第6話 コンプレックス

 * * *


 結衣に毎朝一緒に坂を上る彼氏っぽいものができて、一週間強が過ぎた。

 押しの一手で詰めてきた告白と違い、悠は緩やかに結衣と歩みを進めてくれる。


 帰りは追試が終わるまで別で。

 昼は朱莉と織音との時間を最優先。悠は樹生を伴ってときどき廊下を通りかかり、そこでいくらか立ち話をする。

 悠からの要求は、昼休みに九組に来ないようにとだけ。ひな子たちが教室で昼食をとっているのだと、彼の要求を受けてから数日遅れで知った。 


 結衣は廊下で、顔見知りの女子から声をかけられるようになった。


「あの古澤くんと付き合ってるってほんと!?」

「女子のLINE全スルーのあの極寒と!?」

「大丈夫? 佐伯ちゃん、いじめられてない?」


 校内だと、こんな具合に心配されがちだ。女子からの悠の評判はかんばしくない。


 わからなくもない。結衣だって彼の二面性に戸惑っている。

 毎朝、駅で結衣を待つ間。悠はイヤホンを耳にはめ、自分の周りを厚い壁で囲う。教室にいるときの彼もそうだ。


 そんな彼が、結衣を見るだけでみるみる極地の氷を溶かすから困る。男女交際で地球を敵にまわしたくはない。


 地球に優しくない悠は、LINEになるとなぜか敬語を使う。


 帰宅後はときどき、ささやかなメッセージのやり取り。帰り道で出会った猫だとか、今やっているテレビが面白いだとか。休日には樹生と勉強会をしたとかで、昼食時に堂々嘘をついて注文したという、カップル限定パフェの写真が届いた。


【 こざわ >> 下見しときました 】


 スマホを取り落としそうになる。心臓に悪い報告だ。こんなことで顔が熱くなるのだから、結衣はちょろい。





 そんな風に毎日を過ごして、木曜日。中間考査の追試日。

 朱莉は放送部の定例会があって、久しぶりに結衣ひとりの帰り道になった。


 あの落雷みたいな放課後から一週間と四日。あっという間に過ぎた。落ち込むヒマなく賑やかだったせいか、今になって急にいろいろなことに実感が追いついてくる。


 正面玄関から正門に向かう真っ直ぐなアスファルトを少し沈んだ気持ちで歩く。中庭とテニスコートに挟まれた、無駄に長い一本道。誰が呼んだかプロムナード。そんな風情のあるものではない。


 歩いていると、ぱかん、ぱかんとテニス部が打ち鳴らす破裂したみたいな音がする。その音を目で追いかけようとした自分が、いつかここにいた。

 恋しかった音は、ただの打球音に格下げされた。わずか十ヶ月での結衣の手のひら返しに、テニスの神もきっと戸惑いを隠せないに違いない。この身にくすぶる戸惑いの大きさに免じて、こんな思春期の身勝手を赦して欲しい。


 付き合うという漠然とした言葉の正体がわからないまま、具体的な形をまとうこともなく、知らない間に溶けて消えていた。消えるなら、挨拶のひとつぐらいあって欲しかった。七月に終わっていたというなら、もっと早く教えてほしかった。


 いまだに区切りがつかない。

 こんな状態で悠の言葉にうなずいたのだから、結衣はとんだ悪人だ。


 跳ねる襟足を引っ張りながら、正門を抜けたときだった。

 たたたと足音が追いかけてきて、結衣のそばで速度を緩めた。


「駅までご一緒、ええですか?」


 にかっと笑うのは、知り合い歴一週間と四日の高砂 樹生だ。


「え、ええです!」

「お! いいお返事やなぁ」

「高砂くんはどこにお住まい?」

「樹生でええよ。家は線路挟んで向こうやし、駅までご一緒」


 木田の家のある方面だ、と一瞬思考が流れる。彼と駅までご一緒することはなかった。



 世間話をしつつ、ふたりで坂を下る。

 改めて近くで見ると、やはり樹生は垢抜けている。話の合間についつい横目で見ていると、樹生は結衣の顔をのぞき込むように顔を近づけてきた。


「佐伯さんの」

「あ、結衣で大丈夫」

「いや……こざに刺されそうやし、しばらく佐伯ちゃんでいこかな。ほんで、佐伯ちゃんのコレ」


 樹生は自分の首後ろをぽんぽんと叩いた。結衣がハッとして跳ねた襟足を押さえると、樹生がうなずく。


「こざは、それはそれで可愛いとか言うんやけどな。どう見ても佐伯ちゃんとしてはめっちゃ気になっとんのやろなぁ思て」

「そんなに観察されてた!?」

「変な意味はないで? こざがいちいち目で追っかけるやろ。オレもつられて視界に入れてまうねん」


 うひっ、と、結衣の喉から奇声が飛び出す。そんなに頻繁に見られているのか。頬を熱くさせながら、結衣はまた髪を引っ張った。


「ここ一年ぐらい伸ばしてみようとしたんだけど。まあぁぁぁ言うこと聞かなくて」

「その長さが一番鬼門なんよなぁ。越えたら次が肩」

「うわー。ロングとか絶対無理だ。忍耐尽きる」


 そもそも、こんな半端ではねやすい髪でいたのは結衣の希望じゃない。木田のリクエストだ。もう維持する必要もない。

 ふわふわと柔らかなロングのひな子、つややかストレートの織音が順に頭をよぎったが、あそこまで耐える気力を結衣は天から授かっていない。ロングを維持できる人はきっと、前世で高い徳を積んでいる。


「でな、ちょっとお助けしよか思て。そういうの、気になるタチやねん」

「え、なんとかなるの? 私の頭、そうとう根性曲がってるんだけど」

「いけるいける。やし、ちょっと寄り道して帰らへん?」

「お宅訪問の流れ!?」

「ちゃう。それはこざに絞められる。オレの人生が詰む」



 坂を下りきって、商業店舗の立ち並ぶ広い通りを抜ける。いつもなら駅へ向かう階段を登るところだが、樹生は階段に背を向け、線路沿いを歩き始めた。

 しばらく線路に平行して歩き続け、新幹線の高架が見えてきた当たりで踏切を渡る。見慣れない町並みに結衣がきょろきょろしていると、樹生が「ここ」と足を止めた。


「お悩みごとはその道のプロに聞くのが一番やろ」

「美容院?」


 こぢんまりとした北欧風の外観が、クリスマスツリーに飾るミニチュアの家のようで可愛らしい。扉にある小窓のほかからは店内が見えない作りで、隠れ家みたいだ。


「え、待って。飛び込みとか無理じゃない?」

「連絡済み」

「ええ……手回し良い」

「ぶっちゃけ、初めっから今日を狙っとったし。佐伯ちゃんにご予定がなくて何より」


 樹生が扉を開けると、掃除中の若い男性美容師が顔を上げた。


「お帰り、タツ」

「ただーいまー」


 樹生と目尻の下がり加減がよく似ている。ひと目見て血縁とわかる顔だ。髪型は樹生よりワイルドな短髪で、カラーもぐっと明るいシルバーアッシュ。


「これ、兄貴の俊也としや

「初めまして。弟がお世話になっております」

「は、初めまして。佐伯です」


 結衣がお辞儀すると、俊也は嬉しそうに目を細めた。


「やっと会えたなぁ、佐伯さん」

「私、そんな有名人でした?」

「こざ君、ここに来るとだいたい佐伯さんの話しかしないから」

「ええぇ……」


 知らないところで名前が知れ渡っている。


「タツから髪のお悩みがありそうと聞きまして。僕も会いたかったし、お招きしてみました」

「なんだかすみません」

「こっちこそ強引でごめんね。普段遣いできる簡単なアレンジでもどうかなと思って。余計なお世話なら全然帰ってくれていいし、気にしないで」


 笑顔の俊也は、無理に勧める様子もなく結衣の出かたを待っている。樹生もあとは我関せずといった顔で待合のソファに陣取った。


 結衣は少し頼りない心地で、鏡に映る自分を見た。

 木田が区切りをくれないなら、自分でつけるしかないのだ。


「せっかくなんですけど、もう伸ばす必要がなくて。だから近々切ります」

「あ、それも有りだよ。むしろ僕はそっちをおすすめしたい」


 俊也に手招きされて、セット椅子に座る。「ちょっとごめんね」と断りを入れた俊也は、結衣の半端な髪を軽く後ろにまとめた。 


「うん。あごのラインも首筋も綺麗だし、ありだなぁ」


 そう言って、カットクロスを引っ張り出してくる。


「嫌ならハッキリ断ってくれていいんだけど、今、切ってかない? タダで」

「タダで!?」

「そう。今日ならタダ。なお、タツもこざ君も僕が担当しております。腕はそこでご判断ください」

「乗ります!」


 思い切りよく答えたら、ソファでくつろいでいた樹生が目を丸くした。


「え! ほんまにええの!? オレに気遣うことないで?」

「だってタダだよ?」

「それはそうやけど。今日の今日で思い切り良すぎん? 兄貴が強引すぎてオレちょっと引いたで?」

「いい。なんか……ここ、転機のような気がする。なんかアツい」


 十ヶ月もの間ぐずぐずとしてきた。七月には終わっていたなんて気付きもせず、ずるずると伸ばし続けて。何も言えず、何も訊けず、結衣はずっと停滞していた。


 鏡に映る俊也に向かって頭を下げる。


「思い切ってやっちゃってください! お願いします!」


 俊也が口をポカンと開けて、それから大笑いに移行した。


「気持ちいい子だなぁ!」


 大笑いされると恥ずかしくなるが、顔は伏せない。自分の胸に底流するあれやこれやを一緒に切り落としてしまえば良い。半ばヤケになっているとは自覚しつつ、それでもいいと思い切る。


「ご希望はございますか?」

「タダなのにオーダーまで通るんですか」

「もちろん」

「じゃあおさまりやすくて、朝が楽で、それと」


 それと、と自覚なく口をついて出て、今度は顔を伏せた。待合にいる樹生に聞こえないよう、声のボリュームをぎゅっとしぼる。


「ちょっとぐらい、可愛い……感じで」


 鏡に映る俊也が、懐かしく何か思い浮かべるような顔をして「お任せください」と言った。

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