ってでも来る」

「這うレベルなら日を変えようね?」

「それはそう。今日の俺はすこぶる健康なのでちゃんと来ました」


 どうだと誇らしげに言われる。緊張でやや寝不足の結衣と違って、悠はいつも通りだ。


 そんな悠の顔を盗み見る視線がいくつかある。混雑に埋もれがちな結衣にもわかるほどだから、目線の高い悠からはもっとわかるだろう。


 彼は吊り革を両手で持ち、腕の間に顔をうずめて、刺さってくる視線から隠れるようにした。


 ――慣れてるんだろうなぁ。


 と、シャッター音が、たて続けにふたつ響く。

 少し離れた位置に立つ高校生ぐらいの女子ふたりが、こそこそとささやき、ちらちらとこちらをうかがいながらスマホ画面を見せあっている。


 たぶん、撮られた。

 むっとした結衣が向かおうとすると、悠の手に止められる。


「ここで待ってて」


 悠はするすると人の間を抜けて、ふたりに近づく。気づいたふたりが慌てて移動しようとする。

 そんなふたりに、悠は「すいません、ちょっとお聞きしたいことが」とあえて大きく声をかけた。


 結衣の位置からでは、それ以降何を話しているのかわからない。

 悠の後ろ姿と、青くなっていくふたりの顔。それから、彼女たちを呆れたように見る周囲の目。そのあたりから、やはり盗撮されたのだとわかる。


 やがて、悠は静かな顔で結衣のもとに戻ってきた。


「ただいま」

「今の……」

「こころよく消してくれたから大丈夫」


 中学三年の秋。自分にカメラを向けられることにひたすら耐えていた、あの日の彼とは違う姿だ。


 彼にとって、この二年はどんな時間だったのだろう。そんなことを考えているうちに、電車は終点にたどり着いた。


 ホームから階段を上って改札を出る。四つの路線が乗り合わせる駅は広く、かつ、人が多い。結衣にはなじみのない駅なので、ひたすら悠についていく。


「古澤くんはよく来る?」

「よくってほどではないけど、近いから来るよ。先週も樹生と来たし」

「良かった。私全然場所わかってなくて」


 突然、悠の足が止まった。

 彼は天井から下がる案内板を見上げ、ばっと踵を返す。


「ごめん、真反対だった……」

 

 真顔の悠は、結衣の両肩を持って回れ右させてきた。


「古澤くん。もしかして、緊張してたり」

「気づかないで。ほら、しっかり歩いてーいっちにーいっちにー」

「はーい」


 背中を押されながら歩いて連絡デッキに出た。悠はそのままデッキの端に結衣を連れて行き、ショッピングモールに向かう人の流れから外れたところで立ち止まる。


「佐伯さん」

「なんでしょう」

「ここで一回転、くるっとお願いします」

「……こう?」


 謎のリクエストに応え、結衣はその場でひと回りした。朱莉に譲ってもらったスカートが、風を飲んで軽く裾をふくらませる。ふわりとひるがえり、結衣の足首を撫でて離れる。


 回りきった結衣が正面から悠を見上げると、彼はほふっと息をついた。


「可愛い」

「ひょっ!?」


 結衣が猫なら今、全身の毛を逆立てた。

 ふやけそうな両頬を手で押さえる。もう何度目かわからない可愛いコールに、結衣は一向に慣れない。


「前々から言いたかったんだけど、耐性がないので、そういうのは小出しでお願いできない?」

「まだ今日は一回目ですが」

「通算で物事を捉えるのも大事な視点かなと」

「言われたくない?」


 しょんぼりした美顔が攻めてきた。こういうとき、悠はけっこうずるい人だし、結衣は性懲りなく流されやすい。


「嫌……じゃないから、困ってる」

「じゃあもう少し自重するから、言えるときに言わせて」


 あ、と悠を見上げる。今、言葉の切れ端に彼の不安が滲んだ。

 彼と同じ熱量を結衣が返せていないこと。この先で加熱していける保証がないこと。そんなことがきっと、彼を少し怖がらせている。


 小さく点火しただけの、熱を持ちきらずに消えてしまった恋しか知らない。悠の好意を痛いほど浴びても、結衣にはわからない。自分の中に何が生じれば恋になるのか、どうすれば解になるのか。


 十ヶ月抱いてきたものは、正しく恋と呼べるものだったか。


 結衣の中に今あるのは、目をそらされずに、彼の瞳の中にいられる嬉しさだけだ。


 ――嬉しさの育て方とか知らないしなぁ。


 脳科学の視点から、恋への発展プロセスを解説してもらえないものか。嬉しさに糖分とスリルを付加すれば形質変化するとか、嬉しさが閾値しきいちaを超えれば恋とイコールで結ぶことができるとか。


 結衣のわだかまりを知ってか知らずか、悠は結衣の手を引いてまた歩き出した。


「とりあえずクマを食べに行こう。大物なので覚悟して」

「やっぱりジビエなの!?」


 ははは、と悠の軽快な声が連絡デッキを跳ねて響く。白パーカーにデニムカラーのゆるいカーディガン。黒っぽいチノパン。肩肘張らないラフなスタイルでも彼は絵になる。

 ショッピングモール入口のガラスに映る自分たちの姿を見て、ちぐはぐでないことを確かめた。今日の結衣は平素の七倍ぐらい背伸びできている。


 悠のくれる『可愛い』は、丸まった背筋を伸ばす。朱莉のスカートという品質保証が、うつむきそうな顔を下から支える。

 自分の中から湧く自信はゼロだ。とことん他力でここにいる。やや反省だ。


「あの、古澤くん」

「ん?」

「私、デートって初めてなので不慣れですが、よろしくお願いします」


 軽く一礼して顔を上げると、なぜか悠が両手で顔面を覆い空を仰いでいた。



 

 

 とりとめのない会話をしながら、ショッピングモール三階にある目的の店にやってきた。

 デフォルメされたクマのパティシエが目印。『クマっくまのクレープやさん』である。


「ジビエじゃない!」

「さすがに初デートでジビエはハードル高いから、この辺で許して」

「許すっ。可愛いっ。なんだこれー!」


 クレープはどれもクマのクッキーやクマのミニパンケーキが乗っていて、クマっくまの名に恥じないクマ推しだ。


「食べるのが罪深いやつだぁ」

「でしょ。オプションでクマ盛って群れを育ててもいいんだけど、そもそもがボリュームあるから気をつけて」

「はーい」


 結衣の目は、苺デラックスと限定ティラミスの間を行ったり来たりする。苺にはパンケーキ、ティラミスにはクッキーと、乗っかるクマにも違いがあるのが憎い。


「どれか悩んでる?」

「究極の二択を迫られています」

「ちなみに、俺はこれ」


 悠の指がススッと苺デラックスの写真に停まる。


「あっ!」


 途端に取られた気分になるから不思議だ。苺の株が急上昇して惜しくなる。


「佐伯さん、いいことを教えてあげよう。こういうときは半分こしましょうと言えばいいのですよ」

「そんなハードルの高いこと、許されますか」

「今、俺は彼氏なので。そんなことができるんです」

「彼氏、すごい」

「では、そのすごい彼氏のために、ドリンクも半分こさせてください。俺はこのゆずソーダとレモンソーダの違いが気になって夜しか眠れません」

「健やかな睡眠ですね。半分こしましょう」

「彼女、すごい」


 会計は仲良く折半して、ずしりとしたクレープをそれぞれ手渡される。ドリンクの載ったトレイを悠が持ち、店内の奥まった座席に落ち着いた。


「いただきますっ!」


 結衣は早速ティラミスクレープをかじる。

 だが、向かいの悠はなぜかスマホを掲げた。


「一枚、写真撮っちゃ駄目?」

「駄目くないけど、もうかじっちゃった……」


 こういうときは映える写真を取るべきだった。食い気先行の自分に、デート仕草がなっていないと反省する。

 ごめんねとティラミスクレープをカメラに向けると、悠は違う違うと首を振った。


「クマを食す佐伯さんの写真」

「あ、そっち!?」

「駄目?」

「駄目く、ない」


 結衣がクレープで少し顔を隠すと、悠はたて続けにシャッターを切った。 


「……一枚って言った」

「厳選して一枚になるから嘘じゃない」


 満足げな悠はスマホを置いて会釈した。


「ありがとうございます。では、こちらもいただきます」


 と、苺クレープのてっぺんを飾るクマとにらめっこした。


「かわいそうだが、俺はきみを食べる」


 キリッと宣言してからクマパンケーキをかじる。愛くるしいクマを胃におさめるという凶行におよんだ彼は、そのままノンストップで苺にかじりついた。ひと口が大きい。思ったより大胆に食べる。形のいい唇に乗った生クリームをぺろりと舐める舌がやや艶めかし――。


「いや、変態か!」

「え、俺!?」

「こっちの話ぃ……」


 神が許したもうた造形美は、店内の視線をひょいひょいと集める。吸引力がすごい。

 連れの自分はいったいどう見えるのだろうと、どうしても気になってしまう。朱莉のくれたスカートに目を落として、なんとか自信を補填する。


 甘くてほろ苦いティラミスをしばらくかじり、レモンソーダをひと口。

 直後、結衣は努めて表情を消した。


 幸せそうに苺を堪能する悠に、無言でレモンソーダを差し向ける。

 受けとってもらうつもりだったのに、悠はそのままストローをはむっとくわえた。


「酸ッッ!!」

 

 口を押さえてうつむく悠に満足して、その隙にゆずソーダを奪う。ズッとひと口すすって、「ひむっ!」と奇声をもらした。


「よく考えたらどっちも酸っぱいな!」


 今さらな悠の気づきに、声を出せないまま、こくこくとうなずく。クレープが甘いだけに、ビタミンあふるる酸味が過剰なまでに殴りつけてくる。


「甘い×甘いよりは良さそうぅ酸っぱぁ」

「佐伯さんも苺、苺食べな。中和中和」


 差し出された苺クレープを受け取ろうとしたら、直接かじりつけと指の動きで命じられる。がぶっと思い切りよくかじったら、悠は悠で、結衣の手にあるティラミスクレープにかじりついた。


 お互いにクレープを食べさせあう構図になっていると気づいたら、結衣の頭がぼんと沸騰する。


「佐伯さん? 梅干し大量に詰められたみたいな顔してるけど」

「今、彼氏彼女感が暴力のように降り注いでいます。不肖佐伯、これをどうにか耐え凌いでいるところです」

「それは……喜怒哀楽でいくとどの感情?」

「喜の、特上っ……」


 ぼはっと笑いまみれの息を吐き出した悠が、腹を押さえてヒッヒと痙攣する。


「そんなに笑うところかな!?」

「だって……これで特上なら、この先、佐伯さんはどうなるのかと思って」

「……三途の川が近いかもしれない」

「そこ、遊泳禁止だから帰ってこようか」

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