第5話 放課後数学教室
* * *
火曜日は、職員会議の都合で短縮五時間だった。
いつもより一時間も早い下校に、どこか寄り道でもしようかなんて朱莉と盛り上がっていると、教室に織音が飛び込んできた。
「ゆいこぉ、あかりん、助けてぇ」
その手には、お世辞にもよくやったと言えない中間考査のテスト用紙が握られている。
向瀬高校は各学期ごとの中間・期末考査制だ。結果次第で中間考査には追試、期末考査には補講がプレゼントされる。これを温情と呼ぶか鬼と呼ぶかは、本人の心持ち次第だ。
織音にとっては、鬼。悲壮な顔が物語っている。
「数学?」
「う、ううう。来週の木曜が追試」
「挽回できるんだからまだいいって。自習室行く?」
「いぐ……」
外見の清楚なイメージをガラガラと崩しながらうなずく織音に、免疫の足りない八組男子の一部が引いたような顔をする。
高校になっても、見た目だけで一定のレッテル貼りはある。入学当初、こういうものに結衣は少しがっかりしたのだが、当の織音は慣れたものだといつも笑い飛ばす。たくましい。
自習室は、駅と直結した商業ビルの中にある。ビルの五階が、公民館や役所の分室などがある市民サービスフロアになっているのだ。
校内にも自習室はあるし、調べものついでなら坂の上の図書館のほうが圧倒的に便利。さらに、この三箇所で比較すると閉館時間がいちばん早いこともあって、公民館は穴場だ。
結衣たちが自習室に入ると、先客がひと組、会議机にプリントを広げていた。
悠と樹生だ。悠は結衣を見るなり「わぁぁ!」と大慌てでプリントを掻き集める。
悠の保護しそこねたプリントが一枚、ひらりと結衣の足もとに遊びにきた。
数学Ⅱ・二年九組・古澤 悠
そのとなりに赤ペンで書かれた点数は見なかったことにした。プリントをそっと裏返しにして机に乗せる。するするとそれを引き上げた悠は、すとんと肩を落とした。
「俺、ほんとに向瀬ギリギリだったもので」
苦手教科ぐらい誰にでもあるだろうに。しょげた姿に可愛らしさがあって、結衣は失礼と知りつつ笑ってしまう。
悠は複雑な顔をしながら、となりの椅子を引いた。
「よかったら、どうぞ」
「あ、今日の主役は私じゃなくてね」
主役の意向を確かめるべく織音を見たら、彼女はさっさと樹生のとなりに座っていた。すでに筆記具も教科書もスタンバイさせている。
「最強じゃん。理系クラスが四人もそろってたら文系っ子織音サマの追試は堅いわ」
「自分、ちょいちょい厚かましない?」
「遠慮して良かったことが人生にないんだもん。この世は我を通した人間が勝つ」
「メンタル鋼でもテストは勝てへんのな」
樹生が織音のテスト用紙をぴらりとつまむ。
「それとこれとは話が別なの!」
そこで朱莉が、パンパンと手を叩く。
「職員さんに追い出される前に黙る。勉強しに来たんでしょ」
織音と樹生が顔を見合わせ、こくこくとうなずく。結衣もささっと悠のとなりの席に着いた。
結衣も危うげない成績という自負はあったが、樹生の高性能が際立った。関西方面からの転居に合わせて高校を選んだ彼は、通学距離を最優先条件にした。悠によれば、樹生が定期考査で苦労しているところは見たことがないらしい。
織音はそんな樹生の丁寧な指導で問題を解きながら、ときおり胸元に流れてくる髪を後ろにぺいっと流す。
ふいに樹生が、その髪をひと房シャーペンの胴で引っ掛けた。
「あー鬱陶しくてごめん。今日ゴム忘れてきた」
「いつもは?」
「適当に縛ってるー」
「ほーん、もったいな」
樹生は鞄からゴムとピンを取り出した。さすがおしゃれ男子。装備の充実ぶりに結衣は感心する。
そのワンセットを織音に渡すのかと思えば、樹生は自分の手首にゴムを通し、椅子を引いて立ち上がった。
慌てて結衣も腰を浮かす。
「高砂くん、待って!」
「髪まとめといたろかて思ただけなんやけど。集中できんことない?」
「織音ちゃんが自分でやるから」
悠がハッとして樹生に座るよう目でうながす。樹生も雰囲気を察して席に戻った。
「樹生。人の髪いじるのに前のめりすぎ」
「すんません。綺麗なぁでつい。ほんま、他意はない」
素直な謝罪とともに、樹生が織音を拝むみたいに両手を合わせた。織音は相変わらずシレッとした顔で、樹生に手のひらを向ける。
「借りていーい?」
樹生が慎重にゴムを乗せると、織音は笑って髪を雑に縛った。
「ありがと。で、高砂先生、問四。はやくー」
「…………なんか、自分も難儀そやなぁ」
「何か言った?」
「こっちの話。問四な」
織音の表情は何ひとつ変わらないまま。指でさりげなく自身の袖を引っ張って、手首まで念入りに隠す。今、織音の腕にはきっと鳥肌がたっている。
樹生がシャーペンで髪に触れた。間接的でも誰かに触れられた。それは織音を刺激する。
伝えておくべきだったと結衣が悔いていると、織音の指が結衣の手をつついた。
「ゆーいこ。大丈夫よ」
「……うん」
いつもの織音なら絶対に中座する場面だった。耐えてくれたのは結衣を気遣ってのことだとわかるから、申し訳なさが湧く。
悠からすっと差し出されたプリントの隅に、「ごめん」と書いてある。少し右上がりの癖のある丁寧な字だ。こちらもまた、結衣を気付かう姿勢が前のめりで申し訳なくなる。
大丈夫と書き込んで返すと、今度は奇怪な絵がやってきた。吹き出しに「元気?」と書いてあるものの、何者が結衣に体調を問うてくれているのかわからない。やけに長い顔でかつ下膨れの、犬らしきものに見えなくもない。
キュッと矢印を謎物体に向け、「これ何?」と書き込む。すると、悠は遺憾という表情でカリカリと四文字を書き込んだ。
ペンギンと。
「ふ……ぅんんッ」
「こら、笑わない。俺、傷ついちゃうでしょ」
「そんなこと言われても、ずるいよコレは」
結衣は両手で口元を隠し、ふひっと笑いをへしゃげさせて耐える。不満げに頬杖をついていた悠だが、すぐに表情をふっと和らげた。
「ずるいなぁ」
「え、私がずるいの!?」
「うん。佐伯さんがずるいの」
どう考えても、この長犬ブレンドのペンギンほどずるくない。
首をかしげる結衣を放って、悠はまた次の問題に着手し始める。何だったんだろうなとスッキリしない気分で顔を上げると、朱莉がむっふりと口角を上げて両頬をつやめかせていた。
「なによぅ」
「なんでもないわよー」
むぅ、と朱莉に追及をかけようとしたときだった。
「あれ? 結衣ちゃんだ」
解放中の入口から、長年聞き慣れたソプラノが飛び込んできた。結衣の手からコロンとシャーペンが離れ、コロコロと転がったところを朱莉が受け止めて返してくれた。
ぱたたと軽快に、ひな子が自習室に入ってくる。
「ひな子……部活、休み?」
「そうなの。今日は職員会議だからお休みのとこ多いんだぁ」
ね、とひな子が振り向いた先には木田が立っている。「っす」と片手を上げながら、彼も自習室に入ってきてひな子の横に並んだ。
ひな子はにこにことして、結衣の顔を見る。
「結衣ちゃん、おめでとう」
「へ?」
唐突な祝福にぽかんとする。朱莉が悠のほうを指さしたおかげで、数秒の間を空けて結衣の鈍い頭が追いついた。
「あ! ありがとう?」
「なんで疑問形なのー。おめでとうだよぅ。でも結衣ちゃんから直接聞きたかったなぁ。高校入ってから全然話せないんだもん」
「ごめん。ってか、ひな子もだよね。おめでとう?」
言葉が空滑りしているのが自分でわかる。何がどうめでたいのやらだ。
ひな子は照れ笑いとともに、結衣に耳打ちする。
「実は七月から付き合ってるんだぁ」
想定外の言葉が鼓膜を撫でまわしていった。思わず木田の顔を見ると、彼はなぜか苛立たし気に結衣を見ている。
――どういう状況ですかね!?
今、結衣はどうにもギルティな元彼の振る舞いを幼なじみから聞かされていて、かつ同時に、その元彼に睨まれている。聴覚も視覚も大パニックだ。
「ひ、ひひひな子。木田くん待ってるし、とりあえず席座ったらどうかな!」
盛大につっかえ、嫌な汗を背中に感じながら提案する。
「あ、そうだよね! 陽太くん、せっかくだしとなりの席使おうよ」
こんな日に限って一向に人の増えない自習室が憎い。そもそも穴場で人が集まりにくい上に、周辺校は六時間授業日だ。
もう結衣の頭は処理が追いつかない。乾いた笑いとともに、意味もなくシャーペンをノックする。
途端、「あー!」と織音が叫んだ。
「ごっめん、川上さんだっけ!? あたしってば慣れてない人が近くにいると集中できなくってさぁ」
「あ……そう、なんだ。じゃあ、どこにしよっかな」
「ひな。向こう」
木田がひな子の腕を引いて、離れた空き座席に連れて行く。
フラれた翌日、元彼が幼なじみを名前呼びしているシーンに遭遇するなど、誰が予測できようか。
結衣がノックし続けたシャーペンの芯が、ついにぺきりと折れた。思春期の照れという難病を克服した木田が眩しすぎて直視できない。あまりの急成長に後光がさしている。初日の出並みの輝きだ。
付き合う相手が愛らしいふんわり女子になると、こんなに人は変われるのだ。
拝みたい、その背中。
結衣が元彼の変化に心中を引っ掻き回されていると、悠のシャーペンの頭がととんと手の甲を打ってきた。
「結衣ちゃん。ここ教えて」
左から右へ。両方の鼓膜を撃ち抜くみたいに、何かが抜けていった。
きききっとぎこちなく左を向くと、美顔の上目遣いという特級国宝みたいなものが、結衣の顔を下からうかがっている。
「ど……こじゃろう」
美声テノールのあまりの威力に結衣がぐっと老け込むと、悠は眉をハの字にした可愛い笑顔で「ここじゃよー」とプリントを叩く。
つられて結衣も笑いながら「ここはじゃな」とシャーペンを握る。
視界の隅で、木田とひな子が席についた。悠が次々質問してくるから、そんなことは些細なノイズにしかならなかった。
閉館時刻を待たず、五時半で切り上げて自習室を出る。商業ビルの二階は駅への連絡口があって、そこから改札まではすぐだ。
「あー……これはもう合格だ。織音サマ、追試なんて左手一本で行けちゃう」
「織音、ちゃんと利き手使って書くのよ?」
朱莉が自信満々の織音に苦笑して、それからちらりと悠に視線を送る。悠はその視線に気づいて、軽く手を挙げた。
「仁科、俺一本ずらして帰るから」
「はいはい。それじゃお先に」
「ほな、オレもこれで。お疲れさん」
「みんなありがとねーあたしの合格を祈っててちょーだい」
それぞれの帰路に捌けていって、最終的に、結衣と悠のふたりが商業ビルの出口に残った。どちらからともなく、ゆっくりと改札へ足を進める。
「古澤くんや」
「なんでしょ」
「朱莉の今のって、私に気使ってるとかそういうやつかな」
「関係ないよ。俺と仁科は一緒に地元歩かないほうがいいの。それより、佐伯さんにひとつお願いがありまして」
悠はあっさりと苗字呼びに戻っていて、結衣は残念二割、安心八割でうなずいた。
「こんな事情で、今週は一緒にゆっくり帰れなくてですね」
「一緒に帰るご予定がありました!?」
「そりゃ、あります。寄り道して買い食いなどもしたいです」
「そ、そのような好待遇でしたか」
悠は残念そうな顔をこくんと上下させた。
「で。追試って、その場で採点だし、すぐ結果でますでしょ?」
「なの? 私、追試のシステム知らなくて」
「わぉ。一回言ってみたい、そのセリフ」
結衣がにひひと笑うと、悠はちょっとすねた顔で続ける。
「合格点取れたらさ。追試終わったあとの土曜日、ご褒美に俺とデートしてくれません?」
「……デェ、ト?」
どうかなと首をかしげる美顔を前に、結衣は結構な時間を硬直した。ぎぎごごと凍った筋肉を動かし、声帯を溶かす。
「ま……」
「ま?」
「漫画ですか!? ご褒美デートなんて私に起こるの!?」
「ご褒美もらうのは俺だけどね?」
結衣の混乱に、悠は腹を抱えて笑う。
「で、お返事。できれば承諾の『はい』で」
「……は、いぃ」
「よし、じゃあ川上さんに追いつかれる前に帰ろ」
とん、と背中を押され、結衣は改札へを通り抜ける。続いて改札を抜けた悠は一番線へ。結衣は二番線へ。別れ際に結衣が手を振ると、あんなに積極的な提案をしてきた彼は、とても照れくさそうに手を振り返した。
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