第4話 公開か非公開か

 不安がよぎる。結衣はこの十ヶ月で、LINEというツールが苦手になった。問いかけたきり応答のない会話は、あまりに度重なれば気分を波打たせる。


 意図したことが伝わっていないのかもしれない。

 何か悪い方向に受け取られたかもしれない。

 いたたまれなくなって、椅子から尻を浮かせかけた。そこでぽんっと新しいメッセージが表示される。


【 こざわ >> 隠す気がなくて、朝から好き放題やってしまったあとなんで今さらですが。佐伯さんが隠したかったのだったら、本当にごめんなさい 】


 丸ペンギンが焦っている。今さらですがのあとにも、ごめんなさいのあとにも焦っていて、とどめに号泣謝罪の丸ペンギンスタンプが飛んできた。


「やっぱりギャップがすごいなぁ……」

「何が?」

「んーん、こっちの話」


 となりでそわそわしている織音をあしらいながら、結衣はまたメッセージを打つ。本当にいいのだろうかという猜疑心さいぎしんを、丸ペンギンが緩和してくれる。


【 ゆい >> 少しだけ、オープンにして平気? 】

【 こざわ >> 今、教室? 】

【 ゆい >> そう 】


 今度は、丸ペンギンが了解と画面を転がる。よほどこのペンギンが推しなのかとまんまるいお腹を見ていたら、廊下からココンと扉を叩く音がする。


 結衣が座ったまま背後へ上半身をひねると、開いたままの後部扉に、ひょこりと悠のマッシュ頭が生えた。


「あ、あれ?」


 教室内にいた五人ほどが、突然生えた美顔に何かしらの反応を示す。となりのクラスといえど、悠が八組に立ち寄るのは初めてではないか。


「うわ、極寒王子じゃん。間近で初めて見た」


 そんな織音の無遠慮な言葉にかまわず、悠は結衣を手招いた。結衣が駆け寄ると、教室内の視線から逃れるように廊下へ引っ込む。


 廊下には昼休み特有の、人の声をあれこれとブレンドしたざわめきが響く。

 八組と九組の間の壁にもたれた悠は、結衣をとなりに立たせた。


「LINEだとスッキリしそうにないので、来てみた」

「お手数をおかけします……」

「意向の確認は大事だから。早速駅で待ち伏せした俺相手に、それ心配するのかとは思ったけど」


 おどけた口調に、少しいたずらっ子のような顔。

 彼の目はまっすぐに結衣を見るから、その綺麗な瞳に襟足跳ね跳ねの結衣が映る。


「こっちはしょせん仮彼氏だから。ほんとのとこ、やっぱり佐伯さんは隠したい?」

「そんなことない!」

「じゃあ拡声器持って校内練り歩いてもいい?」

「うぇっ!? それはちょっと遠慮します」


 悠がふはっと笑う。


「古澤くん……遊んでる?」


 じとりとめつけると、悠はしまったという顔で咳払いをした。


「失敬。佐伯さんがあまりに思いつめた顔してるから、つい」

「そんな顔してる?」

「山村先生に授業ラスト十五分で突然ミニテスト配られたときと同等」

「わかる。山センはチョイチョイそういうことする」

「あれさぁ、ギリギリで向瀬受かった俺からすると地獄の淵ぐらいの心境だからやめて欲しい」


 彼があまりに遠い目で窓の外を見るものだから、結衣は我慢できなくなる。


「ンッ……ふふ」


 さっきまで、何がそんなに不安だったのだろうか。

 ほどけた気持ちで悠を見上げたら、彼もふわっと頬をゆるめた。うっすらと浮かべる笑みは、なんとも美しい初春。極地の氷が溶かせそう。海面上昇の危機が今ここに迫る。


「なんかあったら言って。LINEだと顔見えないからけっこう焦った」

「ごめん……こんな些細なことで」

「訊きたいと思った時点で、もう些細じゃないから。遠慮されるより、なんでも言ってくれるほうが嬉しい」


 丸一日経つことなく、結衣は悟った。

 この人は、結衣をとことん甘やかそうとしている。


 パターン木田しか知らない結衣だから、甘やかしに耐性がない。頬から湯気でもたちそうだ。結衣も海面上昇にひと役買ってしまった。北極熊に心中で詫びる。


「でさ。俺のほうはもう、浮かれて報告してしまってて……って聞いてる?」


 熊とアザラシに詫びている間に、話が進んでいた。結衣がちゃんと目を合わせたら、悠は瞬き三つを経て目を細めた。そして、九組の教室に向けて親指をくいくいと揺らす。

 

「今そこで溶けてるの、見える?」


 見れば、確かに人が溶けていた。

 九組の窓枠から廊下に向けて、男子一名が竿にかけられた洗濯物みたいにへちょりと身を乗り出している。


「やー……甘めの青春浴びてもた」


 関西系イントネーションの低い声が、ぼやくように言う。

 大きめフレームの眼鏡。少し癖のある髪を、センターより少し左で分けたアシンメトリーな髪型。襟足がポロシャツにかかるのに、結衣と違っておさまりのいい髪だ。明るいアッシュ系の髪色は、おそらく校則上限の八トーンぐらいの明るさ。結衣は瞬時におしゃれ男子と認定した。


「あれ、高砂たかさご 樹生たつき。そこそこ友人なんで、あいつのこともよろしく」

「お、よろしくなー。なんかあったら協力するし言うてー」


 樹生が片手を上げてにっかりと笑うので、つられて結衣も片手を上げる。


 だったらこっちも紹介するかと、八組方向につま先を九十度回すと、扉から顔を出した織音が涙ぐんでいた。


「織音ちゃん!?」

「あたしのゆいこが……いつくしまれている。尊い」


 ふくく、と背後で悠が笑いをこぼすのが聞こえる。


「ええと。こちら三原 織音ちゃんです。それから」

「あ、仁科は知ってる。同中だから」

「そっか。東第二中?」

「そう。しかも幼なじみだから、クセで名前呼びが出たらごめん」


 驚いて八組をのぞいたら、朱莉はひらひらと優雅に手を振っていた。

 高校生の世界は狭い。


「三原さんも仁科も、どうぞよろしく。皆様から納得いただける彼氏を目指して頑張ります」


 悠の挨拶に、織音が背筋をるほどに伸ばして腕組みした。


「真っ向勝負なその姿勢は評価してやる。あたしと朱莉を倒してみせれ」

「なんの試練やねん、それ」


 最終ラスボス宣言をする織音に、冷静な樹生のツッコミが入る。


「あんたには言ってないでしょうが!」

「いやいや、オレ向けちゃうからってスルーできへんやろ。友人に突然の宣戦布告やぞ」

「それだけゆいこが大事なんですぅ!」

「オレかて、こざが大事なんですぅ!」

「え、樹生。それ、ちょっと俺としては気持ち悪い」

「ひど! こざくん辛辣ぅ!」


 さめざめと泣き真似の樹生。結衣の影からガルガルと威嚇いかくする織音。昼の廊下でわちゃわちゃとやっていると、朱莉が教室から出てきた。


「盛り上がってるとこ悪いけど、昼終わっちゃうわよ」


 ひゃあ、と奇声をあげるのは織音だ。


「あたしまだ食べきってないのに!」

「あかん、オレもや!」


 織音が慌てて引っ込み、樹生が「こざも食いかけやんけ!」と言い残して窓からずるんと姿を消す。騒がしいふたりに肩をすくめた悠が、「じゃあ」と笑って九組に戻っていった。


 その姿を見送っていると、朱莉に肩をつつかれる。


「なんか楽しそうね。結衣」

「……うん。ちょっと楽しいかもしれない」


 朱莉がほっとしたような顔をするから、照れくさくなる。

 教室内から焦った織音の悲鳴が聞こえてきて、朱莉とふたり、顔を見合わせて笑った。


 教室に入る間際、もう一度だけ九組に目をやる。

 いつから廊下にいたのか。ひな子がどこか不安げにこちらを見ていた。けれど、結衣は気付かないふりをして目をそらした。


 * * *


 五時間目終わりの十分休憩。

 悠が席についたまま腕をぐっと伸ばしていると、隣席の川上 ひな子が、この時を待っていたとばかりに顔を向けてきた。彼女はずずっと、椅子ごと悠に寄せる。


「ね、ね、古澤くん」


 悠の腕が、ひな子の指につつかれた。

 ぞわりと不快感が全身を抜ける。思わず大振りに腕を逃がすと、ひな子の小さな悲鳴があがった。


 教室中の視線が、悠とひな子に集中する。

 ひな子の傷ついたような顔から、悠は目を背けて頬杖をついた。教室内の女子からの視線が突き刺さる。小動物をいじめた男をとがめるようなそれだ。

 

 女嫌いだろうが極寒なんとかだろうが別に構わない。悠にとって、それらの噂はとても都合がいい。

 あながち外れてもいない。甘ったるい視線を向けられるのも、軽率なボディタッチも耐え難く不快だ。


 こんな場面も、いつもなら放っておく。

 ただ、この川上ひな子という人は、結衣の幼なじみなのだ。その一点にだけ、悠は配慮する。


「悪い……」


 ぽそりとつぶやく。

 すると、ひな子は気を取り直したように、悠に顔を近づけた。


「ね、結衣ちゃんと付き合ってるの?」


 ひそひそ話がまったく潜んでいない。合唱部仕込みのソプラノが教室内をスカンと抜ける。


 皆が一斉に手を止め、耳を澄ませる。聞きたかったという反応と、なんと怖いもの知らずなという反応が混ざる。

 そんな雰囲気に気づかないのか、ひな子の目は無邪気な期待に満ちてまっすぐ悠をとらえる。


 ――面倒だな。


 なぜそれを、わざわざ悠に問うのか。それもこんな場で、聞えよがしに。

 長考の末、ここは一度突き放すと決める。


「そうだけど、探られるのは迷惑。向こうにも負担かけたくないから余計なこと聞かないで欲しい」


 強い語気。冷たく聞こえる低音。

 悠が高校入学前に身に着けた護身を最大に利用すると、教室内の空気が一気に冷えた。


「あ……ごめんなさ」


 ひな子がしゅんと項垂れたところで、悠の首にガッと腕が絡まった。


「照れ? こざくんったら照れなん?」

「樹生……ちょっと黙ってて」

「えぇぇぇおま、かわいいとこあるやん!」


 樹生の混ぜ返しに乗って、男子がわっと湧く。


「ゆいて誰!」

「ほら、八組の佐伯さん。あの善良の塊みたいな子」

「まじかぁ! あんな善の化身に古澤が迫って大丈夫なんか!?」

「逃げて、佐伯さん逃げてぇ!」

 

 盛り上がりはすぐに女子にも波及して、わずか十分の休憩が大騒ぎになる。じとりと睨みつけると、ウィンクで親指を立てた樹生が悠に耳打ちした。


「警戒する気持ちもわかるけどな。ちょい冷やし過ぎ」


 こういう樹生のおかげで、悠は女子と適度に距離を持ちつつ、男子からも浮くことなく高校生活を送れている。世話になっている自覚があるから文句は言えない。


 悠は仏頂面で頬杖をつき、どうかこの騒ぎが八組まで届いていませんようにと願った。

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